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第2章


 私は辺境伯領の砦で迎えた、肌を刺すように冷たい朝を思い出していた。

 あの日からそれほど日は経っていないはずなのに、状況は目まぐるしく変化している。


 辺境に来た当初、私は「形式だけの結婚相手」として何の期待もされず、誰からも必要とされていなかった。けれど、あの裏庭で兵士を一撃で下した出来事を境に、私を取り巻く空気は少しずつ変わり始めた。噂は思った以上に早く砦じゅうに広まり、何人かの兵士が「本当に剣が得意なのか?」と探るように声をかけてくるようになった。

 彼らの態度は決して悪意ばかりではない。それでも私は、“貧乏貴族の娘”という先入観を、未だ完全には振り払えずにいる。


 しかし、そんな小さな変化など些細なことだ。今、目前に迫るのは、ガルヴァニア帝国軍の再侵攻という重大な報せだった。


「リリア様、戦線に出られるおつもりですか?」


 砦の廊下で私を呼び止めたのは、騎士団長クラウス。誇り高き騎士であり、アレクシス様を深く信頼している。先日まで私を単なる飾り物と見ていたらしいが、今ではその眼差しに警戒や軽蔑はなく、むしろ戸惑いが見え隠れしていた。


「はい。帝国軍が攻め込むなら、私も剣を取ります」


 自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。

 クラウスは眉をひそめ、険しい眼差しを向ける。


「戦場は遊びではありません。ご自分が特別な力をお持ちだとしても、命を落とす可能性は大いにある」

「分かっています。でも――」


 その時、鋭い足音が響いた。振り向けば、アレクシス様が冷たい視線を向けながら、会話に割り込むように言葉を放つ。


「お前は砦に残れ。戦場は貴族令嬢の散歩道ではない」


 低く響く声には、絶対的な威圧感があった。だが、ここで退けば、私は何も変われない。それに、何より――この国が滅びるのを見過ごすわけにはいかない。


「いえ、私は行きます。私が剣を取れば、幾らか役に立つはずです」

「根拠は?」


 鋭い一言が突き刺さる。一瞬息を呑むが、私は迷わず言葉を紡いだ。


「この国が滅びの瀬戸際にあるのなら、私も逃げるわけにはいきません。……たとえ形だけの妻であっても、あなたの領地にいる以上、戦いを避けることはできないはずです」


 彼の眉がわずかにひそめられ、言葉を探しているのが分かる。すると、すぐそばにいたクラウスが苦々しげに口を開いた。


「アレクシス様。先日、リリア様は兵士を一撃で下しました。今の士気が落ちかけている兵たちにとって、彼女の存在はむしろ励みになるかと」


 アレクシス様は短く舌打ちすると、鋭い眼差しで私を見据える。


「好きにしろ。ただし、俺の許可なく最前線に立つことは認めない」


 それは、あくまで“暫定的な許可”なのだろう。私は安堵しつつも、戦場の恐ろしさを思い浮かべて身震いする。でも、その恐れに屈して背を向けては、何も変わらない。


 ――そうして、私が初めて戦場へ足を踏み入れる日は、あっという間に訪れた。


 帝国軍の奇襲は、辺境伯領からさほど遠くない谷間の地で始まった。偵察隊の報告では、敵の数はそれほど多くないものの、前線を攪乱し王都への侵攻の足がかりにしようとしているという。砦で待機していた私たちは、すぐさま出撃命令を受けた。


