岩村悠斗⑦
一度だけ、自分の書いた小説を人に読ませたことがある。
それは小説を書き始めて間もない頃で、僕は就職活動を控えた学生だった。僕は大学の近くにある繁華街のホテルでウエイターのアルバイトをしていた。その経験を短い小説にまとめると、A4サイズのコピー用紙にプリントアウトして当時一番仲のよかった友人に読ませた。
自分の作品に自信があったわけではないし、内容も稚拙だったと思う。けれども、小説を書いて誰かに認めてもらうためには、まず自分の感性を人に晒す経験が必要だと思った。
しばらく経っても、友人からの感想は何も返ってこなかった。そして、僕も自分からは何も聞かなかった、
僕とその友人は大学を卒業してからそれぞれ別々の街に就職した。その後も時々連絡は取り合っていたけれど、そのうちだんだんと疎遠になり、向こうが連絡先を変えたことで完全に交流は途絶えてしまった。今はどこで何をしているのかもわからない。
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五月の下旬になって、僕はようやく新しい小説を書き上げた。柄にもなく、その小説を誰かに読ませたいと思った。けれど、今の僕にそんな相手はいなかった。
パソコン画面の奥に並ぶ文章を眺めながら、どうしようかと考えた。大学時代の例の友人をSNSで探してみようかとも思ったけど、今更連絡されても迷惑だろうと思ってやめた。
大野さんの顔が頭をよぎるのに時間はかからなかった。
今の自分と接点があるのはアルバイト先の人間だけだったし、その中でも彼女だったら、いやな顔や冷やかしなしで真剣に読んでくれそうな気がした。
僕は1センチばかしの厚さになったコピー用紙の束をクリップで挟み、それをいつもバイトで持って行くリュックに入れた。
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その日は少しだけ早めに出勤した。
いつものように裏口から店内に入り厨房を抜けてホールに出ると、薄暗い空間の隅っこに置かれた窓際の席に大野さんが座っていた。
イヤホンを耳にはめて音楽を聴きながら、卓上に本とノートを広げて熱心に何かを書いている。ぼんやりと差し込む陽に照らされた横顔はとても真剣で話しかけられるような雰囲気でもなかったが、どこか神々しく思えた。
帳簿でもつけているのかと思ったが、彼女がページをめくったときにちらりと本の表紙が見えた。
それは高校生が使っているような英語の参考書だった。それを見たとき、僕の脳裏にちらりと浮かんだのは、「海外留学」という言葉だった。
大野さんはまだ若い。ずっとここで働くつもりではないだろうし、将来のことをちゃんと考えているのだと思うと、おこがましくもなぜかほっとしている自分がいた。
僕はコピー用紙の重みを背負ったリュックの中に感じながら、その場を通り過ぎた。
いつものように更衣室でシャツとスラックスに着替えて革靴を履いた。最近、踵がすり減ってきていて、そろそろ買い替え時かなと思う。
脱いだ衣服をロッカーに放り入れていると、ノックもなしに吉村さんがドアを開けて入ってきた。
「岩ちゃん、悪い。ちょっと来てくれるか?」
と申し訳なさそうに顔の前で手を合わせる。
「看板替えるから、ちょっと手伝ってくんない?」
僕は、わかりましたすぐ行きますと素直に返事をして更衣室から出た。
店の外では、ビルの間から目を細めたくなるようなオレンジ色の夕陽が差し込んで、路地のアスファルトを照らしていた。陽が当たらない路肩の影には捨てられた煙草の吸殻や空き缶が転がっていた。
「これも後で掃いとってくれる?」
吉村さんは路肩のゴミを苦々しい表情で見つめながら僕に言った。
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薄汚れた店の側壁に固定されている巨大な看板を脚立に上って二人で外した。看板には大きなステーキとハイボールの写真が載っていて、新たに付け替えられる看板にはチーズとワインの写真が載っていた。どちらの看板も専門の業者に発注して作ったものなのでそれなりに立派な代物だったが、新しい看板をねじで固定している間も、道を歩く人たちは見向きもしない。
同年代くらいの男が上司と思しき人間と並んでスーツ姿で闊歩していく姿を横目で見ながら、僕は自分が何もない二十七歳のフリーターであることを思い知らされた。
そして、更衣室のロッカーに放り込まれたリュックを思い出す。中には書き上げたばかりの小説の原稿が入っている。僕はそれを大野さんに見せるつもりでリュックに入れたのだ。
僕はきっと、学生時代に僕に文才があると言ってくれた女の子の影を大野さんに重ねていたのだ。大野さんは僕の文章を読んでもきっと、現実を突きつけたりはしないだろうという甘い考えがあったし、それに心のどこかで自分には文才があるとまだ思っていたのだ。
可能性などという言葉に人生を賭けられる時間はもうとっくに過ぎているのに。
ここから抜け出すだめには、一時の慰めなんて必要ない。
僕は胸の内でそう呟くと、脚立に足をかけながら沈みゆく夕陽を睨んでいた。
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まだ梅雨の足音など微塵も感じさせないよく晴れた日の午後、何度も推敲を重ねた原稿を角2の封筒に入れて郵便局に持っていった。
窓口に立っていた局員の太った中年女性は、封筒に書かれた出版社の宛名と「原稿在中」の文字を見ると、含んだような笑みを浮かべて、
「では、ちゃんと送っておきますね」と言った。
僕は小さく会釈をして料金を払うと、領収書をもらって足早に出口へと向かった。
郵便局を出た僕は、目的もなくしばらく近所を散歩した。ポプラ並木の木洩れ日が眩しかった。途中、コンビニに立ち寄ってアイスを買った。バニラ味の棒アイス。
店の前で食べていると、目の前の道路をどこかの会社の営業車が通り過ぎていった。運転していたのはまだリクルートスーツを着させられている感じの若い女性だった。
平日の午後にコンビニの前で私服でアイスを食べている二十七歳は世界に自分だけのような気がしたけれど、不思議と心は落ち着いていて焦りみたいなものは感じなかった。
きっとこの温かい気候のせいだと思う。僕はスマホを取り出して、週間天気予報を見た。
スマホの週間カレンダーには、来週から雨マークがずらりと並んでいた。
天気を確認した僕は、アイスを食べ終えると木の棒をゴミ箱に捨てて、また歩き出した。