第一章 黎明の誓い
学舎の門をくぐったとき、春風が一陣、蓮舞の髪をなでた。
遠くで燕の群れが旋回し、木立の向こうには朝露を帯びた庭園が広がっている。
ここは、かつて確かに存在していた場所。何の悲劇も、裏切りも、まだ誰の心にも影を落としていない時代。
「おはよう、蓮舞!」
澄んだ声に振り返ると、墨無涯がまっすぐに歩いてきていた。長身で端整な顔立ち。凛々しくも柔らかい目元。制服の襟元はきっちりと締められ、昔から変わらぬ几帳面さがうかがえた。
「朝から剣の稽古かと思ったが……今日は遅かったな」
「ええ。少し、夢を見ていたの。変な夢だったわ」
蓮舞が答えると、墨無涯は眉をひそめて心配そうに覗き込む。
「悪い夢か?」
「……いいえ。大切な夢。忘れないように、そっとしまっておくわ」
言葉の意味をはかりかねるように首を傾げた彼の背後から、ひょこりと元気な声が飛び込んできた。
「蓮舞姐さま、この間話していた子猫が生まれましたわ!」
墨花蘭。無涯の妹で、蓮舞と同年の明るい少女だった。頬をふくらませながら近づいてくる姿は、まるで陽だまりのなかの小鳥のよう。
「おはよう、花蘭。今日も髪型が可愛いわね。子猫...」
(そんな話題をしていたことをすっかり忘れてしまったわ)
「ほんと? 母様に三回やり直されて、ようやくこれに落ち着いたのよ。こんなことなら、いっそ蓮舞姐さまみたいに結ってしまえばって言ったら叱られたわ」
「私のは実用優先だからね。おしゃれとはほど遠いの」
そんなたわいもないやり取りに、花蘭はくすくすと笑い、墨無涯は小さく肩をすくめて微笑んだ。
そんな三人を、少し離れた東廊の影から、数人の貴族家の淑女たちが見ていた。
「また蘇家の娘……」
「墨家の兄妹にも好かれてるし、楊殿下まで……」
「それに、趙家の孟龍様まで」
声を潜めているつもりでも、蓮舞の耳には届いていた。だが彼女は笑って受け流す。
「おーい?」
と、少し遅れて駆けてきたのは、背の高い青年――趙孟龍だった。蓮舞の幼馴染で、朗らかな笑顔と、文にも武にも長けた青年だった。真っ直ぐな好意を包み隠さず、今日もまた目を輝かせて彼女を見つめていた。
「蓮舞、今日は花を持ってきたんだ。屋敷の庭で咲いたやつ。君の好きな白梅が混じってたから」
「ありがとう、孟龍。……白梅、懐かしいわね」
「懐かしい? 去年も同じこと言ってたぞ。忘れたか?」
蓮舞は笑い、花を受け取った。かすかに香る梅の匂いに、胸の奥がちりりと疼く。
――孟龍。
「蓮舞。俺、いつか君の父上に正式に話をしに行くつもりだよ」
「孟龍……」
「まだ早いって、いつも言われてるけど」
真っ直ぐな瞳だった。幼馴染のそれではなく、ひとりの男の意志を持った眼差し。
蓮舞はその言葉を否定もしなかった。周りに人が多く、孟龍の面子を思い、ただ静かに頷いた。
すぐ隣で花蘭が肘でつついてくる。
「まあまあまあ、これはもう縁談秒読みですね?」
「花蘭!」
「だって、ねえ兄様?」
墨無涯は黙っていた。ただ、笑っているようでいて、その目の奥に、かすかな揺らぎがあった。
蓮舞は気づいていた。まだ誰も知らないこの世界の裏側に、やがて訪れる闇があることを。そしてそれを変えるには、この小さな光景を、一つひとつ、大切に編み直していかなくてはならないことを。
――始まりの日々。
だがこの何気ない朝こそが、彼女にとって、最も愛おしい「日常」だった。
────
中庭の木立を風が通り抜ける。
