投資
翌朝、陽が昇りきる前から、蘇蓮舞はすでに身支度を整えていた。
薄緑の外衣に、控えめな織の帯。化粧も最小限。だが、目元には燃えるような決意が宿っていた。
この日、彼女が向かったのは都の南、市の裏手にひっそりと店を構える小さな織物問屋――「灼織」。
都の南、商人街の外れ。ひときわ地味な店構えの織物問屋「灼織」は、朝の陽も射し込まぬ狭い通りにひっそりと佇んでいた。
軒下には誰の姿もなく、暖簾もほつれて揺れている。中に並ぶ反物は手入れこそ丁寧だが、客の気配はない。崩れかけた帳簿棚の横で、沈灼京は独り帳面を繰っていた。
──店は、風前の灯だった。
そこへ、静かに戸を叩く音がした。
「失礼いたします」
声と共に現れたのは、淡い青の外衣を纏ったひとりの若い女性。蘇家の令嬢・蘇蓮舞だった。
「……いらっしゃいませ」
沈灼京は軽く頭を下げつつも、少し警戒を帯びた眼差しで彼女を見やった。
蓮舞は受付で唐突に懐から革袋を取り出し、机の上に置く。
「ここに五十両ございます。今日、私はそれを“投資”しに参りました」
「……投資ですか?」
「ええ。あなたに、です」
沈灼京の目が一瞬だけ揺れた。だがすぐに顔を戻す。
「申し訳ありませんが、当店は今――持ちこたえられるかどうかの瀬戸際です。投資を受ける価値など……」
「わかっています。それでも良いのです」
蓮舞は、沈灼京の目をまっすぐに見据えた。
「私は店を救いたいのではないのです。ただ、情報を提供し、あなたに投資します。その情報を使って商いをしていただき、得た利益の三割を、私に分けてほしいのです」
「……三割?」
沈灼京は思わず問い返した。
「残りの七割中、四割をあなたの取り分として、残った三割で投資運用してほしいのです」
「.....儲けを確信されているような話ぶりですが」
「...ええ」
蓮舞は穏やかに、だが決然と口を開いた。
「本当にその通りになったとして、元手を出していただき、情報も提供していただけるのに、それでこちらに四割とは……あまりに、得すぎる話です」
「いいえ、それで構いません」
蓮舞の声はきっぱりとしていた。
「ただ、私があなたの後ろ盾ということは、知られないようにしてほしいのです」
沈灼京はしばし沈黙し、袋に視線を落とした。革袋は使い込まれており、貴族の娘そが使うような品ではなかった。
「……ありがたく、受け取ります」
やがて彼は頭を深く垂れた。
「では、最初の情報をお渡しします」
蓮舞は小さく微笑み、懐から書きつけを取り出した。
「広西の青絹を、今のうちに仕入れてください。数日のうちに、必ず値が上がるはずでふ。間に合えば――値は3倍以上にはなります」
沈灼京の目が細められる。まるで相場を透かして見るかのような視線。
(これが確かな情報でもそうで無くても、私にはもう他に道はない)
「……信じてみます。値が動けば、ご報告します」
蓮舞は静かに立ち上がった。
「では」
そう言って店を出ていく蓮舞の背に、沈灼京は黙して礼を送った。
春風が、閉じかけた扉をかすかに揺らしていた。運命の扉が、確かに開いた音が、そこにあった。




