密偵の集い
曇り空が鈍い光を落とす午後、都の外れにある廃寺の一角に、二人の男がひそかに対峙していた。
その一人――方無塵は黒衣の裾を風に揺らしながら、黙して相手を見つめていた。
男の名は陳范。表向きは薛国軍部に仕える中護軍の将校。だがその正体は、無塵と同じく安国の密偵の一人だった。二人は表立って関わることのない役目を担っていたが、いざというときは互いに頼るほかなかった。
「……倉湾の件、聞いたな?」
無塵が低く問うと、陳范は膝を組んだまま、懐から煙管を取り出して火をつけた。紫煙がゆっくりと空にほどけていく。
「六百両の消失、だろ?」
「そうだ。薛の軍部から忽然と消えた。誰が動いた?」
陳范は肩をすくめる。
「俺の任務ではない。金の流れは別の手だ」
「……安国の動きではないと?」
「俺の知る限りではな」
短く、しかし確信ある答えに、無塵はわずかに目を細めた。
「本当か?」
無塵の目が鋭く光る。だが陳范は揺るがず、笑いすら浮かべていた。
「俺がそんな痕跡を残すほど、間抜けだと思うか?」
(やはり……孫文景か)
それが確信へと変わる。薛国の高官の中でも、裏で動くことを厭わぬ男。陰で兵を動かし、帳簿を改ざんし、必要とあらば一門すら売り捨てるような男。
「……このままでは、軍内で粛清が始まる。無関係な者が処されるぞ」
「止めたいのか?...なら補填してみるか?」
冗談めいた調子で言った陳范だったが、無塵の目は真剣だった。
「六百両。出せるのか?」
「親王の許可があればな。だが理由が要る。『薛国を目に見える形で弱体化させる』ような理由がなければ、許可は下りんだろう」
「……だろうな」
無塵は静かに目を伏せた。情報か、政治的な関与か、あるいは――。そうした駆け引きを、精緻に組み立てなければならない。
しばしの沈黙ののち、陳范が視線を横にそらして言った。
「そういえば、王荀のやつ、お前のことを目の敵にしてるぞ。何かあったか?」
無塵の唇がわずかに歪んだ。
「奴とは昔から剃りが合わない。それだけのことだ。何をしたわけでもないのに」
「“何をしたわけでもない”ってのが、あいつにとっては気に入らないんだ。お前が親王の信頼を得ているのも気に入らんのだろう。隙を見せれば嵌めにくる。注意しろ」
「……心得る」
無塵は短く答え、立ち上がった。
背を向けたまま、薄く告げる。
「陳范。次に会うときに、可能なら平成王の兵力の詳細が知りたい。俺も、出来る限り材料を揃えておく」
「あぁ、調べておく。...お前の材料は、だいたい危ない橋ばかりだがな」
陳范の苦笑が背に届く。無塵は振り返らず、風を裂くように去っていった。
雲の向こうでは、まだ陽が落ちきらず、陰謀の気配だけが静かに濃くなっていくのだった。