決意
茶会が終わり、日も傾き始めた中庭には、風がしずかに若草を揺らしていた。香がほのかに漂う石畳の上を、蓮舞は一人、ゆっくりと歩いていた。目を伏せ、何も語らぬその姿には、昼の賑わいの余韻も、女たちの争いの刺も、すでに残ってはいなかった。
その背後から、控えめに足音が近づいた。
「蓮舞」
声の主は第二皇子・楊懐古だった。陽の逆光に照らされ、彼の影が蓮舞の足元に伸びた。
「……楊懐古」
蓮舞は安心したように振り返って微笑む。風が袖を翻し、彼女の横顔を撫でた。
「皇后様が、今日の茶会を密かに御覧になっていた」
懐古は、真剣な眼差しを蓮舞に向ける。その表情には、軽い冗談も、宮中の噂話に乗るような気軽さもなかった。
「……その上で、君を“皇太子妃に相応しい”と、仰せになったそうだ」
蓮舞の睫毛がわずかに震える。
「……そう」
「危ういと思う」
懐古は一歩、蓮舞の傍に寄った。
「兄上の眼を君も見たはず。欲するものは、必ず手に入れる人だ。ましてや、皇后が後ろ盾に立てば、誰もその流れを止められないぞ」
「……そうね」
静かに、だが確固たる調子で、蓮舞はそう言った。
懐古は目を伏せた。彼女の意志の強さは知っていたが、それがどれほどの重圧を伴うものかもまた、よく知っている。
「蓮舞。君が後宮に縛られる姿など見たくないぞ」
「もちろん。そうはならないわ」
蓮舞はかすかに微笑んだが、その瞳の奥には、複雑な迷いの色が揺れていた。
(まだ……そんな時期ではないはずだった)
前世の記憶が、頭の中に鮮明に蘇る。皇太子が蓮舞を側室に迎えようとしたのは、もっとずっと後。墨無涯がそれを知り、「形だけでも盾となる」と蓮舞と婚姻を結んでくれたのも、もっと後のことだった。
だが――
(今、時が狂い始めている)
皇后の玄、皇太子の執着、そして無塵への襲撃――すべてが前世と違う。何かが、確実に変わり始めている。
その夜、蓮舞は眠れなかった。
灯を落とした部屋で、帳の向こうに座したまま、長い時間を静かに過ごした。蝋燭の火がかすかに揺れ、彼女の影を壁に映していた。
(どうすれば、前世と違う道を辿れる……?)
皇太子の関心をそらし、蓮舞自身を政治の駒から解き放つには、それに代わるだけの“確固たる別の道”が必要だった。
(そして……あの戦を、止めなければ)
前世、無塵が背負った復讐。その痛みが引き金となって、安国と薛国は衝突した。無塵が、あのとき復讐の鎖から解かれていたなら。心の中で誰かが叫んだ。
(もう、同じ悲劇は繰り返さない)
一つの決意が、心の中で静かに輪郭を持ち始める。
翌朝、曇天の下で、蓮舞は一人、馬を駆っていた。行き先は、方宅。
彼に会いに行くのは、賭けだった。
彼がこの提案を受け入れてくれれば、復讐という呪いを、彼の心からほどくための一手となるかもしれない。
だが同時に、それはもう一つの賭けでもあった。
――前世で果たせなかった愛を、今世で試すための。
蓮舞の心には、まだ迷いがあった。けれどその瞳には、確かに光が宿っていた。
雲がゆるやかに流れる空の下、馬の蹄音が静かに地を打ち続けていた。
それは、ただの一人の女が、国の運命を変えようとする、静かなる決意だった。