岩村悠斗②
吉村さんは大野さんのことを「美咲」と下の名前で呼ぶ。
詳しく聞いたわけじゃないけど、二人は過去に別の店でも一緒に働いていたらしい。過去と言ったって大野さんの年齢を考えればたかが知れているけれど、二人の関係を見ていると、なんというか、ぞわぞわした気持ちになる。
吉村さんは結婚しているし、まだ幼い娘もいる。
間違いなんてあろうはずもないと思っているが、僕よりも若い大野さんにとって、吉村さんは大人の男で、魅力的に映ることもあるのかもしれない。それに大野さんだってあのルックスだから、ひょっとすると吉村さんも・・・。なんてことまで脳裏をよぎる。
二人だけで話し込んでいるところを見たのは一度や二度ではない。その光景を僕はあまり自分の視界に入れないようにしている。
二人の間には、僕が入ることのできない特殊な空間があるような気がするから、変な疎外感みたいなものを感じたくなかったのかもしれない。
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カウンターの足元にある冷蔵庫にカクテル用のオレンジジュースやサイダーを補充していると、更衣室のドアが開く音がして、後ろ髪を結び直した大野さんが戻ってきた。その表情は入って行ったときよりも、心なしか穏やかに見えた。
しばらくして吉村さんも戻ってきた。
「さっき高木くんからラインで返信があったんやけど、九時からだったら来れるらしいよ」
何事もなかったかのように、嬉しそうに言ってくる。
「そうですか」
僕はそれ以上の反応を示さずに、足元の冷蔵庫に視線を落とした。
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午後四時五十五分。
開店五分前になると、店内は一気に慌ただしくなる。
僕はサロンを腰に巻いて、注文用のスマホのアプリを立ち上げる。ホールにはオレンジ色の照明が灯り、磨いた床やテーブルに光沢が宿る。
「がんちゃん、開けてきて」
吉村さんの声で、僕は店の玄関へと向かった。
外に出ると、冬の残り香を漂わせた風が軽く僕の頬をなでた。
ガラス張りの出入口にかかった「CLOSED」の表札を「OPEN」に裏返し、チョークでメニューが書かれた立て看板を入り口のすぐ脇に置く。
通りを見渡すと、まだ人通りはさほど多くはなかったが、ビールの樽を運ぶ業者や、僕と同じように開店準備を進める他店の人たちが目についた。
餃子屋、ラーメン屋、相席居酒屋、焼鳥屋、焼肉屋、カラオケ店、風俗の無料案内所・・・。
これから夜にかけて、この通りは仕事帰りのサラリーマンや、宵の街へと繰り出してきた若者たち、それらをターゲットにする客引き連中でごった返す。
嵐の前のまだ静かな通りにもう一度だけ視線をやってから、僕は店内へと踵を返した。
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この日最初の客が来たのは、開店してから三十分ほど経ったまだ明るい時間帯だった。
正装に身を包んだ初老の男女二人組で、予約の客ではなかった。コートを預かり席へと案内する。ソファー席を勧めると、男は迷うそぶりを見せたが女に促されて結局はカウンターから一番近いソファー席に向かい合って腰を落ち着けた。
カウンターの冷蔵庫からお通しの小鉢を出す。この日はゴボウと鶏肉のマヨネーズ和えだった。
トレイに乗せて席まで運び、二人の前にゆっくりと置く。男は多少緊張した面持ちで僕に小さく頭を下げた。女の方はメニューブックを開き、ゆっくりと文字を目で追っている。
「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのボタンを押してお呼びください」
僕は卓上の呼び出しボタンを示した。
「わしはビールでいいんだが・・・」
と男は居心地が悪そうに言った。だが女はそんな彼をたしなめるように優しく言う。
「せっかくこんな立派なお店に来たんだから、ワインでもいただきましょうよ」
立派なお店と言われて、僕は小さく会釈しながら、内心では苦笑した。本当に立派なお店なら、僕みたいな人間は勤めたりしないものなのだ。
「今日のワインは何がおすすめかしら」と女は言った。
僕はカウンター横のイーゼルに立てかけた黒板に目をやった。そこには本日のおすすめメニューが白いチョークで書かれている。僕にワインの知識はない。吉村さんがどこからか選んでくるのだ。
「本日は南アフリカ産の赤ワインがおすすめとなっております」
「じゃあ、それをボトルでいただくわ」
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
僕は小さく頭を下げて、カウンターへ戻った。
ブリキのバケツに手際よく氷水を張り、そこにワインボトルを入れて、グラスと共に客席へと持っていく。卓上にグラスとバケツを置くと、
「最初の一杯はついでくださるかしら」
と女が言った。
めんどくせえ客だと思いながらも、栓を抜いたボトルを持って、トーションをネックに添えながら二つのワイングラスに深紅色の液体をゆっくりと注いでやる。
「どうもありがとう」
と恭しく言った女に僕も軽く会釈を返す。
「私たち、今日四十回目の結婚記念日なのよ」
と女は言って男に視線を移した。
「この人ったら、柄にもなくきちんとしたお店に予約していこうなんて言い出したんだけど、私はそんな高いお店じゃなくても、あなたが連れていってくれるところならどこでもいいわって言ったら、このお店だったのよ」
男の顔が少しだけ赤くなる。
「さようでございましたか」
と僕は言った。
「本日は当店をお選びいただき、ありがとうございます」
女の話に、僕は勝手に二人の馴れ初めを想像してしまう。
女の言動には、どこか育ちのよさを感じさせる品のようなものがあった。それは後天的に努力で身に付けたり無理やり演じているというよりは、ごく自然と彼女の一部として滲み出ているものだった。
その一方で、男からはそのようなオーラは出ていない。彼が先ほど言ったように、ワインよりもビールを好むどこにでもいる普通のじいさんだ。今着ている背広だって、着させられている感がすごい。それでも向かい合う二人に違和感がないのは、どちらも素朴で温和な表情をしているからだろうか。
四十回目の結婚記念日・・・。四十年前を想像する。この二人の年齢を想像するに、高度経済成長期の日本だろうか。
様々な商品が開発され、日本が経済大国としての地位を確立していった時代とはいえ、まだ前時代的な価値観も根強かったはずだ。
「注文、いいかしら?」
突然の女の声に、僕ははっと我に返った。
「お伺いします」
慌ててスマホを開き、メニュー覧に視線を落とす。
女はオニオンサラダ、チーズの三種盛、枝豆のペペロンチーノ、海老のアヒージョ、鴨のローストを次々とオーダーし、ジェノベーゼを注文しようとしたがすぐに取り消して、ゴルゴンゾーラのパスタを注文した。
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
僕は一礼してその場を立ち去る。
ゴルゴンゾーラのパスタなんて、頼む奴の気が知れない。
匂いがきついし、冷めるとチーズが固まって皿の中で文鎮みたいに重くこびりつく。でも僕の好みとは関係なく、不思議とこのパスタは人気があった。
料理長はまかないでこのパスタを出してくれることがあったが、僕は一度も口をつけたことがない。
残さず食べてくれよと思っていると、背後でグラスの触れ合う音が小さく聞こえた。