岩村悠斗③
二十一時を回った頃、黒いダウンジャケットを着たスポーツ刈りの大男が裏口から厨房を通ってカウンターへ入ってきた。
「おはようございます」
低く通った声で男が言う。
そのとき、店は予約の二組以外にもう三組客が入っており、僕と吉村さんだけでは対応しきれずに料理を出すのもかなり遅れていた。
「高木くん!」
救世主でも見るような目で吉村さんが言った。「本当に来てくれてありがとう。もうダメかと思ってたよ」
「こちらこそ、遅くなってすみません」
高木くんはそう言って、僕にも小さく頭を下げると更衣室へと向かう。
「店員さーん! 料理まだー?」
客席から酔った男の声がする。
僕はため息を押し殺し、心底申し訳なさそうな顔をしながら謝罪の言葉を繰り返した。
次から次に入る注文を三人でなんとかさばいていると、客も少しずつ掃けていき、やがて待ち望んでいた小康状態が訪れた。
高木くんと手分けしてテーブルの皿やグラスを下げていく。どの卓も見事に食べ散らかしてくれているから、接客中よりもこの時間が一番だるい。
「がんちゃん、そこ片付けたら一時間休憩ね」
吉村さんのそんな言葉だって大した慰めにはならなくて、僕は黙々とテーブルの上を綺麗なダスターで拭いていった。
それが終わって、休憩のためにサロンを外し財布を持って店を出ると、通りは開店前とは比べものにならないくらい多くの人で賑わっていた。
これから二次会へ向かうであろう酔客たちの間を縫って、僕は近くのコンビニに入った。
スパゲッティと缶コーヒー、それから吉村さんに頼まれていた煙草を買う。レジ袋をぶら下げて足早に店に戻る途中で、
「ちぃーす、がんちゃん」
雑踏の中から声をかけられた。
立ち止まって声のした方向に視線を向けると、派手なピンク色をしたナイロンジャージを羽織った金髪の男がこちらに白い歯を見せて手を振っていた。
「亮二か」
と僕は言った。
亮二はこの繁華街で客引きのバイトをやっている二十五歳の青年だ。
繁華街中を歩き回り、道行く人に声をかけて店を紹介していく。もし紹介した店その客が入れば、紹介料としていくらかの歩合がもらえるという仕組みらしい。
「今日は俺、もう五人も店に通したんっすよ。すごくないっすか?」
と彼は上機嫌に笑う。
「どうでもいいけど、うちの店の前では控えてくれよ」
と僕は言った。
「こないだだって、君の仲間がうちの店の客連れていったもんだから店長はカンカンになって怒ってたよ」
「でも、がんちゃんの店の前で看板見てただけの人はそっちの客とは呼べないっすよ」
と彼に悪びれる様子はない。まあ正直、僕にとっても誰がうちの客かなんてのはどうでもいい話だ。店の売り上げがどれだけ上がろうと、こっちの給料が上がるわけじゃないのだから。
「そんなことより、がんちゃん」
と亮二は言った。
「今日美咲ちゃん出てるんっすか?」
出てるよ、と僕が答えると、彼は嬉しそうに目を輝かせた。
「美咲ちゃんってマジかわいいっすよね。がんちゃんもやっぱ狙ってるんっすか?」
「んなわけないだろ」
と僕は多少ムキになって言った。その脳裏に一瞬だけ吉村さんの顔が浮かぶ。
「じゃあ、今度紹介してくださいよ」
と亮二は言った。
「絶対にいやだ」
僕は彼を振り切って人混みの中を店へと戻っていった。
更衣室の小さなテーブルで、買ったばかりのペペロンチーノを食べていると、扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
と僕がドアに向かって言うと、静かに扉が開いて、調理服を着た大野さんが入ってきた。髪はしっかりと結ばれていた。一瞬だけ目が合って彼女は小さく頭を下げる。僕の背後を通ってロッカーに向かう彼女からは甘い香水の香りがしたが、すぐに目の前のにんにくの匂いにかき消された。
ぎこちなくパスタをすすりながら、ロッカーが開く音に無意識に耳が敏感になる。僕はあえて食べかけのペペロンチーノに視線を落とし続けていたが、
「何食べてるんですか?」
突然声をかけられて、僕の心臓はとくんと跳ねた。
顔を上げると、調理服を脱いだ大野さんが不思議そうな目でテーブルを覗き込んでいた。
予想外の出来事に、僕は目を泳がせながらもペペロンチーノの容器を彼女に見せる。
「パスタが好きなんだ?」
と彼女は言った。
「そういうわけじゃないですけど。なんとなく、コンビニで目に入ったから」
言ってから、もっとましな答え方があったんじゃないかと逡巡する。
大野さんは二回小さく瞬きをして、
「そっか」
抑揚のない声でそう言った。
「じゃあ私、今日九時半までなんてお先に失礼します」
リュックを背負うと、耳にイヤホンをつけて足早に更衣室を出て行く。僕はその小さな背中を無言で見送ると、目の前のパスタにフォークを乱雑に突き刺し一気に口に掻きこんだ。
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休憩時間が終わってホールに戻ると、店には二組の客しか入っていなかった。
カウンターでサロンを巻き直し、今入っているオーダーをチェックする。十四番テーブルの客は、あさりのバター醤油炒めと牛タンステーキを頼み。三番テーブルの客はデザートのスフレを注文したところだった。
「料理長、一人で大丈夫なんですか?」
隣に立つ吉村さんに言ってみると。
「大丈夫大丈夫」
とのんきな返事が返ってきた。
この人の言う大丈夫に根拠がないことはこの店で働く全員がわかっていることだけど、かと言って僕が調理できるわけでもないので、余計なことは一切言わない。
「しかしがんちゃんって痩せてるよね」
と吉村さんが言った。
「体重何キロ?」
「六十キロです」
「で、身長は?」
「一七八センチ」
「それは痩せすぎだよ。もっとちゃんと食べなきゃ」
「別にいいんですよ」
僕はホールを見渡しながら言った。
「僕は高木くんみたいにスポーツやるわけじゃないですし」
視線の先では高木くんが黙々と空いたテーブルをダスターで綺麗に拭いていた。
「彼、学生野球の大会で今度、全国に行くらしいよ」
と吉村さんが嬉しそうに言った。
「すごいよねえ」
「彼が全国に行ったら、その間シフトに入れませんね」
僕は皮肉を込めて返すが、
「そこは俺とがんちゃんで頑張るしかないよ」
吉村さんは笑って答えた。
穴を埋めるなら一人でやってくれ。僕は心の中で呟いたが、横に立つハゲオヤジの横顔を見ながら、この人は根本的に善人なんだろうなと思った。