困惑と決意
その夜、方宅の離れにて、三人の男が向き合っていた。
灯の落ちた静かな書斎。蝋燭の炎が揺れ、障子に男たちの影をぼんやりと映し出していた。
方無塵は、机に肘をつきながら額を押さえた。普段は寡黙な男が、何度か言葉を探しては止まり、ようやく重たく口を開いた。
「……蘇蓮舞から、婚約の提案を受けた」
一瞬の静寂。そして、それを破るように――
「……ぷっ」
「……」
「ははっ、な、何を言ってやがる……!」
薛環明が、こらえきれず大笑いを始めた。愉快そうに肩を揺らし、茶をこぼしそうになりながら、無塵の顔を見つめる。
「無塵、お前にそんな日が来るとは思わなかったぞ!」
環明の豪快な笑い声が部屋に響く。だが、当の本人は渋い顔のまま、茶を一口含んで黙していた。こめかみには小さく脈が浮かび、平静の仮面の下で何かが渦巻いているのが知れる。
環明は笑いながらも、やがて涙を拭い、声を落ち着けた。
「冷静沈着が取り柄のお前が、蘇家の娘に迫られて逃げ場をなくしたと……まことに突拍子もない女子だな。だが――」
と、指で卓をとんとんと叩きながら、表情を引き締める。
「戸部尚書の嫡女との縁談は、悪くない話だ。蘇家の人脈は広く、朝廷にも顔が利く。お前の目的のためにも、利用価値は高い」
「……それは、分かっている」
と、無塵は低く答えた。その顔には、何かを押し殺すような硬さが浮かんでいた。
無塵――その男は、ただ座しているだけでも周囲の空気を変えるほどの威圧感を持っていた。
背は高く、骨格は引き締まり、動けば風が抜けるように静かで速い。武芸の腕も高く、素手でも十人を屠る力を持つ。
その容貌は、鋭い輪郭と整った面差しに彩られ、ひとたび眼を伏せれば氷のように美しく、ひとたび眼を上げれば、獣のごとき眼光で周囲を圧する。
もし運命が違っていれば、彼はきっと、正義感に厚く、困っている者を見過ごせぬ、心の温かい男だっただろう。
そうであったなら、きっと年頃の娘たちは、彼に夢中になっていたに違いない。
だが、今の彼の瞳には、優しさよりも鋭さが宿っていた。悲劇と憎しみに裏打ちされた眼差し――それは、かつて一家を滅ぼされた男の、復讐に生きる者の光だった。
今の彼は、過去を失い、ただ仇を討つためだけに生きていた。
そんな男に――婚約を願い出る者が現れた。それが、蘇蓮舞だった。
呉毅は無塵の顔を見ながら、腕を組んで静かに言葉を挟んだ。
「というか……蓮舞嬢は主の何をそんなに気に入ったんでしょうね。会ったのも、数えるほど。なのに、あの襲撃の夜も、まるで事前に何かを知っていたかのように、主を庇った」
環明の笑みが少し引き締まり、目元に影が差す。
「妙なところだ。だが、彼女に思惑があろうがなかろうが、近くに置いておく方がいざという時に動きやすい」
無塵の表情が険しくなった。
「確かに警戒は必要ですが……」
呉毅が補うように言う。
「近くにいれば、監視もできます。それに、万が一があっても、主が、彼女に暗殺されるとは思いませんが」
環明がにやりと口元を歪めた。
「まぁ、“閨”では油断禁物だが?」
「環明!」
「冗談半分、本気半分だ。美女の膝枕で毒を盛られた英雄なんぞ、歴史上には山ほどいるからな」
呉毅も、苦笑しながら頷いた。
「まあ……結論としては、悪い話ではありませんね」
無塵は、その場でついに頭を抱えた。
分かっていた。
この話が、自分たちの目的――復讐、そしてそのための戦略において、“極めて美味しい”話であることは。
だが、それでも。
自分がその婚約を受け入れるということが、ただの“打算”であっていいのか。
彼女の目を見た時の、あのまっすぐな想い。それを、ただ利用するだけで、本当に済むのか。
──そして、復讐という業の中に、彼女を引き込んでしまうことに、恐れのような感覚を憶え、言葉にならぬ何かが、胸の中をぐるぐると渦巻いていた。
「無塵」
環明が急に声を低めた。
「お前、蘇蓮舞が嫌いなのか?」
「それは──」
嫌いなはずがない。あの凛とした横顔。未だかつて見たこともない美貌。言葉少なに、人を導くあの聡明さ。痛みに顔を歪めながら、微笑を崩さぬ強さ。そして何より、命を尊ぶ善良さ。
そのすべてが――眩しいほどだった。
環明は、肩をすくめて言う。
「俺なら、あのような美女に迫られたら、喜んで受け入れるがな」
「……お前は単純すぎる」
呉毅が苦笑しながら突っ込むと、環明はふっと笑った。
「単純で何が悪い。無塵。お前が断るなら、代わりに俺が名乗り出てもいい。あれほどの女子を、手放すのは惜しいだろう?」
「……ふざけるな」
無塵の声が室内に響いた。自分でも、驚くほどの低さだった。
環明と呉毅が、意味深な視線を交わす。
「ほう。随分と、激しい反応だな」
「……それは」
なぜ、環明が蓮舞に近づく想像をしただけで、腹が立ったのか。
無塵は、自分の中のその感情を、上手く扱えずにいた。
「……分かった。婚約すればいいのだろう……」
その言葉を口にしたとき、自分の声が思っていたより乾いていたことに、無塵自身が気づいた。
環明が笑いを噛み殺しながら肩をすくめた。
無塵は黙って立ち上がり、背を向けた。ゆるやかに歩きながら、壁際の窓辺にたどり着く。
静かに、しかし深く、指を髪に差し入れるようにして額を覆う。
重たくもない頭だ。ただ、その中で言葉にならぬものが、ぐるぐると回っていた。
理屈では分かっていた。
蓮舞からの提案は、こちらにとっても合理的で、戦略的で、そして――有益なものだった。
環明の言う通り。呉毅の冷静な意見も正しい。
だが――
(……本当に、これでいいのか)
戸部尚書の娘。皇太子の妃に望まれるほどの品格と世評。彼女が傍にいれば、政に通じる道が開かれ、敵を知るにも、動きを制するにも、計り知れぬ価値がある。
──だというのに、なぜこれほど、胸が重たいのか。
彼女はあの夜、自分の腕の中で震えていた。自分を庇い受けた傷から血を流しながら、それでも大丈夫だと微笑んでいた。
無塵の掌には、あのときの体温が、まだ残っていた。あの夜の身震いするような恐ろしさの正体を、まだ無塵自身が理解していない。
(打算で……その手を取って、いいのか)
(彼女は……何も知らない。俺が何者かも。俺が何を背負い、何を目指しているかも)
(復讐という言葉で、何人を騙し、何者を葬ってきたか――)
合理的に、打算的に判断すれば、迷う余地などない。だが、理では測れぬ何かが、胸の奥で疼いていた。
それが何という名の感情か、彼には分からなかった。ただ、ただ厄介で扱いようのないそれが、言葉にならぬまま、心の片隅に居座っている。
ふと視線を上げると、環明と呉毅は既にそれぞれ席を立ち、室の外へ出ていた。
誰もいない空間で、無塵はゆっくりと背を椅子に預け、ただ、月の光を見上げた。
遠く、白い光が障子の縁をなぞっていた。
方無塵は、静かに目を閉じた。
その胸の奥で揺れていたのは、恐れと、温もりと、そして――名前のつけようもない、幼すぎる感情の片鱗だった。




