序章 ──落花の刻、還る命
序章 業火の夜
薄暮の空を焦がす炎が、洛隠城の城門を赤く染めていた。
蘇蓮舞が愛馬から降り立ったとき、鎧の隙間から滲む血が石畳に滴り落ちた。仮面の下の瞳は、しかし、まだ折れてはいなかった。
平成王の反乱を鎮圧し、捕縛を完了したその矢先――まるで待ち構えていたかのように、安国の刺客団が宮城深くに潜り込んでいた。皇帝楊懐古の命を狙って。
十人、二十人。影のように舞い踊る殺気が、静寂の宮殿を蝕んでいく。
蓮舞は剣を抜いた。
銀の刃が夜気を裂き、返り血が朱色に舞う。左羽林将軍――薛国の盾たる名に恥じぬ太刀捌きで、彼女は皇帝の御前へと斬り込んでいく。
一閃、二閃。
影が散り、血が舞い、断末魔が石畳を震わせる。振り抜かれた銀剣は獣のごとくしなやかに、舞のように敵陣を駆け抜けた。刀背が喉を打ち、踵が顎を砕き、切っ先が首筋を切り裂く。
五体。八体。十一体。
彼女は倒れゆく者たちの数を、心の奥で静かに数えていた。
息は浅く、体には無数の傷を負っている。それでも止まらなかった。止まれなかった。
「貴様あああっ!」
背後から迫る刺客の一人。蓮舞は刃の煌めきを視界の端に捉えるや、反転して肘で刃を逸らし、そのまま喉を突き上げる。
十三体目。
肩に走る激痛を無視して、蓮舞は皇帝の居る正殿前に滑り込んだ。
「将軍!」
最後の近衛兵が刺客と対峙し、刺されながらもなお立ち上がろうとしていたが、蓮舞の姿を認めて安堵の表情を浮かべ、力尽きて倒れ伏した。
近衛兵の声に振り返った皇帝――楊懐古は目を見開く。
「なぜここに……! おまえは北門の指揮に……!」
「向こうは片付きました。残るは戦果報告のみですので」
仮面越しに、いたずらっぽく笑うような声音で答える。他の近衛兵は既に全て斃されていた。
「陛下、早く後ろへ!」
血泥にまみれながら、蘇蓮舞は皇帝を背に庇う。
「なぜ戻ってきた! 逃げろ蓮舞、おまえだけは……!」
「そんなことを仰られて、逃げる将軍がどこにおりますか?」
軽口を叩きながらも、迫る刺客を次々と斬り伏せていく。刺客の剣が皇帝に振り下ろされるが、蓮舞は剣で受け止めた。
その瞬間だった。
視界の左端に殺気。次の刹那、真横からの鋭い一閃が、蓮舞の腹を深く裂いた。
「ぐっ……!」
「蓮舞!!」
皇帝は蓮舞を刺した刺客を自らの剣で斬り捨てる。
だが次の瞬間、さらに三本の刃が蓮舞の背と脇腹、腹へと突き立った。
体がよろめき、膝が崩れ落ちる。仮面が地に落ちて、蓮舞の美しい素顔を露わにした。
刺客四人――最後の一団が一斉に襲いかかってきたのである。
「――蓮舞!!」
皇帝の叫びが響いた刹那、次なる一撃が蓮舞を狙う。
しかし、その剣が届くより先に、皇帝が身を投げ出した。
「やめろおおお!!」
一つの刃が、皇帝の脇腹を貫いた。
「陛下!!」
蓮舞は血を吐きながら、震える手で彼を支える。皇帝の膝が崩れ、彼女の胸元に倒れ込んだ。
「蓮舞……すまない……許せ……」
皇帝の口元から鮮血が滴れ落ちる。
彼女はそれでもなお、彼を支えたまま残る刺客に向き直った。剣を取り直そうとしたが、もう指に力が入らない。
「――ここまで……か……」
血に染まった石畳に、彼女の身体が倒れ込む。意識が薄れゆく中、彼女は夜空を見上げた。
月が、滲んでいた。
そして、その夜空の下を、一つの影が火の中を駆けてくる。
「蓮舞!!」
駆けてきたのは方無塵だった。血塗れの衣、震える手に握られた剣。彼は残りの刺客を一瞬で葬り去った。
だが、もう遅かった。
石畳には仮面が一枚、転がっていた。割れて、銀の装飾が鈍く光っている。
その足元に倒れているのは、既に瀕死の皇帝楊懐古だった。
「蓮舞っ!!」
地を滑るように駆け寄り、蓮舞の肩に手を添えた瞬間、ぬるりとした血が指にまとわりついた。彼女の衣は見るも無惨に赤く染まり、1本の刃が深々と突き刺さったままだ。
それでも――彼女は目を開け、彼を見て、かすかに微笑んだ。
「……来てくれたのね」
「来たさ、来たとも……おまえを迎えに来た」
地に膝をついた無塵は、腕の中に横たわるその身を、まるで壊れ物を扱うように、そっと抱きしめた。血に染まった蓮舞の胸は、もうほとんど動いていない。だがその顔は、血の滴る唇の端に、確かな安堵を宿していた。
「遅くなって……すまない。俺がもっと早く来ていれば……!」
蓮舞は痛みに震える手で彼の頬に触れる。指先が冷たい。