 馬上のアレクシス様が隊列を指揮し、クラウスが騎士団を率いる。その後方に位置する私へと、兵士たちの視線がちらちらと向けられ、ひそひそとした声が耳に届く。

「本当に連れてくるなんて、正気じゃない」 「貴族の娘が戦場で何ができる?」

 馬の足音に紛れた陰口が、胸の奥をざわつかせる。

 いずれにせよ、実力は戦果で示すしかない。

 そう決意した矢先、アレクシス様の背中越しに帝国軍の姿が見え始めた。


 谷を挟んだ向こう側にずらりと並ぶ敵兵。鋭く響く鬨の声が大気を震わせ、戦場の空気は一気に緊張感を帯びる。手のひらがじっとりと汗ばみ、息を整えながら剣を握る。


 アレクシス様が手を上げ、味方に進軍の合図を送る。馬が土埃を巻き上げ、鎧の擦れる音と怒号が響き渡る。私は腹の底に力を込め、前を見据えた。


(恐れるな。ここで役に立たなければ、私がここにいる意味はない)


 先頭を切って突撃するアレクシス様は“戦場の鬼神”と称されるだけあり、目にも止まらぬ速さで敵兵を斬り伏せていく。その周囲には不吉な風が吹き荒れるかのような威圧感があり、帝国兵がひるむのが遠目にも分かった。


「はあっ!」

 私は覚悟を決め、馬を駆った。戦場に躍り出た瞬間、血潮が滾るような熱が全身を駆け巡った。剣を振ると、驚くほど軽く手応えがあり、敵兵が崩れ落ちる。視界が冴え渡り、敵の動きが手に取るように分かる。


「な、なんだあの娘は……!」


 怯えた敵兵の声が上がる。しかし、返事をする暇などない。私は次から次へと剣を振るい続ける。血の匂いが鼻を突き、金属が擦れる音が耳を劈く。それでも、恐怖はなかった。むしろ、全身が戦いを求めるように動き続ける。


 その時だった。私の剣が淡い光を帯びる。

「……っ、また、あの光?」


 王城の大広間で見た現象が、今度は剣先に宿っている。意図せずとも、金色の輝きが刃を伝い、空気を震わせる。その瞬間、向かい合った敵兵が膝をつき、震え出した。


「ひ、膝が……勝手に……!」


 彼らはまるで見えざる力に押さえつけられるかのように、私にひれ伏していく。その異様な光景に、クラウスの部下たちが歓声を上げ、戦意を高める。帝国兵の陣形が崩れ、戦場が混乱に包まれる。


「リリア様、すごいぞ!」


 叫び声を上げる味方の兵士たちを目にして、私は自分がとんでもない力を使ってしまったのだと実感する。あれがもし伝説にある“王威の審判”だとしたら、私はどうなってしまうのか。

 恐れと高揚が入り混じる中、私は前線を突き進む。


「退け、退けえっ!」


 帝国兵たちは恐怖に駆られ、次々と武器を捨てて逃げ出していく。アレクシス様の騎兵隊がその隙をついて敵陣を切り崩す。戦況を正確に把握する余裕はなかったが、明らかにこちらが優勢に立っている。

 やがて、帝国軍の指揮官らしき男が馬上から必死に叫び、兵をまとめようとしていた。その目は怯えに満ち、私が視線を向けると、彼も一瞬身体を強張らせる。


(……こんな戦い方で、本当にいいの?)


 勝ち戦の手応えを感じつつも、心のどこかがざわつく。

 私がこの力で敵兵をむやみに屈服させれば、彼らはどう思うのだろうか。自分の意思を奪われるということは屈辱だろうし、私だってそんな横暴を望んでいるわけではない。

 とはいえ、戦争に綺麗ごとは通用しない。迷っている暇はなく、私は金色の光が宿る剣をしっかり握り直す。


「皆、攻めろ! 敵は混乱している!」


 どこからともなくそんな声が響き、兵たちが一斉に押し込んでいく。敵は陣形を維持できなくなり、後退を始める。私も倒れ込む兵を避けながら必死に前方を目指す。やがて谷の奥深くへ追い詰められた帝国軍は、ついに総崩れの状態となり、戦いは終わりに向かっていく。