学舎の一角がざわめいたのは、朝の稽古が始まる直前だった。
「……また来たわね」
誰かが、小さくそう呟いた。
門の奥から現れたのは、深紅の衣に金糸の刺繍を施した若者。
皇太子・楊玄昌。都にその名を知らぬ者のいない男だった。
護衛を従えていながらも、彼の足取りはあくまで堂々と、むしろ誇示するように学舎の庭を踏みしめていた。
「蓮舞」
呼びかけに、蘇蓮舞はゆっくりと振り返る。
「……殿下。お早いご来訪ですね」
淡く微笑んでみせるその態度は、あくまで礼を失せず、しかしどこか距離を置いたものだった。
「早い? いや、むしろ遅いだろう。五日ぶりに顔を出せば、この学舎も随分空気が違って感じる」
「そうですか? 私は変わらず、剣を振るっていただけですけれど」
「それがいいのか悪いのかは、意見の分かれるところだろうな」
冗談のように言う口ぶりに、蓮舞は微かに笑った。
この男の言葉は、いつも二重に刺さる。
前世で、蓮舞の家を滅ぼし、彼女自身を後宮へ閉じ込めようとした時でさえ。
──それでも今は、まだ何も起きていない。
「殿下。剣術の講義が始まりますので、私もそろそろ……」
蓮舞が会釈しながら離れようとすると、楊玄昌が一歩前へ出る。
「また逃げるのか、蘇蓮舞」
声は低く、わずかに棘を含んでいた。
「逃げてなどおりません。ただ、やるべきことを果たしているだけです」
「俺を避けているのは、気のせいではないよな。……皆は媚びへつらってくるのに、おまえだけは昔からずっとそうだ」
「私は、媚びることが苦手ですので」
楊玄昌は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「いいだろう。今日は長くは居ない。妹が先生に用があると聞いて、ついでに立ち寄っただけだ」
その言葉に、蓮舞は一瞬だけ視線をやわらげた。
──妹、長公主。兄弟のことだけは、彼は確かに大切にしていた。
あの冷酷な皇帝となった後でさえ、彼は長公主だけには柔らかい顔を見せていた。
「ご公務もお忙しいでしょう。どうかお気をつけてお戻りください」
蓮舞がきれいに頭を下げると、楊玄昌は、皮肉ともつかぬ口調で返した。
「……おまえがそうやって、俺に敬語を使うようになったのは、いつからだったか。面白くもない」
それだけ言い残して、彼は踵を返した。
護衛の少年たちが慌てて従う。
その背を見送りながら、蓮舞は静かに拳を握った。
──今度こそ、彼を皇帝にさせてはならない。
前世では、彼の即位がすべての悲劇の起点だった。奸臣・孫文景に操られ、薛を腐らせ、蘇を滅ぼし、蓮舞の人生を奪った男。
すべてを変える。その決意が、静かに燃え上がっていた。
【再会】
廊下は深い影に沈んでいた。
灯りは届かず、ただ蓮舞の足音だけが、静寂を小さく刻んでいた。
礼部の裏手、前世の記憶を辿り、普段は誰も寄りつかぬその禁域に、彼女は静かに忍び込んでいた。
──孫文景の不正。それを暴く手がかりが、きっとこの先にある。
すると、古びた壁の向こうから、低い声が漏れ聞こえた。くぐもっていたが、ひとつひとつの言葉が毒のように耳に染みた。
「……絹糸を積んだ官船を、中洲で転覆させろ。事故に見せかけて……」
「ですが、朝廷の献上品を……」
「回収して隠せばいい。市場は混乱し、値は跳ね上がる。その隙に我らが品を放出するのだ」
蓮舞は息を殺し、耳を澄ませた。
──その内容に衝撃を受ける。官の絹を私物化し、国の富を食い潰す陰謀。