「……無事で、よかった」
細い声で蓮舞が言った。唇の端がかすかに持ち上がる。痛みに引きつるようなそれを笑顔と呼んでよいのか迷うほどだった。それでも彼女は懸命に、最後の力で笑おうとしていた。
無塵の喉が何かを堰き止めるように鳴った。
それは戦場では見せぬ、一人の女の微笑み。無塵の腕の中で、すべてをさらけ出すだけの、最期の刻だった。
「蓮舞……」
無塵は蓮舞の頬に手を添えて、震える指先で口元の血を拭う。まだ温かい。まだ間に合う気がする。けれど、分かっていた。もう奇跡は訪れないと。
「あなたと出会って、過ごした日々を、今でも思い出すわ」
「蓮舞……あの頃、もし違う出会い方をしていたら、違った未来があったかな」
声にならない呟きが喉をかすめた。指先が蓮舞の髪に触れる。こんなにも誇り高く、美しかった命が、なぜ今消えようとしているのか。
「……あるかもしれない。でも、それでも」
彼女の手に最後の力がこもる。
「後悔はないわ」
無塵の頬を、ぽたりと涙が伝った。
蓮舞の目はもう半ば閉じかけていた。
「言って……」
「え?」
「……一度でいい。聞きたいの」
彼は迷わなかった。彼女の耳元に唇を寄せ、はっきりと囁いた。
「愛してる。……誰よりも」
蓮舞の唇が微かに動く。
「……うれしい」
その声が、最後だった。
蘇蓮舞の目が、ゆっくりと閉じられる。蘇蓮舞の指が、ふっと力を失った。
「蓮舞……?」
彼女の瞳は、もう開かなかった。
無塵の頬を、止めどなく涙が濡らす。止められなかった。
心が崩れる音がした。後悔が波のように押し寄せる。
けれど、蓮舞はすべてを赦すような眼差しで、ただ静かに、穏やかに、笑っていた。
その笑顔が無塵の胸を刺した。美しく、愛おしく、狂おしく、残酷に――。
無塵は蓮舞の額に唇を寄せ、崩れ落ちるように泣いた。
その涙は彼女の頬に落ち、まるで彼女の笑顔を濡らす雨のように、静かに、静かに流れていった。
「方無塵……」
傍らに倒れている皇帝が、蓮舞の死を悼みながら声をかける。
無塵は傍らに倒れた皇帝楊懐古に目を向ける。
皇帝は深い傷に喘ぎながらも、無塵の姿を見つめ、静かに言った。
「蓮舞は……お前を愛していた。……守ってやれなくて、すまない」
「……陛下。彼女を守れなかったのは、俺です」
「だが、お前が……最後に来た。蓮舞が……笑ってくれて……よかった……蓮……舞……」
血が喉を塞ぎ、言葉は続かなかった。
皇帝楊懐古は瞳を閉じるとき、ひとすじの涙を流して、崩れ落ちるように息絶えた。
楊懐古――彼もまた蓮舞を誰よりも愛した。その愛ゆえに、望まなかった帝位に就いた男であった。
静寂が、火の中の庭に満ちた。
方無塵は蘇蓮舞の亡骸を抱いたまま、しばらく動けなかった。
やがて、そばに落ちている彼女の仮面を拾い、彼女の胸元にそっと置いた。彼女の頬の涙を指で拭い、口元の血を拭うと、震えながら彼女の額にそっと口づける。
そして、自らの腰に差していた短剣を抜いた。
(お前のいない世に、俺の生きる場所もない)
静かに刃を返し、自らの胸に突き立てた。
赤い血があふれ出す。けれども、彼の顔は安らかだった。崩れる身体。うつ伏せに倒れ、すぐそばの彼女の手を取ったまま、その指を固く絡める。
――ようやく、ひとつになれた。死の先でしか結ばれぬのなら、それで構わない。
風が吹く。
夜の空に、雪がひらひらと降ってきた。
そして、ただ静かに彼らを覆い、ただ――風が優しく吹いた。まるで二人の魂を、遠くどこかへと送り出すように。
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墨無涯の最期
雪が降っていた。
薄く、白く、音もなく。
それはまるで亡き妻の通名にちなんだかのように、白蓮の花びらが空から降り注いでいるようだった。
墨無涯は関外の戦を終え、薛の都洛隠へと戻ってきていた。安国の侵攻を一度は退けた。だが、勝利の余韻などどこにもなかった。
都は沈黙していた。門は開かれ、城壁には旗もなく、兵は散り、民の影も薄い。
「……遅かったか」
彼の声は低く、落ち葉のように消えた。
都に入ったその日、彼はすべてを知る。
皇帝楊懐古は内乱と刺客により討たれた。蘇蓮舞はその命を賭して皇帝を守り、方無塵の腕の中で息絶えた。そして方無塵もまた、彼女の後を追い、自ら命を絶った。
宮門前、血に染まった石畳の上に、三人は寄り添うように並んでいた。