 味方兵士たちの歓喜の叫びと、負傷者の呻き声が混在し、煙のような埃が立ちこめる中で、私は恐る恐る剣を下ろす。


「……終わった?」


 呆然と呟いた私の背後で、兵士たちが口々に「戦場の女王だ!」と歓声を上げる。

 その言葉が耳に届いた瞬間、心臓が一瞬乱れる。

 「これが“女王の再来”か……」と、兵士達の間に話が広がっていく。

 私はただ、滅びゆく国を守るために剣を取っただけだ。そんな称号は、求めていない。


 戦場のざわめきが少し落ち着いた頃、アレクシス様が馬から降り、私のもとへ歩み寄る。鎧には血の痕がこびりつき、まるで鬼神のような佇まいだが、その瞳には明確な戸惑いが宿っていた。

 彼はわずかに息を切らしながら、低く問いかける。


「……お前は、何者なんだ?」


 王都の大広間で投げかけられた問い。あの時と同じように、私はまだ答えを持たない。兵士たちの歓声が響けば響くほど、自分の中の空白が鮮明になる。


「私にも分かりません。ただ、皆の為に剣を取りました。それだけです」


 そう言うと、アレクシス様は眉をひそめつつも、どこか納得したように頷く。自分が抱えている疑問も解消できていないはずなのに、彼は私の目をまっすぐ見ている。まるで「お前の覚悟は嘘じゃない」と認めてくれているかのようだ。


 あたりを見回すと、兵士たちはさっそく負傷者の手当てや、撤退していく帝国兵の監視に動き出している。クラウスも血まみれの剣を納めながら、私にひざまずくように頭を下げる。


「リリア様、あなたを侮っていました。……本当に申し訳ありません。そして、私の剣は、あなたを守るために振るいます」


 その眼差しには真摯な忠誠の色があり、私は慌てて彼を制そうとする。けれどクラウスは微動だにせず、兵士たちもそれを見て賛意を示すように声を上げる。まるで私が本物の主君であるかのように。


 すると、遠くから伝令兵が駆け寄ってきて叫ぶ。

「王都からの密使がいらしております! 辺境伯アレクシス様、そしてリリア様にお伝えしたいことがあるとか!」


 王都から、わざわざこんな辺境の戦場に誰が密使を送り込んだのだろう?

 胸騒ぎがする。先程の戦いで私が思いがけず“戦場の女王”と呼ばれ、士気の中心になったことが気に入らない貴族もまた出てくるだろうし、少なくとも明るい報せでないことは明白だ。


 アレクシス様が小さく舌打ちするように息を吐き、私に囁く。


「戦時中だというのに、王都の奴らは暇だな。どうせお前の事であれこれ口出しする気だろう」

「ええ、迷惑ですね。でもここで無視したところで、いずれ向こうは手を伸ばしてくるでしょう」


 彼はわずかに目を細め、肩の血汚れを軽く拭う。


「……まあいい。とにかく密使とやらの話を聞こう」


 現時点で、帝国軍は一時的に退いている。けれど、彼らがこのまま大人しくなるはずもない。一方、王都の貴族たちが私の存在をどう見ているかも不透明だ。ほんの少し前に“あの光”を発してしまった私を、王家がただ放置しておくとも思えない。


 私は剣を収めながら、深呼吸をする。戦い自体は勝利したのだろうが、気持ちはすっきりしない。むしろ胸の奥がざわざわと騒ぎ立てている。アレクシス様はそんな私を一瞥し、小さく顎をしゃくる。


「砦に戻るぞ。……お前も来い。密使の話を直接聞いておいたほうがいい」

「分かりました」


 従うしかないと思いながらも、頭の中を数多くの不安が駆け巡る。私が何者か分からないまま、けれど周囲はどんどん私を“特別な存在”として扱おうとしている。今は帝国の侵攻を退けたばかりで、兵たちの士気は高い。だが、貴族の陰謀や王家の思惑が絡んでくれば、状況は一気に崩れ去るかもしれない。


