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邂逅の刻

その夜、蓮舞は胸を裂かれるような夢で目を覚ました。


夢の中で――方無塵が、何者かに背後から斬られ、倒れ伏す。

彼の手は血に染まり、最後にこちらへ差し伸べたまま動かなくなる。


「……っ!」


はっとして布団から起き上がると、心臓が痛いほど脈打っていた。

ただの夢だと言い聞かせようとするのに、胸のざわめきが鎮まらない。


いてもたってもいられず、蓮舞は薄衣を羽織り、夜の都へ駆け出した。



夜の帳が街を覆い始め、都の喧騒も遠のいた頃。


薄闇の中、かすかに聞こえる駒の足音が、静寂に溶け込みながら近づいてきた。


四方無塵は長い一日を終え、疲れた足取りで馬の手綱を引きながら刑部の門へと戻っていた。月明かりが彼の疲れた横顔を銀色に照らし、風が彼の衣服をかすかに揺らす。


門をくぐろうとした瞬間、彼の鋭い目が闇の中の異変を捉えた。門の外、石の腰掛けにひっそりと座る影。月明かりが雲間から差し込み、その人影の輪郭を銀色に縁取った。


無塵はその場に立ち尽くし、目を見張った。


「……蓮舞殿?」


その声には驚きと、何か言葉にできない感情が混ざっていた。


「……あ」


蓮舞はゆっくりと立ち上がった。彼女の顔は月の光に照らされ、普段の活気ある表情とは違う、どこか儚い美しさを湛えていた。


彼女はただ黙って無塵の顔を見つめ、次にはその全身に視線を走らせた。まるで確かめるように。


(……夢とは違う。血はついていない。傷もない)


その事実だけで、彼女の胸の奥に溜まっていた緊張が解け、熱いものが目の奥に広がった。喉元が締め付けられるような感覚。


「……よかった」


その一言は、ほとんど息のように漏れ出た言葉だった。

無塵は眉を寄せ、理解できない状況に戸惑いを隠せなかった。


「? ……どうしてここに?」


その問いは厳しいというよりも、疑問に満ちていた。

蓮舞は言葉を発することができず、ただ緩やかに首を振るだけだった。彼女の長い髪が月明かりに揺れ、影を作る。


「……何でもないの。ごめんなさい。もう帰ります」


その声には言いようのない安堵と、名残惜しさが混ざっていた。蓮舞が踵を返し、闇の中へ消えようとした瞬間、無塵の手が彼女の腕へと伸びた。

彼自身も驚くような衝動的な行動だった。彼の手が彼女の腕をつかみ、その感触に二人とも一瞬息を止めた。


「....待て。こんな時間に一人で帰るつもりか。……夜も遅いのに」


無塵の声は冷静さを装いながらも、その奥に隠し切れない心配があった。彼は手を離したが、その視線は蓮舞から離れなかった。


「大丈夫よ、慣れてる」


無塵の物言いに、蓮舞も思わず前世のような口調になる。


慌てて蓮舞は微笑もうとしたが、その目には名状しがたい感情が残っていた。そして、彼女の言葉とは裏腹に、その細い肩は緊張で硬くなっていた。


「慣れの問題じゃない」


無塵の言葉は柔らかいながらも断固としていた。彼は月明かりの下、蓮舞の顔をじっと見つめた後、小さく、深い息を吐いた。その吐息には一日の疲れと、何か諦めのようなものが含まれていた。


「送る。」


二つの言葉だけが、静かな夜に響いた。断りも許しも求めない、決意の言葉。

蓮舞は言葉に出して反論することができなかった。ただ黙って頷いた。


そうして二人は、互いの間に不思議な緊張と安らぎを共有しながら、並んで歩き始めた。その小さな距離を、二人は意識していた。手を伸ばせば届く距離。しかし二人の心の距離はまだ測りがたく、言葉にできない思いが、闇夜の中で静かに育まれていった。


