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FUTURES  作者: ナル
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大野美咲⑦

 読書室に戻ると、壁にかかった時計の針はちょうど十二時を指そうとしていた。


 さっきよりも館内の人が増えているような気がする。目を細めながら新聞を読む老人や、けだるそうに課題をこなす高校生の姿が見えるが、中には外の暑さをしのぐ目的で入ってきた人もいるのだろう。


 ふと、そんな人たちに交じって、どこかで見覚えのある後ろ姿を見つけた。


 私から少し離れた机にまっすぐに座り、背筋を伸ばして本を読んでいる。その背中は、幼い頃からずっと見てきたあの人のものだった。


 確信が持てなかった私は、恐る恐る彼の横顔が見える位置に移動した。


 心臓の鼓動が次第に早くなる。


 距離を保ちながら、ゆっくりとその机の真横に位置取って、気づかれないように何度も短い視線を送ったが、何度確認してみても、真剣にページを繰る横顔は、五年前に家を出て行った父のものだった。


 私は父に声をかけるべきかどうか迷った。実際にはほんの数十秒のことだったのかもしれないけれど、その間も、私と父の間を何人かの人が通り過ぎていき、私の心は振り子のように何度も揺れ動いた。


 もし話しかけたとして、もう他人だと冷たくあしらわれたらどうしよう。

 

 拒絶される恐怖と、再会を喜びたい感情が交錯し、その場からしばらく動けなかった。


 やっぱりダメだ。


 いつもの悪い癖が鎌首をもたげ、父と話したいという思いが急速にしぼんでいく。


 しかし、今ここで後ずさりをすれば、私の中で父との関係は永遠に終わってしまうような気がした。

少しためらった挙句、私はそっと彼に近づくと、


「お父さん・・・?」


 なけなしの勇気を振り絞って声をかけた。


 お父さんは商店街の路地に面した小さな喫茶店に私を案内してくれた。窓際の座席にテーブルを挟んで向かい合って座り、


「なんでも好きなの頼んでいいよ」


 彼はラミネートされたメニュー表を私に手渡す。


 午後の店内は閑散としており、静かにジャズが流れていた。

 

 正直お腹もかなり空いていたし、「遠慮しないで」というお父さんの勧めもあって、私はナポリタンスパゲッティのコーヒーセットを注文し、父は焼きぞばを注文した。

 

 料理が運ばれてくる間もテーブルの木目に視線を落としながら、話すことが見つからない私は一人そわそわが止まらない。けれど、それはきっとお父さんも同じなのだろう。彼もまた壁のしみや天井のプロペラをぼんやりと眺めたりして、必死で話題を絞り出そうとしているみたいだった。

私は目の前に置かれたグラスの水をひと口飲んで喉を潤すと、


「ここ、よく来るの?」


 と訊いてみた。

 

彼は頭上で緩く回転するプロペラから視線を外し、私を見た。


「そうだなあ、頻繁にってわけでもないけど、たまに、ね」


 ぎこちなく笑う父の目尻に小さな皺が刻まれて、なんだか老けてみえたけれど、それは幼い頃、いつも私や妹に向けてくれた優しい眼差しだった。


「こうして美咲と二人で話すのは何年ぶりかな」


 しみじみとお父さんは目を細めた。


「うん・・・」


 五年だよ。お父さん。心の中で呟きながら、私も控えめに目を合わせる。


 私もいろいろあったけど、きっとそれはお父さんもなんだろうなと思った。だって、お父さんの左手の薬指にはちゃんと指輪がしてあったから。


 まあ、この人がお母さんと離婚した経緯を考えれば、不思議なことではないけれど、やっぱりなんか複雑な気持ちにはなる。


「図書館にはよく行くのか?」


 と彼は言った。


「頻繁にってわけじゃないけど、まあ、たまに」


 私の答えに父はまた嬉しそうにくすっと笑った。私は笑わなかった。


 私が注文したナポリタンが先に運ばれてきて、少し遅れて、お父さんの焼きそばが運ばれてきた。


 銀色のお皿に盛られた私のナポリタンは、しっかりと炒めた麺と、大きく刻まれたウインナーと玉ねぎにソースがよく絡まっていて、私はしばらくの間、無言でそれを食べた。

 

 その間、父は静かに焼きそばを食べながら、私が食べる様子を満足気に見ていた。

 

 食後にセットのアイスコーヒーをストローで飲んでいると、


「美咲は今、何してるんだ?」


 と父は興味深そうに私に聞いた。


「繁華街のお店で働いてるよ」


 と私は何の気もなしに正直に答える。


「ウエイターとか?」


「ううん、厨房で」


「料理人でも目指してるのか?」


「まさか」


 と私はシニカルに笑った。


「そんなわけないじゃん」


 しかしお父さんは、妙に真面目な顔をして、


「じゃあ、将来は何になりたいんだ?」


 と聞いてくる。


「別に」


 と私はぶっきらぼうに答えた。


「将来とか、何になりたいとかないけど」


「もし、やりたいことがあるなら、やってみればいいじゃないか」


と彼は言った。


「お父さん、応援するよ。だって・・・」


「うるさいなあ!」


反射的に、そんな毛羽立った言葉を吐いていた。自分でも驚いたけど、彼の話を聞いていると、いろんな感情が湧き上がってきて、思わずそれが噴き出したのだ。


「別に、お父さんには関係ないじゃん・・・」


 静かに言い切ってしまってから、子どものように後悔する。反抗期の娘じゃあるまいし、自分でもばかばかしいと思う。


 けれど、とっくに社会のレールから外れてしまった私に対して、五年ぶりに会った途端、今さら将来を心配し始めるような態度に苛立ったのもまた事実だった。


 気まずい空気が流れる中、溶けかけの氷だけが残ったグラスに視線を落とす。グラスの表面についた雫が反射して、こぼれ落ちる涙みたいに光っていた。


「そうだな」


 お父さんの声がうつむく私の耳朶を打った。きっと気分を害しただろうな。そう思いながら恐る恐る顔を上げる。


 でも目の前に座るお父さんは、怒るでも、悲しむでもなく、少しだけ寂しそうに笑っていた。


「ごめん・・・」


 と私は言った。


「別にそういうつもりじゃ・・・」


「いや、いいんだ」


 お父さんは小さく首を横に振った。


「父さん、美咲に偉そうなこと言える立場じゃないからね。でもね」


 そして静かに言葉を続けた。


「父さんは今日、美咲が声をかけてくれて、とても嬉しかったんだ。もう何年も会っていなかったし、こんなに立派になってて正直驚いたよ。そんな美咲にはもう父さんは必要ないかもしれないけど、もし美咲が困っていることがあるなら、少しでも助けになりたいと思ったんだ」


 なぜだろう。


 昔から、お父さんの声を聞いていると、ささくれ立った気持ちもだんだんと穏やかになってくる。彼の声には人を安心させるような一種の催眠効果でもあるのだろうかと思っていた。


 だけど今日はそれに加えて、目の奥がじんわりと熱くなる。きっとこれは催眠効果じゃないな、と思う。私は悟られないように、唇をぐっと噛んでいた。


「父さんは母さんとはうまくいかなかったし、お前たちも父さんを許せないかもしれないけれど、父さんは美咲や美紅を、いつまでもずっと大切に思っているよ。だからもし美咲がいやじゃなかったら、いつでも連絡してきなさい。番号変わっていないから」


 冷房がよく効いた店内。グラスの中の氷はすっかりもう溶けていた。私は小さく一度だけ、視線をそむけて頷いた。



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