岩村悠斗⑥
店内に戻りレジで売り上げをチェックしていると、スマホを見ていた吉村さんが突然申し訳なさそうに顔を上げた。
「悪いがんちゃん、ちょっと急用ができた。このまま、戸締りまでまかせていいかな?」
「別にいいですけど、どうかしたんですか?」
答えながら、すぐさま別の思考が頭をよぎる。
料理長は最後の料理を出すともう帰ってしまっていたし、吉村さんが返ると必然的に残っているのは厨房の片づけをしている大野さんと僕だけになる。
「いやあ、急に子供が熱出したって嫁さんからLINEが来てさ」
そんな吉村さんの声も耳には入ってこなくって、僕は大野さんと二人だけの店内を想像する。そのせいで、どこまで小銭を数えたかを忘れてしまった。
「じゃ、そういうわけだからさ」
吉村さんは言い残すと、足早に表の出入口から出て行った。その様子はなんだか何かから逃げているようでもあった。
厨房で大野さんが片付けをする音を背後に聞きながら、僕は一から小銭を数え始めた。
銅やアルミでできた貨幣がじゃらじゃらとこすれ合う音と、換気扇の音が誰もいないホールに妙に大きく響く。
時折、厨房からまな板に包丁が当たる音や、鍋で何かを煮込む音が聞こえてきて、明日の仕込みでもやっているのだろうか、と思う。
今夜の売り上げは31万4264円だった。伝票とも照合したから間違いない。どうでもいいことだけど、明日この金額を聞いた部長の喜ぶ顔が目に浮かんだ。
もちろんこんな額、大手のチェーン店からしたらはした金だってことはこんな僕でもよくわかってる。でもうちみたいな小さな店にとっては、このはした金を稼ぎ続けることが生き残るために大きな意味があるのだ。
伝票の整理をしていると、店内の乾いた空気中を漂って、炒めた油の匂いがゆっくりと僕の鼻腔に近づいてきた。
「岩村さん」
背中の声に振り返る。そこには料理を出す小窓から、大野さんが小さな顔を覗かせていた。
「今日、休憩時間もらえてないですよね?」
と彼女は言った。
もらえてないと答えると、彼女は小さく頷いて、小窓からすっと大皿を差し出した。
「作ってみたんです。よかったらどうぞ」
そこに盛られていたのは、余計な具が一切入っていない、にんにくととうがらしをオリーブオイルで炒めて、パスタに絡めただけのシンプルなペペロンチーノスパゲッティだった。
僕は少し驚きながらも、彼女の顔と大皿を交互に見る。
「ペペロンチーノ、お嫌いでしたっけ?」
と彼女の顔が一瞬曇る。
そんなことないです、と慌てて僕は答えると、湯気が立つ大皿を両手で持ち上げた。
陶器の表面を通して手のひらに温もりが広がっていく。
「いいんですか?」
と僕が言うと、
「冷めないうちにどうぞ」
と彼女は小さく笑った。
僕はグラスに水道水を注ぐと、カトラリーを入れた棚からフォークを一本取り出して、片付け終えた客席に大皿を置いて腰掛けた。
店内のメインの照明は落としていたので、オレンジ色の補助照明だけが僕以外に人のいないフロアをぼんやりと控えめに照らしていた。柱に掛かった額縁の中で、ジェームズ・ディーンがニヒルな笑みを浮かべていた。
「いただきます」
小さく手を合わせて、パスタをフォークに絡ませる。口の中に持っていくと、麺は程よい固さに茹で上がっていて、噛むと弾力を残して優しく切れた。にんにくとコショウの風味が胃を刺激して、次のひと口へと誘ってくれる。
厨房のスイングドアが軋む音がして、大野さんがホールに出てきた。その右手には小皿が、左手には栓を抜いたバドワイザーの瓶が握られていた。
彼女は小皿と瓶をテーブルに置いて、僕の正面に腰掛けた。
「それ、少しください」
そう言って彼女は小さなフォークで僕の大皿からペペロンチーノを自分の小皿に少しとった。バドワイザーをひと口飲むと、フォークに絡めたパスタを小さな口に運ぶ。もぐもぐと口を動かしながら、納得したように何度か小さく頷いた。
「うまいですよ」
と僕は感想を口にしてみた。でも彼女は、
「そうですか」
と小さく言って、またバドワイザーをひと口飲んだ。
僕の評価など気にしていないようだった。