月が雲に隠れ、また現れるたび、二人の影が地面に寄り添うように伸びては縮んだ。まるで二人の心のように、近づいては遠ざかりながら。



街灯も途絶えた路地裏に差し掛かった、そのとき――


ひゅ、と何かが空を裂く音がした。


無塵が瞬時に蓮舞の肩を掴み、後方へ飛び退く。


「伏せろ!」


直後、六つの影が路地の両端から現れた。

顔を覆い、鋭い双剣や短槍を構えた刺客たち。


「……何者だ」


無塵は刀を抜いた。鞘走る音とともに、空気が張りつめる。


「蓮舞殿、下がれ」


「いいえ、私も戦います」


そう言い終わらぬうちに、刺客たちが同時に襲いかかった。


無塵はまるで一陣の風のように駆け、刺客の一人を一撃で斬り伏せる。

だが、数が多い。しかも全員が、ただの兵ではない。動きに迷いがなく、息が合っていた。


蓮舞は地面に落ちた刺客が持っていた剣を素早く拾い上げた。


動きに迷いはなく、彼女の瞳には決意の光が宿っている。後方から忍び寄る刺客の足音を捉え、振り返る。


「ふっ!」


短い気合と共に、蓮舞は身体をひねり、鋭く剣を振るった。刃は正確に刺客の腹部を捉え、衣服を裂き、肉を切り裂いた。刺客の顔に痛みと驚きが走る。


躊躇なく、蓮舞は次の動きに移った。横合いから襲いかかる別の刺客に対し、今度は突きの形で剣を繰り出す。剣先が刺客の腹に深く突き刺さった。


「ぐっ…」


刺客が苦痛に唸る。

しかし次の瞬間、蓮舞の表情が変わった。剣を引き抜こうとするが、動かない。


刺客が最後の力を振り絞り、腹部の筋肉を強く収縮させていたのだ。それは死を覚悟した者の抵抗—相手の武器を自分の体内に留め、戦力を奪おうとする最後の足掻きだった。

さらに剣の刃は刺客の肋骨に食い込み、抜けなくなっていた。骨と筋肉の抵抗に、蓮舞の力では剣を自由にできない。


「くっ……!」


もたついたその瞬間、無塵の背後に別の刺客の刃が忍び寄っていた。月が雲から顔を出し、迫り来る刃が冷たく光る。無塵はまだ気づいていない—二人の刺客と交戦中だった。


蓮舞の胸に恐怖が走った。夢で見た光景が目の前に広がる。無塵が背後から斬られる瞬間。


「無塵っ!」


彼女の叫びには純粋な恐怖と、名状しがたい深い感情が込められていた。蓮舞は躊躇わず、刃の刺さったままの剣を放り、無塵の背へと駆け出した。


「何を……!」


無塵が振り返る瞬間、蓮舞の身体が彼と刺客の間に飛び込んだ。彼の瞳に映ったのは、自分のために身を投げ出す蓮舞の姿。

その顔に浮かぶ決意と恐怖と、そして何か名状しがたい感情。


鈍い音。 そして、布が裂ける音。


蓮舞の肩が、鋭く斬り裂かれた。彼女の白い肩が露出し、衣が赤く染まっていく。痛みに彼女の顔が歪むが、叫び声は上げなかった。


「――ッ!!」


無塵の表情が一瞬で変わった。驚愕、恐怖、そして激しい怒り。彼は倒れかける蓮舞を左腕で抱き止め、右手の刀で振り返りざまにその刺客を一刀で斬り裂いた。刀を振るう彼の目には、冷酷な怒りが宿っていた。


残りの者が躊躇した一瞬、無塵の視線が全てを凍らせる。彼の目には殺意が宿り、それは蓮舞が傷ついたことへの怒りから生まれた感情だった。


「……死にたい者から、かかってこい」


その声には静かな怒りが込められ、周囲の空気温度さえ下げるかのようだった。


残った刺客たちは、数秒の静寂の後、互いに目配せし、無言で姿を消した。彼らの足音が遠ざかり、辺りは再び、血と静寂に包まれる。


「蓮舞……蘇蓮舞!!」


無塵の声が、今は切迫して呼び捨てに変わっていた。蓮舞の肩から、鮮血が大量に流れ出ていく。

無塵は震える手で彼女の身体を抱き抱えると、剣を捨てて馬に駆け寄る。


「……くそっ……!」


懐から帯を裂き、応急処置を施すと、そのまま蓮舞を抱き上げ、馬に跨がった。


「しっかりしろ!頼むから……!」


無塵は焦りを隠せなかった。彼は蓮舞をしっかりと抱きかかえ、馬の腹に鞭を入れた。


夜の洛陽の街を、無塵の乗る馬が疾駆する。

風を裂き、闇を突き抜け、ただ――命を繋ぐために。


医館に着くと、無塵は蓮舞を抱えたまま馬から慎重に降りた。彼女の体はすでに冷たさを帯び、無塵の腕の中で小さく震えていた。


「医者はいるか!怪我人だ!」


無塵は医館の扉をドンドンと叩いた。応答がないため、蓮舞をそっと縁側に寝かせ、再び扉を激しく叩き続けた。彼の拳が木の扉に何度も打ち付けられる音だけが、静かな夜の闇に響いていた。


そのとき、蓮舞が弱々しく咳き込み、かすかに目を開いた。瞳には月明かりが映り、かすかな光を宿していた。


「蓮舞!しっかりしろ!」


無塵は彼女の側に膝をつき、震える手で額の汗を拭った。彼の目に映ったのは、応急処置として帯で縛ったはずなのに、なお滲み出る真紅の血。止まるはずの血が、どんどん流れ続けていることに、無塵は顔色を変えた。恐怖が背筋を走る。


「...大丈夫…あなたが無事で…よかった…」


蓮舞は苦痛に顔をゆがめながらも、無塵に向けて微かな笑みを浮かべた。彼女の青白い顔に浮かぶその表情には、無塵が無事であることへの深い安堵が滲んでいた。


「なぜ俺を庇った!」


無塵の声は怒りと心配、そして純粋な疑問が入り混じっていた。声こそ荒げていたが、蓮舞の手を握る彼の指先は優しかった。


蓮舞は答えようとしたが、もはや言葉を紡ぐ力も残っていないようだった。彼女の瞼が再び重そうに閉じていく。意識が遠のいていく。


「血が止まらない…」


無塵はつぶやくと、再び立ち上がり、今度は両手で扉を叩き続けた。彼の心臓は恐怖で早鐘を打っていた。


やっと医館の扉が開き、老いた医者が姿を現した。医者は蓮舞の状態を一目見るとすぐに奥の部屋に運ぶよう無塵に告げ、急いで血止めの薬を取り出した。


医者が蓮舞の傷を処置する間、無塵は部屋の隅に立ち尽くしていた。彼の脳裏では、戦いの最中に蓮舞が「無塵!」と叫んだ声が何度も繰り返されていた。


なぜ彼女が命を賭してまで自分を庇ったのか。彼女の切迫した眼差しと、躊躇いのない行動が理解できず、無塵は内なる苛立ちに身を焦がしていた。


昔、どこかで会ったことがあるのだろうか—そんな考えが頭をよぎった。だが、どうしても記憶の糸をたぐり寄せることができない。


しかし、蓮舞の瞳に映った何かが、無塵の心の奥底で確かに反応していた。


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