風の音がした。
どこからか、方無塵の声が蘇る。
――「彼女を、お願いします」
それは生前の言葉だったか、それとも死者の幻だったか。
墨無涯は腰の剣を静かに地に置いた。そして石階の上に膝をつき、自分のマントを外すと、三人を覆うようにかけた。
「蓮舞。……俺は、おまえの夫であることが誇りだった」
「無塵。おまえが彼女を想っていたことを知っていたし、彼女がお前を愛していたことも知っていた。いつもお前が羨ましかった。……だが、感謝している」
彼は小さく笑う。乾いた雪が肩に積もる。
墨無涯は立ち上がった。そして蘇蓮舞と最後に語った日を思い出す。
「戦が終わったら、また一緒に剣を振ろう」
と彼女は言った。
「今度は負けません!」
と、彼女は笑っていた。
その笑顔を、もう一度だけ見たかった。
「……すまない。蓮舞」
彼は蓮舞を刺したのであろう剣を拾い上げた。その刃を首元にあてる。
静かに、斬った。
血が雪に落ち、赤く溶ける。
崩れ落ちるその身体は、武人としての誇りを纏いながら、音もなく石段に横たわった。
――最後まで誰をも責めず。
――最後まで誇りを捨てず。
――そして最後まで愛を叫ばぬまま、沈黙のなかで尽きた男。
それが墨無涯という人間だった。
雪は降り続く。春の兆しなどどこにもない、寒冷な都の空の下。
けれども、やがて遠く、誰かの剣が運命を穿つその時まで――彼の死は一つの誠として、大地に深く刻まれた。
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それから、どれほどの時が経っただろうか。
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第一章 夢の尽きた場所、記憶の始まり
仄暗い天幕の中で、蘇蓮舞は深い水底から浮かび上がるように目を開けた。
頬に触れるのは風ではなかった。柔らかな布の感触、そして微かに揺れる香草のような匂い。鎧の重さも、血の味もしない。死の匂いが消えていた。
「……やっと起きましたね」
耳に飛び込んできたのは、懐かしくも遠く忘れていた少女の声だった。振り向くと、そこにいたのは雪瑶だった。蘇蓮舞の侍女。だが――
「……雪瑶? あなた……」
「何ですか、その顔。寝ぼけてるんですか? 今日は学舎で武術の稽古の日ですよ。陛下……いえ、楊殿下もお待ちでしょうし、墨公子も朝から支度していましたよ」
蘇蓮舞は瞬きもできず、雪瑶の言葉を聞いていた。
――学舎? 墨公子? 楊……殿下?
思わず起き上がった身体は、信じられないほど軽かった。鏡の中に映る自分の顔を見た。まだ十代の面差しを残す、仮面も血痕もない少女の顔。
「ここは、どこ……? いえ、今は……何年?」
雪瑶はぽかんとした顔で、思わず笑った。
「どうしたんですか? お生まれになって十七年、今は元和六年ですよ。もしかして……昨日の読書で、また史書の中の人になった夢でも見てたんじゃないですか?」
――元和六年。あの戦も、内乱も、方無塵と再会した日も、すべてが始まる遥か前。
蓮舞の胸の奥が締めつけられる。
確かに死んだはずだった。楊懐古を庇い、刺客に貫かれ、無塵の腕の中で息を引き取った。あの血の夜。彼の涙と、皇帝の最後の言葉。そして仮面が地に落ちた音を、確かに覚えている。
なのに今、自分はここにいる。十七の娘として、何も起こっていない場所に。
そのとき、廊下の向こうから声がした。
「蓮舞、まだ寝ているのか。稽古の時間だぞ。遅れるぞ」
明るく朗らかな声。凛とした脚音が近づいてくる。
――墨無涯。
あの戦乱の果てに、すべてを失い、最後の最後まで清廉であろうとした男。
扉の向こうの気配は、まだ希望と未来を背負った少年のものだった。
すべてが始まる前――この世界は、まだ選び直せる。
蘇蓮舞はゆっくりと立ち上がった。足元に落ちていた一枚の布。それは夢の中で自分がつけていた仮面によく似ていたが、今はただの柔らかい面布だった。
「雪瑶、支度をしてくれる?」
「もちろんです。でも、その前に……お顔を洗わないと、寝ぼけ顔のままですよ?」
蘇蓮舞は微笑んだ。
そして心の中で、ただ一つの誓いを立てた。
――今度こそ、すべてを守り抜く。この命も、彼らの未来も、薛国も、誰ひとり死なせはしない。
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