大野美咲⑧
お父さんと別れて、家に帰ると、肉の焼ける香ばしい匂いが玄関まで漂っていた。台所まで足を運ぶと、そこではエプロン姿のお母さんがフライパンでひき肉を炒めていた。
作業台の上にざるに入った木綿豆腐と中華の素が箱のまま置かれており、今日の晩ごはんは容易に想像がつく。
「ねえ、お母さん」
肉を炒めるエプロン姿の母の背中に声をかけた。
「高卒認定に受かってから話そうと思ってたんだけど」
換気扇と、ジュージューと肉が焼ける音が邪魔をする。でも、それを言いたい衝動は抑えられなかった。
「私、大学に行きたい」
それを言ってしまってからも、母はそのままの体勢でしばらくひき肉を炒め続けていた。
本当に聞こえていないのか、それともこれはノーという意思表示なのか、判断がつかずに困惑する。
しばらく反応がないので、諦めて踵を返そうとした。そのとき、
「行けるわよ」
換気扇と肉の焼ける音に交じって、母の声が私の鼓膜をそっと揺らした。
「え?」
驚いてとっさに振り返る。目を丸くする私の前で、母はフライパンの縁に静かにしゃもじの柄を置くと、ガスコンロの火を止めた。
「ちょっと待ってて」
彼女はそう言うと、エプロンを外して台所から姿を消す。
やがて戻ってきた母の手には銀行の通帳が握られていた。ちらりと見えた表紙の名義人欄には、私の名前が印字されていた。
表紙をめくりながら、母が言った。
「これ、あの人があんたのために残してくれてたのよ」
差し出されたページに視線を落とす。そこには数字の「5」の後に、「0」が六つ並んでいた。振込元には、父の名が小文字のカタカナで刻まれていた。
「お父さん、ずっとあんたのこと心配してたのよ」
母の声を聞きながら、その意味を理解する。
そのとき、この会話を盗み聞いていた妹の美紅が、台所に姿を見せた。その手には好物のスイカバーが握られていた。
「おねえちゃん大学行くの?!」
と嬉しそうに聞いてくる。
「まあ・・・受かればの話だけど」
「やったー!」
彼女はそうはしゃぎながら抱き付いてくる。アイスが服についたら大変なのに、そんなことはお構いなしだ。
「もし私も受かったら、おねえちゃんと同級生だね」
そっか。美紅、あんたもうそんな歳なんだね。
「美紅、一応あんたのこともお父さん考えてたみたいだけど、今の成績じゃどこにも受からないわよ」
母に言われた妹はごまかすように口笛を吹き、狭い台所に女三人の笑い声が響いた。
「さ、もうすぐご飯だから、お風呂掃除してきてちょうだい」
母はそう言って、またエプロンを付け直す。
胸の奥がじんわりと温かくなる。父に会ったことは母には言わなかったけれど、試験が終わったら、結果に関係なくお父さんに連絡しようと思った。




