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取引と疑念

襲撃を受けてから三日が過ぎた。方無塵は自分の住まいで、李書記から聞いた話を反芻していた。


後宮の女官・玉栖が持つ帳簿。それは孫文景の不正を暴く鍵となるものだった。しかし、後宮は男子禁制の聖域である。無塵のような素性の知れない男が足を踏み入れることなど、到底不可能だった。


頭を抱えて思案していると、戸を叩く音が響いた。


「無塵、いるか?」


薛環明の声だった。無塵が戸を開けると、いつものように軽やかな足取りで環明が入ってきた。


「何をそんなに難しい顔をしている?」


環明は無塵の表情を見て、からかうように言った。


「……少し厄介な問題があってな」


無塵は簡潔に事情を説明した。


環明は腕を組んで聞いていたが、話が終わると軽く手を叩いた。


「なんだ、それだけのことか。簡単じゃないか」


「簡単?」


「蘇家のお嬢様なら、後宮への出入りも可能だろう。名門の令嬢なら、それなりの人脈もあるはずだ」


無塵の表情が険しくなった。


「それは――」


「彼女に何かメリットを提示して、手伝ってもらえばいい。お前を身を挺して庇うくらいなのだから、お前にかなり惚れ込んでいるらしいしな」


環明の軽い調子に、無塵は鋭い視線を向けた。


「ふざけるな。そんな危険に彼女を巻き込むわけにはいかない」


「じゃあ、他に何かいい手でもあるのか?」


環明の問いに、無塵は答えられなかった。


「どちらにしても、彼女の傷が癒えてからの話だ」


無塵はそう言って、環明の提案を突っぱねた。


─────


それから二日後、無塵のもとに思いがけない来客があった。墨無涯――蓮舞の友人である。


「方殿、お忙しい中恐縮です」


無涯は丁寧に礼をすると、懐から一通の手紙を取り出した。


「蓮舞からの手紙をお預かりしております」


無塵は手紙を受け取りながら、無涯の表情を窺った。

手紙は、軍部で何か困った事件が起きた時に、刑部の方殿を訪ねて渡すようにと、蘇蓮舞が無涯に事前に渡してくれたものだった。

当時は蓮舞が何を言っているのか分からなかったが、蓮舞のことだから何かを察して事前策を伝えてくれたのだと、無涯は信じて疑いもせずに手紙を保管していたのだった。


無涯は整った顔立ちをしているが、どこか困惑したような色を瞳に宿していた。


「突然で恐縮ですが、方殿にお願いがあるのです」


言葉は丁寧だったが、わずかに、蓮舞への想いを胸に秘めている男の、戸惑いが滲んでいた。


無涯には、蓮舞と無塵にどのような繋がりがあるのか、まったく見当がつかなかった。蓮舞が信頼を寄せる人物といえば、ごく限られた者たちだけ。その中に刑部の人間がいるとは思いもよらなかったのだ。


だが、蓮舞が信用している方で、且つ刑部に属している方であれば、捜査の腕は確かなのだろう。無涯は深く息を吸い込むと、覚悟を決めて話を切り出した。


「ここだけの話にしてもらいたいのですが」


声を潜め、周囲に人影がないことを確認してから続ける。


「軍部の資金が紛失したのです。その在り処を突き止め、誰の仕業なのかを調べたいのですが、恥ずかしながら何から手をつけて良いか分からず......方殿の手腕をお借りできればありがたく」


無塵は表情一つ変えることなく、蓮舞からと渡された手紙の封を切った。蝋印が剥がれる小さな音が、静寂の中に響く。


手紙には蓮舞の流麗な筆跡で、こう認められていた。


(手紙を渡したのは墨無涯、という私の大切な友人です。助けてあげてほしいのです。きっと将来的にはあなたの力にもなる人です)


