岩村悠斗⑤
新緑の季節を迎え、世間が大型連休で浮ついていても僕の生活には何の影響もない。強いて言うなら、客が増えて忙しさが増すだけだ。いくら店の売り上げが上がっても時給が上がるわけではない。
「いやあ、がんちゃんが連休もシフト入ってくれてホント助かるよ」
ワイングラスを白いトーションで丁寧に磨きながら吉村さんはしみじみと言った。
「高木くんは試合があるって言うし、モモは連休使ってディズニー行くっつーし、やっぱ頼れるのはフリーターだよねー」
僕は何も言わずに冷蔵庫の中身をチェックする。オレンジジュースのストックが少なくなっていた。
そのとき、厨房の奥から男の笑い声が聞こえてきた。僕も吉村さんも、瞬時に笑い声の主を認識する。
吉村さんもあからさまにいやそうな顔をして、僕に向かって肩をすくめてみせた。
料理長の長浜さんが男と言葉を交わしているのが聞こえる。男が大野さんに話しかけないでくれることを願いながら、僕は黙々と開店作業を進める。
やがてその声がだんだんと近づいてきたかと思うと、スイングドアが乱雑に開け放たれた。
表れたのは予想通り、この店を担当している親会社の部長だった。
「おつかれさまでえーす」
にやにやと下卑た笑いを浮かべながら部長はカウンターに入ってくる。黄ばんだ乱杭歯をむき出しにして喋る姿は太ったねずみ男みたいだ。
「昨日の売り上げ見たよ。結構頑張ってるじゃん」
とねずみ男は言った。
吉村さんは小さく会釈を返すが、グラスを磨く手は止めない。開店時間は迫っているのだ。
「そうは言っても今月全体で見たらそんなに数字も出てないからさ、そろそろてこ入れを考えてるんだよ」
現場の空気などお構いなしにねずみ男は話を続ける。
「やっぱり人件費の問題は大きいよね。今まではバイトの子たちも大目に見てた部分もあるけど、社員と同じくらい働いてもらいたいと思ってるんだよ」
不快な発言とともに自分の背中に視線を感じる。僕は聞こえないふりをして看板を出すためにその場を離れた。
その日は息つく暇もないくらい殺人的に忙しく、ビールとハイボールが飛ぶように売れた。おかげで僕はサーバーに繋がれた樽を何度も交換しなければならず、五度目の交換のときにはさすがに腕が痛くなった。
「がんちゃん、九番テーブルにこれ持っていって」
透明なジョッキにビールを注ぎながら吉村さんは言った。この人は絶対に泡の量を間違えない。目を閉じていてもきっちりと七対三で液体と泡をしっかりわける。
「こりゃあ、部長も喜ぶぞ」
「あの人に気に入られたいんですか?」
と僕は冷めた口調で言った。
「まさか」
吉村さんは苦笑して、ジョッキをカウンターの上に置く。
僕はそれを客のところへ運んでいく。
「お待たせしました。生ビールですね」
九番テーブルにいた男性客の一人にジョッキを手渡したとき、ふと、その男と視線が交錯した。
相手は大きく目を見開き、口をぽかんと開ける。
僕は何も気がつかないふりをしてその場を離れようとしたけれど、もう遅かった。
「あれ? 岩村?」
と男が言った。
それは何年も前に退社した会社の同期だった。
その会社は旅客運輸や不動産を扱っており、この地方じゃそこそこ有名で内定をもらったときは素直に喜んだことを覚えている。
入社後、僕は交通事業部に配属され、彼は分譲事業部に配属された。元から分譲希望だったという彼は、入社当初から僕とは違うと思っていた。
いつも明るい性格で、同期研修のときも常に他の同期のまとめ役となり引っ張ってくれた。仕事帰りに二人で安いうどんをすすって帰ったこともある。
久しぶりに見る彼は、あの頃よりもふっくらとしているように見えた。
当時は判を押したように毎日リクルートスーツで出社していたが、今目の前にいる彼は高そうなスーツに身を包んでいた。
「ひさしぶりー!」
彼は嬉しそうに笑みを浮かべて言った。
僕は反応に困ってとりあえず軽く会釈したが、たぶんその顔は引きつっていたと思う。
「今、何してんだ?」
と訊く彼に、
「見ての通り」
僕は小さく肩をすくめてみせた。薄っぺらいシャツに底がすり減った革靴で働く僕と立場の違いを実感する。
「そっちこそ、今日も仕事?」
と僕は言った。
「ああ、この時期は連休を利用してモデルルームを見に来る客が多いからな。休日出勤の上に毎日残業だよ」
言葉とは裏腹に、彼の表情は明るく充実しているように見えた。
厨房で料理が上がったことを知らせるベルがちりんと鳴る。
遠くからカウンターに目をやると、吉村さんが厨房の方をちらちらと見やりながら僕に目で合図を送っていた。
「引き留めてすまないな」
爽やかな笑顔で彼は言う。ビールの泡はもう消えていたけれど、そこには嫌味の一点も感じられない。
帰り際に、彼はチップだと言って千円をテーブルに置いていった。
相変わらず、できた男だと僕は思う。そして、二度と来ないでほしいと思った。
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この日は休憩ももらえなかった。労基法違反ではあるが、飲食店なんてそんなものだと、いちいちもう怒る気にもならない。
革靴で長時間動き続けた脚はぱんぱんにむくんで、足首の間接が潰れたように痛んだ。
深夜0時、通りはまだまだ宵町を楽しむ老若男女で溢れていたが、最後の客を見送ると、店先の看板を店内に下げる。
「あれえ? がんちゃん、もう店じまいっすか?」
路地でその様子を見ていた客引きの亮二が冷やかすように言ってきた。
「そうだよ、文句ある?」
と僕はそっけなく返す。
「なんならこの後、俺が店紹介しますよ?」
「帰るに決まってんだろ」
「そんなつれないこと言わないでくださいよぉ。今日全然客がつかまらなくて困ってんっす」
「知らないよ、自分でなんとかしろ」
「もし美咲ちゃんも誘ってくれたら、紹介料はがんちゃんにあげてもいいっす」
最後の言葉を僕は無視して、重たい看板を店内へと引きずり込むと、ドアを閉めてからガラス越しの彼に向かって赤い舌を見せてやった。