僕は彼女が作ってくれたペペロンチーノを黙って口に運び続けた。会話の糸口がつかめなかったってのも大きいけれど、実際、彼女のペペロンチーノはおしゃべりをしながら食べるには勿体ないくらいに美味しかった。
「知ってます?」
唐突に大野さんが口を開いた。
「ペペロンチーノって、イタリアじゃ一般的に家庭で出されるもので、こういうレストランでは出ないんですよ」
「へえ、そうなんですね」
僕が手を休めて言うと、彼女は小さく頷いた。
「このパスタって、イタリアの南部が発祥なんです。イタリアって北と南で貧富の差が激しいから、あ、ちなみに北が裕福で南が貧しいんです、南の貧しい地方ではパスタに絡める具材がなくても、簡単に家にあるものだけでできちゃうパスタってことで広まったんです。だから、わざわざお店ではこんな料理は出てこないんですよ」
「詳しいんですね」
と僕は言った。
「イタリアに行ったことがあるんですか?」
「まさか」
と彼女は口元に手を当てて笑った。
「そんなわけないじゃないですか。ネットでたまたま見た情報ですよ」
彼女の笑顔につられて、僕も思わず笑ってしまう。こんな風に笑う人なんだな、と思った。
この流れで、今まで聞けなかったこともなんだか聞けそうな気がしてくる。
「大野さんって、なんでここの厨房で働いてるんですか?」
と僕はさりげなく口にしてみた。
彼女の顔から笑みが引く。ゆっくりとバドワイザーを卓上に置いてから彼女は口を開いた。
「そんなの、時給がホールよりよかったからですよ」
絶妙に核心をそらした答えが返ってくる。その口調には、これ以上の質問を受け付けまいとする断固とした響きが含まれていた。
僕は諦めて、グラスの水を一気に飲み干した。大野さんも小皿のパスタをフォークに絡めて、綺麗に全部食べてしまった。テーブルに備え置かれていたナプキンで丁寧に彼女は口元を拭う。その姿はどこかセクシーだったけど、彼女には当然その自覚はないんだろうなと思った。
ふと、ある不安が持ち上がる。
「これ、部長に見られたらまずい光景ですよね?」
と僕は言った。
あいつが今来たら、どうせガヤガヤと喚き始めるに違いない。
しかし大野さんはすました顔でバドワイザーをひと口飲むと、
「大丈夫ですよ」
と事もなげに言う。
「あの人、滅多に閉店後に来ませんし、仮に来たとしても、新メニュー考えてたって適当にごまかしとけばいいんです」
僕の視線がバドワイザーに移る。大野さんもそれに気づいたのか、前髪の間からちらりと僕を見てクスっと笑った。
この後、一杯どうですか?
僕の喉元に言葉が上る。もしこの言葉を発したら、彼女はどんな反応を示すだろう。
明日の朝に彼女がシフトに入っているのかも僕は知らないし、そもそもそんなことで彼女の答えが変わるとも思えない。
けれども、彼女が発する答えにはきっと何か決定的な要素が含まれているような気がして口に出すのがためらわれた。それに、さっきの亮二のにやけた顔がぼんやりと脳裏に浮かんできたので、僕はやっぱり彼女を誘わないことに決めた。
そんな陳腐な逡巡をしているうちに、彼女はバドワイザーを飲み干していた。
「ごちそうさま」
小さくそう言い残し、空の小皿と瓶を持って席を立った。
彼女が更衣室で着替えを済ませて出てきたとき、僕は大皿に盛られたパスタの最期のひと口を口に運んでいるところだった。
もう終電の時刻を過ぎていたけど、僕は彼女が出してくれたペペロンチーノを一本ダリとも残さずに平らげた。
彼女はその様子を満足げに眺めてから、
「おつかれさまでした」
そう言い残して裏口から出て行った。彼女が通った後にはほんのりと香水の匂いが漂っていた。
僕はその後、厨房の青白い蛍光灯の下で皿を洗ってから、着替えを済ませて店を出た。
通りの人はかなり少なくなっていた。お互いに肩を預け合って歩く中年おやじや、路傍で吐く若い集団がちらほらと残っているだけで、本格的に街は短い眠りにつこうとしていた。亮二の姿も見当たらなかった。
視線を上に向けると、ビルの間から月が見えた。煌々と輝く大きな半月だったが、ネオン街を歩く人間は誰もそんなものを見てはいなかった。
僕は閑散とした駅前でタクシーを拾って家に帰った。