静寂の一夜
医館の一室は、薄暗い灯籠の光に包まれていた。薬草の香りと古い木材の匂いが部屋を満たし、時折、菜種油の灯心がぱちりと音を立てては、壁に揺れる影を作り出していた。
蓮舞は寝台に横たわり、蒼白な頬に薄化粧の名残りをとどめていた。普段の艶やかな装いとは打って変わって、白い寝衣に身を包んだ彼女は、まるで儚い白蓮のように見えた。
方無塵は彼女の枕元に胡坐をかき、じっとその寝顔を見つめていた。窓の外では夜風が竹林を渡り、葉擦れの音が静寂を破っている。遠くで犬が一声鳴き、それがまた夜の深さを際立たせた。
蓮舞の肩から胸元にかけて、白い布が巻かれていた。医師の話では、刃は骨に達するほど深く、もう少し角度が違えば命に関わるところだったという。
無塵は、あの瞬間を思い返していた。
無塵は、手の中に残るあの瞬間の感触を思い出していた。
(あのとき、彼女は……俺を庇った)
無塵の胸に、複雑な感情が渦巻いていた。怒り、困惑、そして言葉にできない何か。
彼女はなぜ、命を賭けて自分を庇ったのか。あのとき、蓮舞の瞳に宿っていた光は何だったのか。それは恐怖でも諦めでもなく、むしろ――
「……なぜ.....」
呟きは夜気に溶けて消えた。蓮舞の規則正しい寝息だけが、部屋に微かな生命の証を刻んでいた。
無塵は立ち上がると、水盤に布を浸し、それを丁寧に絞った。そして蓮舞の額に滲んだ汗を、そっと拭い取った。普段、剣を握るその手は、今は羽毛に触れるような繊細さを帯びていた。
血なまぐさい戦いを潜り抜けてきた男とは思えないほど、優しい手つきだった。
濡れた布が彼女の肌に触れると、蓮舞の眉がかすかに動いた。無塵は息を止めて様子を見守ったが、彼女は再び静かな寝息を立て始めた。
「……蓮舞」
その名前を口にしたとき、無塵自身が驚いた。今までとは違う響きを持って、その音が唇から零れ落ちたのだった。まるで、大切な何かを慈しむように。
「お前は……いったい何者なんだ」
問いかけに答える声はない。ただ、蓮舞の長い睫毛が微かに震えたような気がした。
夜が更けていく。医館の外では、夜警の太鼓が遠く響き、街の向こうで鶏が時を告げた。薬草を煎じる香りが部屋に立ち込め、灯籠の油が少しずつ減っていく。
やがて東の窓がほんのりと白み始めた頃――
「……無塵……」
かすかな、けれど確かな声が夜気を震わせた。
無塵ははっと顔を上げた。蓮舞のまぶたがゆっくりと持ち上がり、まだ焦点の定まらない瞳が彼を捉えた。
「……気がついたのか」
無塵の声には、自分でも気づかないうちに安堵が滲んでいた。
蓮舞の唇がかすかに動いた。
「……無事で……よかった……」
その言葉を聞いた瞬間、無塵の胸の奥で何かが軋むように痛んだ。それは戦場で負った傷とは全く違う、説明のつかない疼きだった。
「お前は……全てを知っていたかのようだった。俺の背後から刺客が迫ることさえも。まるで――」
そこまで言って、無塵は言葉を止めた。
蓮舞は静かに目を閉じたまま、微かに微笑んだ。
「……そんな夢を見ただけ……。……ただ、それだけ」
無塵は返す言葉を見つけられなかった。だが、彼女の言葉が嘘だとわかっていても、責めることはできなかった。
沈黙が降りた。だがそれは、拒絶ではなく、理解の手前にある静けさだった。
そして、無塵はそっと手を伸ばし、蓮舞の指先に自分の指を重ねた。ほんの一瞬、彼女の指が震えたが、そのまま拒まれることはなかった。
「……感謝する。お前がいなければ、俺は無事ではなかったろう」
無塵はそう告げると、ゆっくりと立ち上がった。灯籠の火を見つめながら、彼は今夜のことを胸に刻もうとしていた。
夜明けが近づいていた。
しかし、この静寂の中で彼女の名を呼んだ瞬間の感触と、指と指が触れ合った温もりは、方無塵の心に深く刻まれ、もう二度と消えることはないだろう。
窓の外で、春の鳥が初めての囀りを始めていた。