無塵は手紙を丁寧に折り畳み、懐にしまいながら、じっと無涯を見つめた。その瞳は冷徹で、まるで無涯の心の奥底まで見透かすようだった。


「そのような失態、もし私が他へ漏らせばそなたの父上は罷免ではすまないのでは?」


低い声音に、無涯の背筋が凍る。確かにその通りだった。軍部の資金紛失など、ただの不祥事では済まされない。父の地位どころか、一族の名誉にも関わる重大事だ。


「......その通りです」


無涯は拳を握りしめ、それでも真っ直ぐに無塵を見返した。


「ですが、蓮舞が方殿を、信頼に足る方だから安心して相談してみろと言うので」


「他人の言葉を間に受けるのか?」


無塵の声には、試すような響きがあった。


「蓮舞の言葉だからです」


無涯は迷うことなく答えた。その瞬間、無塵の目に一瞬だけ、何か柔らかなものが宿ったような気がした。


「なるほど?」


無塵は心の中で呟いた。


(蘇蓮舞......絆の固い友人が多いな)


しばしの沈黙の後、無塵は冷静に言った。


「軍部の件なら、本来は軍部内で解決すべき問題だろう」


「おっしゃる通りです。しかし――」


無涯が言いかけたとき、無塵が手を上げて言葉を遮った。


「取引をしよう」


その声は静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。


「蓮舞殿の頼みだから手を貸してやる。その代わり、こちらにも頼みがある」


無塵の瞳が、月光の下で鋭く光った。

無涯の眉がわずかに動く。


「後宮に玉栖という女官がいる。その者から、ある帳簿を受け取ってきてほしい」


「帳簿、ですか?」


「孫文景が後宮の資金を私的に流用している証拠だ」


無涯の表情が変わった。孫文景といえば、宰相だ。この男は宰相の不正を調査しているのか?


「……それは、かなり危険な依頼ですね」


「軍の金を探るのも同じく危険だろう。互いに利のある取引だと思うが」


無涯は考え込んだ。無塵の態度には、どこか冷たいものがあった。蓮舞の頼みだから手を貸すという言い方に、彼は胸の奥で強い違和感を覚えた。


(蓮舞と、この男は一体どのような関係なのだろうか……)


無涯は長い間、蓮舞への想いを胸に秘めてきた。だからこそ、彼女の交友関係についても気にかけていたのだが、この無塵という男の存在は全く知らなかった。


いつから、どこで知り合ったのか、どの程度親しいのか――全てが謎だった。


一方、無塵は無涯の困惑を感じ取っていた。


しかし、彼なら蓮舞同様、長公主とも付き合いがあるはず。女官との接触も可能だろう。

蓮舞を危険に晒すことは避けたい無塵にとって、墨無涯は都合の良い取引相手であった。


「……分かりました。お引き受けしましょう」


無涯はそう答えたが、心の中では複雑な思いが渦巻いていた。無塵への微妙な感情と、蓮舞を想う気持ち、そして朝廷の暗部に足を踏み入れることへの不安が入り混じっていた。


「ただし」


無涯は付け加えた。


「この件、蓮舞殿には内密にしていただきたい。彼女は体調を崩しているので、余計な心配をかけたくないのです」


彼の言葉には、蓮舞を気遣う純粋な想いが込められていた。彼女の体調不良を心配する無涯にとって、それ以上彼女に負担をかけたくはなかった。


「もとより彼女に伝えるつもりはない」


無塵は短く答えた。彼もまた蓮舞を危険に巻き込みたくないという思いを抱いていたが、その理由は無涯とは全く違うものだった。


あの夜の出来事――彼女が自分の身を挺して庇ってくれたこと、その理由への戸惑いが、彼の胸に重くのしかかっていた。


二人の男は、それぞれの思惑を胸に危険な取引を成立させた。一人は報われぬ恋心を抱きながら彼女を案じ、もう一人は彼女の真意への戸惑いと、復讐という大義を抱えたまま。

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