岩村悠斗④
八畳一間のアパートに帰ると、時計の短針は1を指していた。
ぬるいシャワーを浴びて、冷蔵庫で冷やしたミネラルウォーターを飲む。首にかかったタオルからは先日変えたばかりの柔軟剤の匂いがした。
リビングに戻って壁際に置かれた机に向かった。ラップトップを開いて、デスクトップに保存しておいたワードのファイルをダブルクリックする。
青白いディスプレイに縦書きの文字の羅列が浮かぶ。僕は目を閉じて静かに息を吸ってから、時間をかけてゆっくりと吐いた。
時計の音だけが深夜のリビングに小さく響く。僕はそっと瞼を開くと、キーボードを叩き始めた。
僕が小説を書き始めたのは、大学二年の冬だ。たまたま教授から高評価をもらったレポートを友人に見せた。同じゼミに所属する背の低い女の子だった。
構内の談話室で彼女が紙をめくる音を隣で聞きながら、僕はスマホで首相辞任のニュースを読んでいた。
ふと、彼女が言った。
「がんちゃんって、文才あるよね」
僕はスマホから視線を上げて彼女を見たが、彼女は表情一つ変えずに僕のレポートを読み続けていた。
嬉しかったかと聞かれれば、そうなのかもしれない。
それまで何かの才能があるなんて言われたことはなかったし、そして何より、その女の子はかわいかった。
彼女がどこまで本気で言ったのかはわからない。レポートを見せてくれた相手に何気なく世辞を言ってみただけなのかもしれない。彼女もきっと忘れているだろう。
だけど、そのときのあの子の横顔はなぜか僕の脳裏にずっと焼き付いている。もしあの出来事がなければ、就職した会社を一年で辞め執筆活動に力を入れ始めたりしなかっただろう。
もちろん彼女がそう言ったからといって、それが真実だとは限らない。
僕はそれから熱心にワードで小説を書いては出版社の賞に応募したけれど、今日まで一次選考すら通過したことはない。ファンタジー、ミステリー、純文学、様々なジャンルに挑戦してはみたものの、どれ一つとしてものにならなかった。
自分でも笑ってしまうくらい、馬鹿な選択をしたなと思う。
会社を辞めるとき、家族は当然反対した。この不景気にせっかく正社員として受け入れてくれた会社を一年で辞めるなんて正気の沙汰とは思えなかったのだろう。
ただ、そのとき勤めていた会社から早く逃れたかったのも事実だ。毎日のように浴びせられる罵倒、長時間におよぶサービス残業、違法な契約。このままでは壊れてしまうと思った。
僕に文才なんてものはなかった。いや、そんなことは最初からわかっていた。でもその現実を受け入れたくなくて、何年も前のたった一度の友人の言葉にしがみついて(言い訳にして)いるだけなのだ。
どちらがよかったなんて、今の僕には判断できない。だが、何も現状が変わらないまま若さを浪費してゆく現実に、焦りを感じ始めている自分がいる。
余談だが、最近SNSで彼女が結婚したことを知った。相手は同じゼミにいた僕の友人だ。素直にお祝いのメッセージくらいは送ったけれど、会社を辞めたことは家族以外誰にも話していない。
そして今日も性懲りもなく、僕はこうして文章を書き続けている。
熱いコーヒーを五回淹れ直し、目薬は三回さした。何度も書き直しながら文字を紡ぎ、眠りにつく頃には、もうカーテンの外が明るんでいた。