 ――砦に戻る道中、私は何度も後ろを振り返る。谷から立ち昇る煙と血の臭いは、まだ生々しく私を包んでいる。戦場で剣を振るい、多くの敵兵を倒し、そして“王威の審判”らしき力を使ってしまった。


 あれが本当の“王の力”だというならば、私は一体どこに向かっていくのだろう。胸にくすぶる焦りと恐れ、そして奇妙なまでの熱が同時に入り混じっている。


 私は剣の柄を強く握りしめる。

 光が閃き、目の前で膝をついた敵兵の姿が脳裏に焼きつく。背筋を伝う冷たい汗を感じながら、私は考える――この力は本当に私の意思で制御できるものなのか。それとも、いずれ暴走し、取り返しのつかない事態を引き起こすのか。


 ともあれ、今回の戦闘で味方の士気は大いに高まった。それは確かだ。そして、アレクシス様の目にも、私がただのお飾りではないと映ったことだろう。

 馬を駆る彼の背中を見つめながら、私はぎゅっと唇を噛む。先ほどの彼の言葉が、頭の中で繰り返される。

「……お前は、何者なんだ」――

 いまだ回答を持たない自分がもどかしい。このままでは、私を利用しようとする者も排除しようとする者も後を絶たないだろう。密使の存在は、その序章に過ぎない。


 次の戦いでは、剣の腕だけに頼れるとは限らない。私は貴族や王家と駆け引きする術など持たないし、自分の力すら、まだ完全には理解できていない。

 拳を固く握りしめたその時、並走していたクラウスが声をかけてきた。


「リリア様、次の戦の前に、帝国最強の騎士が前線に現れたという噂があります。もし本当なら、そう遠くないうちに辺境に姿を現すでしょう」

「帝国最強……?」


 聞き返すと、クラウスは真剣な表情でうなずいた。


「ええ。かつて幾度も国境を越え、王国の勇士たちを打ち倒してきた猛者です。その名を聞くだけで兵士が震え上がるほど、恐れられているとか」


 もし、あの騎士が現れたら――また私の力が暴走するのではないか。そんな不安が胸を締めつける。しかし、逃げることは許されない。戦う覚悟を決めなければ。

 クラウスが私の険しい表情を見つめ、静かに言葉を紡ぐ。


「アレクシス様も、まだその騎士とは刃を交えたことがありません。しかし、帝国側がこのまま沈黙を守るとは思えません」


 私は唇を噛み、胸の奥に宿る迷いを振り払うように、強く息を吐く。


「もしその騎士が本当に攻めてくるのなら、私が受けて立ちます。……引っ込んでいるつもりはありません」


 私はきっぱりと声を張る。周囲の兵士たちが驚いたようにこちらを見つめるが、もうためらうことはできない。この道を選んだ以上、突き進むのみだ。

 ふと、背後の気配を感じて振り返る。アレクシス様は馬を駆る背中を見せたまま、何も言わない。その表情さえうかがえないが、不思議と寂しさは感じなかった。砦が近づくにつれ、私の中で燃え上がる決意は揺るぎないものへと変わっていく。


 砦の外壁が視界に入り、帰還の準備が進められる。馬上で静かに息を整えながら、私は再び誓う。帝国最強の騎士が現れようとも、私は堂々とその挑戦を受けよう。あの光を含めた、自らの力が試される時が来る。それがどんな結果をもたらそうとも、進む以外に道はない。


 砦の石畳に馬蹄の音が響く。重々しく門が開かれると、そこには王都からの密使が待っていた。その背後には、何かを秘めた者たちの気配。

 私は剣を握りしめ、まっすぐに門をくぐる。

 緊迫した空気の中、馬を進める。兵士たちの口から、「戦場の女王」という呼び名が漏れ聞こえる。その響きの重みを痛いほど感じるが、それでも足を止めることはない。


 そして、僅かに高鳴る鼓動を抑えつつ、奥へと急ぐアレクシス様の背中を追いかける。

 あの人が立ち止まることはないのだから、私も立ち止まらずに並び立つために――。


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