蘇仲元の怒り
翌日、無塵は正装して蓮舞の家を訪ねた。門前で名乗ると、召使いが彼を中へと案内した。広大な庭を通り抜け、主屋へと向かう途中、彼は昨夜の事件を反芻していた。
戸部尚書である蓮舞の父、蘇仲元は既に客間で待っていた。厳しい面持ちで、無塵が入ってくるとすぐに立ち上がった。
「方殿、よく来られたな」
戸部尚書・蘇仲元の声は冷たかった。
無塵は深く頭を下げた。
「昨夜のことで、お詫びに参りました。私の不手際でご令嬢を危険な目に遭わせ、申し訳ありません」
「不手際などという言葉で済まされると思うか?」
蘇仲元の声が震えた。
「娘は嫁入り前の身。その肩に傷を負ったのだぞ!」
「全ては私の責任です」
無塵は頭を上げずに言った。
長い間、黙って無塵を見つめていた蘇仲元は溜息をついた。
「蓮舞とどんな関係だ」
無塵は、無い答えを探すように質問を繰り返す。
「どんな…」
「嫁入り前の娘が、夜に男を訪ね、流血沙汰に巻き込まれてるんだぞ!」
曖昧な態度の無塵に、蘇仲元は再び声を荒げる。
「あの夜なぜ、娘は刑部にいた?なぜ其方を訪ねたのだ」
蘇仲元の眼差しは鋭かった。
無塵は、言葉を選んだ。
「それは…私にもわかりません。訪ねてきた理由は、彼女自身にしか」
「お前と娘の間に、何かあるのか?」
「いいえ、そのような…」
無塵は珍しく言葉に詰まった。
「令嬢とは、以前、偶然お会いしたことがあるだけです」
蘇仲元は無塵の様子をじっと観察していた。無塵の普段の冷静さが揺らぎ、言葉がにごる様子に、彼は何かを感じ取ったようだった。
「...…」
蘇仲元は考え深げに無塵を観察する。
「下手人は、必ず見つけてくれ」
真剣な眼差しで言った。
「娘に傷を負わせた者どもを、必ず」
「はっ。必ず犯人を捕らえます」
無塵は固く誓った。
長い沈黙の後、蘇仲元は少し態度を緩めた。
無塵は再び頭を下げ、辞去した。
門を出る前、彼は蓮舞の部屋がある方向を見つめ、心の中で回復を祈った。
─────
月が天頂に差し掛かるころ。
蘇家の中庭に、黒い影が静かに現れた。
無塵だった。
見張りの目を避けて、すでに蓮舞の部屋の前へと立っていた。
戸を開けると、薄明かりの中に静かな寝息が聞こえる。
蓮舞は、すやすやと眠っていた。
無塵はそっと近づき、彼女の額に手を当てた。
ひやりとした汗。微かに熱が残っている。
(……まだ下がりきっていない)
傷の痛みと熱、そして……彼女の中に潜む何か。
無塵は静かに息を吸った。
(なぜ、俺を庇った)
(そもそも、なぜ訪ねてきた? まるで……襲撃を予知していたように)
(俺が狙われることを――知っていたのか?)
説明のつかないことばかりが、胸の中で渦巻いていた。
だが、あのとき、彼女の叫び声が、頭から離れない。
――「無塵!!」
自分の名前を呼び、身を挺して飛び込んできたあの瞬間。
彼女の声が、叫びが、今も耳の奥で響いていた。
(……忘れられない)
無塵はそっと、布団をかけ直す。
その顔を、もう一度見つめた後、無塵は戸を静かに閉め、闇へと溶けていった。
月明かりだけが、彼が訪れた痕跡を知っていた。
─────
三日後――。
刑部の一角、筆録の山を前に、方無塵は沈黙していた。
襲撃事件の調査はすでに進めていた。だが、手がかりはあまりに薄かった。刺客たちは名もなく、印もなく、使っていた武器も市中の鍛冶屋で流通しているものばかり。捕らえた一人も舌を噛み、情報は寸断された。
それは“手際が良すぎる”沈黙だった。
無塵の目は、鋭く巻物の端を睨みつけた。
(これは――ただの刺客ではない。意図的に証拠を消し、痕跡をぼかしている。つまり)
口の中で、ある名が浮かんだ。
(……孫文景)
だがその名を、いま直接記録に記すことはできない。証拠もない上、権勢の中枢に手を伸ばすには、今の手駒では足りない。帳簿すらまだ手に入っていないのだ。
その日の午後。再び蘇家を訪れた無塵は、前回と同じ客間に通された。季節の生花が静かに香る空間。張りつめた空気の中で、戸部尚書・蘇仲元は無言のまま、無塵を待っていた。
無塵は正座し、静かに頭を下げた。
「……ご報告に参上いたしました」
「うむ」
声には、期待よりも苛立ちの色が濃かった。
「下手人は、見つかったのか?」
無塵は、すぐには答えなかった。数拍の沈黙ののち、静かに口を開く。
「犯人の一人は現場に遺されましたが、尋問の前に自ら命を絶ちました。使われた武器、動き、全てにおいて訓練を受けた痕跡が見られました」
「つまり――ただの賊ではない、ということか?」
無塵は頷く。
「はい。おそらく……政治的な背景を持つ、命令を受けて動く“者たち”です」
その言い回しに、蘇仲元の表情が固まった。
「……誰の命令か」
無塵は沈黙を置いた。
そして、視線をわずかに横に逸らし、低く言った。
「……ここで名前を出すには、証が足りません。ただ、いくつかの証言と記録から、“刑部や軍部の情報が、外部に流れていた形跡”は確認しております」
「――っ」
仲元は目を細め、深く息を吐いた。
「つまり、背後に何者かがいる。……それも、相当に地位のある」
「これ以上の詮索は─危険かと存じます」
無塵の声には、わずかながら情がにじんでいた。
客間に再び静寂が降りた。仲元は長いあいだ、香の匂いだけが揺れる空間で目を閉じていた。
「……分かった。この件はこれ以上は良い」
その言葉に、無塵の心がわずかに揺れた。
「……」
無塵は何も言わなかった。ただ、頭を深く下げた。
邸を辞した帰り道。無塵はふと足を止め、蓮舞の部屋のある棟を見上げた。障子の奥に灯りはなく、静かな影が落ちているだけだった。