岩村悠斗①
「おはようございます」
駅前の繁華街の路地に面した、厨房へつながる小さな裏口から店内に入ると、僕は厨房の面々に向かって声をかけた。
おはよー、と気のない返事が返ってくる。この声は料理長の長浜さんだ。彼は隅の丸椅子に座って男性情報誌を読んでいた。最近筋トレにはまっているらしいが、白い調理服を着た彼の姿はとても運動をしている人には見えなくて、ガリガリに痩せて腹をすかせた宇宙人みたいだ。
中央にあるステンレスの作業台では女性アルバイト店員の大野さんが、ジャーマンポテト用のベーコンを薄くスライスしていた。今日はこの二人で厨房を回すということか。
彼女は僕より七つ年下だけど、この店では先輩だからきっちり敬語を使わせてもらう。
「おはようございます」
声をかけると、彼女はちらりと目線だけを上げて、抑揚のない小さな声でおはようございますと言った。
厨房とホールをつなぐスイングドアを慎重に開けてホールに足を踏み入れた。
全ての明かりを落とし、窓からの光だけが差し込む空間にはひっそりとした静寂が漂っている。
薄暗いカウンターの奥に目を向けると、店長の吉村さんが黙々とワイングラスを拭いていた。
「おー、おはよ」
今年四十歳を迎えるこの中年男は疲れたような目を僕に向けた。
決して男前ではないし頭頂部も薄くなっているが、のりの効いたシャツにネクタイを締めて、真っ白なトーションでワイングラスを拭く姿には一種の気品のようなものが感じられた。
「着替えたら金銭チェックよろしく」と彼は言った。
はい、と短く答えて更衣室へ僕は向かう。
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二畳半の更衣室にはロッカーと丸椅子、そして小さなテーブルが置かれていた。扉がへこんだ自分のロッカーを開けて、中にリュックを放り込む。
ハンガーに掛かった濃紺のシャツに着替えて、ジーンズから指定の黒いチノパンに履き替えていると、更衣室のドアを誰かが軽くノックした。
そっちに目をやると、返事をする間もなくドアが開き、吉村さんが覇気のない顔をのぞかせた。
「がんちゃん、ちょっと困ったことになった」
と彼は苦笑しながら言った。
「どうしたんです?」
下着丸出し状態の僕はあまり気にすることなく言う。
「モモが今日急に体調が悪くなって来られなくなったってさ。今日は予約も三件入ってるし、二人で回し切れるかいね」
回しきれるかいねって・・・。そんなこと僕に聞かないでほしい。そもそも学生のアルバイトなんて、飲み会の予定が急きょ入っただけでも体調を口実にしてバイトをサボれる立場なのだ。それをうまく管理するもの店長であるあんたの役目だろ。
「今からでも高木くん呼んだらどうですか?」
と僕は適当に答えながら、履きかけのチノパンを腰までゆっくりと引き上げた。
「だけど今日週末だしなー」
と吉村さんは更衣室の低い天井を見上げた。
「彼、部活あるでしょ。来てくれるかなあ?」
だから知らないっつーの。
僕はあえて返答せずに先日磨いたばかりの革靴に足を通すと、つま先を数回軽く床に打ちつけた。
「まあ、ダメ元で連絡してみるよ」と吉村さんは小さな笑みを浮かべた。
「お願いします」と僕は言って、彼の横を横切るようにして更衣室を出た。
カウンターに行き、言われたとおり手早くレジの小銭を数えていく。
この店に来て約二年、毎日のようにこの作業をやっていると、目を閉じていても硬貨がこすれ合う音や感触だけで金額を数えられるようになってくる。
お札と合わせてぴったり十万円。今日も金額に間違えはなかった。
レジを閉じると、顔を上げてカウンターから薄暗いホールを見渡した。
フローリングの床は磨き上げられ、その上に無垢でできた大小十五のテーブルが並んでいる。ホールの中央にある柱には、小さな額縁が掛けられており、その中でジェームズ・ディーンが不適に笑っていた。
四方の壁に備え付けられた照明は、沈黙の中でひっそりと眠っているように見えた。この開店前の静かな時間が僕は好きだった。
できればしばらくの間、こうして静寂の中に身を置いていたいと思うが、開店時間が迫っているので仕方なく次の作業に取り掛かる。
消毒済みの布巾でテーブルを一つ一つ丁寧に、木目に沿って拭いていった。ただ無心で黙々と、埃一つ残さないように。
それが終わると、カトラリーの入ったバスケットとメニューブックを卓上にセットする。籐の椅子をテーブルに対して真っ直ぐになるように並べ、フロアの準備は一応完了した。
ドリンクの準備をするためにカウンターに戻ろうと踵を返したところで呼吸が止まった。
相変わらず表情に乏しい大野さんが、カウンターの真横に立ってこちらを見ていた。僕と彼女の視線がばっちりと交差し、奇妙な沈黙が流れる。
彼女はとても綺麗な顔立ちをしていた。
頬から顎にかけてのラインはなめらかな曲線を描いており、小さな鼻は一寸の狂いもなく真っ直ぐに前を向いていた。一重の瞼に並ぶまつ毛はしっかりと上を向いていて、薄い唇にはほんのりと紅が差してある。
肩まで伸びた髪をゴムで結んだ姿は美人といえばそうなんだけど、その一方でどこか近寄りがたいような、そんな雰囲気も漂わせていた。
無言のまま僕たちはしばらく向かい合った。彼女の顔を正面から見ていると、その深い瞳の中に吸い込まれそうになる。
何秒くらいそうしていただろう。先に口を開いたのは彼女の方だった。
「吉村さんは?」
と無表情のまま彼女は訊いた。
「え?」
僕ははっとなってとっさに応える。
「えっと、たぶんまだ更衣室にいます」
続く言葉を探そうとしたけれども、彼女はそれだけ聞くと一瞬の迷いもなく僕から視線をぷつりと断ち切り、真横を通り過ぎていった。
衣室へ向かう彼女を僕はぼんやりと目で追った。更衣室の前に立った彼女はゴムで留めた後ろ髪をほどいて、二、三度頭を横に振った。
小さな拳で軽くドアをノックしたが、返事も待たずにドアノブを回し、彼女は中に消えていった。