正義という仮面
夕暮れの光が、刑部の庁舎を柔らかく染めていた。騒ぎも去り、人々の足音が遠のいた静けさの中、墨無涯は重い足取りで庁舎の奥へと向かっていた。
無塵の執務室の前で一度だけ深く息をつき、戸を叩く。
「……入れ」
中から聞こえた無塵の声は落ち着いていて、どこか疲れを帯びていた。
無涯が入ると、無塵は机に向かっていた手を止め、こちらへ穏やかな視線を向けた。
「墨殿か」
「先ほどは、手助けできず恥ずかしい限りです」
「……見ていたのか」
「はい。──あの場に立つお姿に、言葉を失いました。……正しさとは、こうも静かに人の心を打つものかと、深く胸に残りました」
無涯は静かに席へとつく。その眼差しには何か言い出しづらいものを抱えたような翳りがあった。
それを察した無塵は、黙って茶を注ぎ、その湯気の向こうから柔らかく言葉をかける。
「何かあったか?」
「……はい。例の件ですが、失敗に終わりました」
「……帳簿のことか」
無塵の表情はほとんど変わらなかったが、その声にはわずかな緊張が走った。
「昨日、小梅殿を通じて玉栖殿に駅館に来てもらうよう頼みましたが……玉栖殿はその前夜、突然の病で亡くなられたそうです」
無塵の目が細まった。驚きというより、想定の内という静かな受け止め。
だがその沈黙の奥には、すでに冷ややかな推察が巡っている。
(都合が良すぎる。……情報が漏れたか。いや、始めから監視されていたのか)
「……そうか。残念だな。帳簿が手に入れば、仕掛ける手かがりにはなったかもしれないのに」
「申し訳ありません」
「いや、君のせいではない」
無塵は微かに首を振った。表情に怒りはない。むしろ、同情のような静けさだった。
墨無涯は唇を引き結びながら、俯いた。
「方殿……頼まれたことは失敗してしまいましたが、私は、墨家を守りたいのです。もし他に、私にできることがあるなら、どうか遠慮なくお申しつけください」
無塵は静かに茶を啜った後、そっと茶碗を置いた。
(最初から望みは薄かったが、後宮での殺しも厭わぬとは)
無塵の胸には、かつて一族を冤罪で滅ぼされた記憶が燻っていた。
その裏には、孫文景という巨悪の名。復讐の火を絶やすことなく、彼は安国の密偵としてこの地に根を下ろしている。
だが、孫文景に届く地位までのしあがるためには、今は正義の官吏。その仮面を脱ぐわけにはいかない。
「……墨無涯」
「はい」
「実のところ、金の行方を探るのは、思っていた以上に厄介だ。証拠は既に消されているし、手を伸ばせば、逆に貶められるかもしれない」
無塵は真顔で告げた。
「そもそも、金が墨家から消えたとされていること自体が、誰かの策略である可能性が高い。だが、それを証立てる術が、今のところ存在しない」
「……そうなると、父はこのまま罪を負うことに……?」
「それだけは避けねば。……だから、考えている」
無塵は卓上の巻物に視線を落としたまま、低く続けた。
「証を得るのではなく、そもそも金を紛失した事実を消せば良い。――つまり、紛失した六百両を、こちらで補填するしかない」
「……!」
無涯は目を見開いた。
「六百両など……そんな大金をどうやって……」
「それを思案している。安易な借財は後に尾を引く。墨家を守るための金が、逆に君の一族を縛ることになっては本末転倒だ」
無塵の目が、鋭く光る。
「だが、蓮舞殿の願いでもある。……彼女は、君を心から案じているようだ。だから私も、できる限りのことはするつもりだ」
「……ありがとうございます」
墨無涯は深く頭を下げた。無塵の言葉には、確かに偽りはないように感じた。
だが、その誓いの奥に秘められたもう一つの顔に、彼はまだ気づいていなかった。
夕陽はすでに庁舎の窓を離れ、静かに夜が近づいていた。
闇の中、正義と復讐の狭間に立つ男の影が、深く地に落ちていく。