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婚約

それは、静かな朝だった。庭に風が吹き抜け、花の香がふわりと漂う中、蘇家の門前に一台の黒塗りの馬車が止まった。


その前に立つ男の姿を見て、門番は思わず言葉を詰まらせた。


方家の紋付き装束。刺繍の文様は、刑部侍郎としての格式を示すものでありながら、どこか武人の潔さも感じさせる。


「……方無塵様……?」


以前、蓮舞の怪我の件で訪問された無塵を、門番は覚えていた。

無塵の侍従が門番に声をかける。


「ご当主に、お取り次ぎを願います。方家より正式な婚儀の書状と、結納品をお持ちしました」


その言葉に、屋敷内は一瞬で慌ただしくなった。


召使いたちは右往左往し、邸の主――戸部尚書・蘇仲元のもとへ知らせが届けられる。


「……なに? 婚約書?」


帳簿に筆を走らせていた仲元は、顔をしかめた。


「――何の話だ?」


召使いは困った顔で仲元を伺い見る。


「……見せてみよ」


届けられた書状には、確かに「方家嫡男・方無塵」と「蘇家嫡女・蘇蓮舞」との婚約を願う旨が、丁寧な筆致で記されていた。結納品目も、上等品ばかり。


仲元は、書状を読み終えると、深く額に手を当てた。


「……一体、何がどうなっている……?」



客間にて。無塵は、静かに正座していた。普段の武官装束とは異なる、深緑の礼服に身を包み、髪もきちんと結われている。


入ってきた仲元は、まずその装いに一瞬目を見張ったが、すぐに厳しい目に戻る。


「……方殿。これは、一体どういうことだ?」


蘇仲元の声は抑えられていたが、隠しきれぬ驚きがにじんでいた。


「蓮舞殿との婚約をお許しいただきたく」


無塵は静かに頭を下げた。


「……蓮舞が、望んだのか?」


仲元が問いを発した瞬間、奥から現れたのは当の本人――蘇蓮舞だった。


「父上!」


飛び込むように入ってきたのは、少し血色が戻った蘇蓮舞だった。薄紅の衣に身を包みながら、茶会で開いた肩の傷口には、まだ包帯を巻いている。


「父上。私が、方無塵殿との婚約を望みました」


「お前が……?」


仲元は目を見開いた。


蓮舞は一歩前に出て、無塵を一瞥したのち、まっすぐに父を見つめた。


「実は以前、街で方殿をお見かけしてからずっと、方殿を密かにお慕いしていたのです!しかもその後方殿は、私の命を救ってくださいました。それだけではありません。共に危難を潜り、心を通わせ、今では私が最も信を置ける方なのです!」


蓮舞は反論する隙もない早口で話し切る。

無塵は蓮舞の言葉を、驚きと複雑さの入り混じった思いで聞いていた。


「父上、どうか婚約をお許しください」


「蓮舞、お前……どういうつもりだ。先日までは何も言っておらなんだではないか。それに、孟龍は知っておるのか?」


「孟龍には私からきちんと話します。お願いします父上。私は方殿に嫁ぎたいのです」


平静を装っていた無塵の喉が、わずかに動いた。蘇仲元の視線が刺さる中、無塵はなんとか表情を保っていたが、心中は複雑だった。


仲元はチラッと無塵を見て視線を蓮舞に移す。


「お前は趙家に嫁がせるつもりだった。孟龍の人柄は幼い頃から知っておるし、あの子なら、安心して任せられると……それに、孟龍はずっとお前を大切に思ってきただろう?」


蓮舞の目が、かすかに揺れる。


「父上。私は、幼いころから孟龍と仲が良く気も合って、孟龍が私に好意を抱いてきたことも知っています。ですが、私が伴侶としたいのは、方無塵殿なのです」


蘇仲元は、戸惑っていた。孟龍の誠実さも、蓮舞への想いも知っていたからこそ、余計に。


しばしの沈黙ののち、仲元は長く深い溜息をつき、ゆっくりと無塵に向き直った。


「……方殿。私は、娘の選んだ人間を信じたい気持ちがないわけではない。だが、あまりにも急な申し出なので、どう返答して良いのか」


「……承知しております」


「蓮舞は、本当に大切に育てた娘なのだ。親としては、出来る限り苦労させたくはない。──蓮舞は本気のようだから、ひとまず婚約書は受け取るが....」


無塵は、深く頭を下げた。


「.....はい」



その夜。無塵は一人、邸へ戻る馬の上で、蓮舞の言葉と蘇仲元の言葉を何度も反芻していた。


「……私が伴侶としたいのは、方無塵殿なのです」


「蓮舞は、本当に大切に育てた娘なのだ。としては、出来る限り苦労させたくはない。」


心に触れた言葉は、剣の一閃より鋭く、重かった。

無塵は、取り返しのつかないことをしているのではないかとの思いに、身が震えるのを抑えることが出来なかった。

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