けれど声は、だんだんと遠ざかるように小さくなっていく。
蓮舞は壁沿いに身を滑らせ、音を立てぬよう歩を進める。
そして角を曲がった瞬間。
──ぶつかった。いや、違う。そこに、誰かがいたのだ。
次の瞬間、冷たい刃が喉元に押し当てられた。
「……誰だ」
闇の中から現れた男の声は低く、鋭く、命を選別する刃そのものだった。
蓮舞は動けなかった。
刃のせいではない。その声が、蓮舞の心を、懐かしさに染まる過去へと誘い、刹那、深奥をやさしく撫でていく。
細く差し込んだ月光が窓から流れ込み、彼の顔を照らす。
方無塵。
その瞬間、蓮舞の胸が、ひときわ強く脈打った。
──ああ、まさか
幾度も思い描いた面差し。
夢の中で何度も手を伸ばし、届かぬまま目覚めた、あの顔。
夜ごと心の奥に浮かんでは、手の届かぬ場所にいたその面影が――今、目の前にいた。
今の無塵の目は鋭く、何も映さない氷のようだったが、そんなことは何の問題もならないというように、蓮舞の瞳は懐かしさに歪んだ。
だが無塵のその手にある短剣は、寸分の躊躇もなかった。あと少しで、蓮舞の命など容易く断てる距離。
「……動くな」
無塵は蓮舞の腕を強く掴むと、声もなく彼女を引いた。蓮舞は素直に着いて行った。
そして、その場から素早く歩き出す。廊下を抜け、裏庭の小径へ。
開けた場所に出ると、月がちょうど天の中央に昇っていた。
冷えた空気のなか、二人きりの庭に、月光が静かに降り注いでいた。
無塵は蓮舞を振り返ると、睨みつけるように問いかけた。
「……何者だ」
その声は相変わらず冷たく、容赦がなかった。
「私は……」
蓮舞は彼の顔から目を離せなかった。
懐かしくて、痛いほどに。こんなにも近くにいる。
「迷ってしまっただけです」
無塵の目が細められた。
「おまえの名は」
「……蘇蓮舞」
「蘇家の?」
無塵は、蓮舞を隅々まで見た。
そしてその時、ようやく、彼の視線が戸惑いを含んだ。
──美しい。月の下、冷たい空気の中でもなお咲く白梅のように。
凛として静かで、それでいてどこか壊れそうな華奢さがある。
その眼差しは、何かを懇願するでもなく、ただ、深く哀しみを湛えていた。
瞳の奥に宿った涙が、月明かりに煌めいていた。
無塵が驚いて尋ねる。
「……なぜ泣く」
蓮舞は、何も言わなかった。
月白い中庭に薄く靄が漂い、二人の吐息だけが静かに揺れていた。
方無塵は短剣をわずかに下げたまま、なお鋭い眼差しで蓮舞を射抜いている。
蓮舞は胸の奥に渦巻く記憶と感情を押しとどめ、静かに視線を上げた。
「方無塵様ですね」
無塵は驚いて蓮舞をさらに怪しむ。
「なぜ名前を知っている?」
「父から聞いたことのある風貌に似ておりましたので。当たってましたか?」
「蘇殿が?」
明らかに疑っている声で無塵は蓮舞を睨みつける。
「刑部で“方無塵”の名を知らぬものはいないとか。才覚と廉直さで有名な方だと聞きました。そして、いつも赤色の腰紐を帯びていると」
噓ではない。前世でも今世でも、彼はいつも才を隠し切れない男だった。
無塵の眉がわずかに寄る。
無塵は蓮舞の、まだ涙の乾かないその瞳をじっと観察した。
そこには恐怖ではない、得体の知れぬ切なさが滲み、彼の理性を微かに揺らす。
「先ほどの声のことは忘れろ。命が惜しいなら、これ以上深入りするな」
彼は短剣を鞘に収め、月明かりの中で背を向けた。
そう言い残し、闇へ溶けるように去っていった。