9、参詣犬①
矢橋屋の前で弦造が待っていると、蜜達が帰ってきた。弓兵衛は鐙の肩を借り、右足を引きずりながら歩いている。
「早く! お朝さんが起きる前に」
弦造は蜜を中に入れる。表着と髪の毛が砂で汚れているのを見て「ヒィ」と声を出した。
「こんな砂まみれで……。お朝さんに見られたら大変ですよ」
「私は部屋に戻りますので、お笹に湯を持ってくるよう伝えてください」
蜜は速やかに廊下を歩いて去った。
弓兵衛は鐙に支えられながら上がり框に腰掛けた。足丸がたらいを持って来ると、鐙は「弓兵衛殿を先に」と言った。
「痛みますか? お朝さんにお願いしますか?」
弦造が尋ねると、弓兵衛は頷く。
「お朝に叱られるな。足丸、夕餉の支度を頼む」
「はーい」
つり上がった大きな目を糸のように細くしながら足丸は返事した。
弦造は鐙に客間で休憩するよう促したが、鐙は「弓兵衛殿と話がしたい。俺も付き添う」と言って断った。
鐙達三人は、弓兵衛の自室に入る。弦造が急いで布団を敷き、表着と股引を脱いだ弓兵衛を寝かした。
弦造は羽織と小袖を抱え、「お朝さんを呼んできます」と言って、部屋を出た。
汗の臭いが、窓から入る風で薄まっていく。弓兵衛は仰向けで寝たまま首を動かし、真横で正座している鐙を見た。
「足を崩してくれ」
弓兵衛は謙遜と恥を語尾に含めて言った。鐙は「うむ」と返して、あぐらをかいた。
「弓兵衛殿、具合はいかがか?」
「どうってことねぇ。湿布を貼れば痛みは引く。話がしたいと言ってたが、呪抜刀のことか?」
「刀もそうだが。あの陽遣いの牛蒡という男のことが気になった。明らかに女将や弓兵衛殿を蔑んでいた。ただの町民にあんな態度を取るなんて。大陽大社の管理者は皆ああなのか?」
「いや、陽遣い様達は世輪町や参拝客の為に大陽大社をお守りする慎ましく立派な方々だ」
「では何故?」
弓兵衛は視線を天井に戻した。
「それは矢橋屋が犯した過ちのせいだ。この旅籠は蜘蛛の妖が支配している。蜘蛛は人に取り憑き、旅籠の主人になりすましてきた。定期的に取り憑き先を替えることで、長い年月旅籠を営んできた。
今は女将に取り憑いているが、その前は女将の祖母に憑いていた」
「女将が『妖に縁がある旅籠』と言っていたのはその為か」
「ああ。蜘蛛が旅籠を営む理由は、餌を集める為だ。蜘蛛は宿泊客を喰っていたんだ」
鐙の背に緊張が走る。
「安心しろ。女将に憑いてからは一切人を喰ってない。女将には蜘蛛を抑える力がある。だから町に現れる妖を掴まえて、蜘蛛の餌にするんだ。
しかし矢橋屋が人を喰ってきたのは事実だ。かつては陽遣い様を巻き込む程の騒動もあったそうだ」
「陽遣いにとって、矢橋屋は敵なんだな」
「女将は蜘蛛の悪行に対する償いを生涯かけて行う決心をした。蜘蛛は非常に強い。だが、祓えないはずはない……」
弓兵衛は身体を起こし、顔を近付けるよう手を動かした。鐙は身を前に倒し、弓兵衛の口元に耳を近付ける。弓兵衛は声を潜めて話す。
「俺は祓いの心得はあるが、蜘蛛を倒せる程の力は無い。だが、お侍様なら可能かもしれん」
「俺に女将の蜘蛛を祓えと……?」
「他言するなよ。女将の心は蜘蛛と繋がっている。普段は互いに戸を閉めているようだが、女将の感情が昂ると、蜘蛛は目覚めてしまう。絶対に知られるな」
布団の上の弓兵衛の握り拳に力が入る。
「女将はまだ十七の娘だ。なのに女子の幸せを既に諦めている。俺にはそれが耐えられない。お侍様が呪抜刀を祓える程に成長すれば、蜘蛛とも対峙出来るかもしれん」
「承知した。努めよう」と、鐙は言った。
「入るわよ!」という声と同時に障子が開き、仁王立ちしたお朝が現れた。
「ゆ〜み〜へぇ〜。何やってんのよぉ」
お朝は弓兵衛の布団を乱暴に捲り、持っていた布を弓兵衛の右膝に当てた。
「ヒィッ! しみる!」
「我慢なさい!
立ち仕事の料理人が足を痛めてどうするのよ。持病ならもっと気を配りなさい!」
「ジジィにはもっと優しくしておけ……アタッ」
「そんな口叩けるなら大したことないでしょ!」
お朝と弓兵衛が喚いているのを横目に、鐙は部屋を出た。廊下の先にある部屋を見る。猪に襲われた夜のことを思い出す。
娘は腹を抱えうずくまっていた。たった独りで苦しみに耐えながら、娘は人を救っているのだ。どれだけ蔑まれようと、嘲られようと。
鐙は唇を噛み締めながら、客間に戻った。
■■■■■
鐙が客間で昼寝をしていると、弓兵衛の声が聞こえてきた。
「夕餉を持ってきた。俺も一緒で構わんか?」
鐙は了承する。
先に弦造が膳を二つ客間に運び、部屋にあった行燈を灯す。薄暗くなっていた室内が明るくなる。
「ごゆっくり。後程、膳を片付けに来ますので」
障子の開閉時に、男衆の声や足音が聞こえてきた。忙しい時間帯のようだ。
鐙が上座に座り、向かって下座に弓兵衛が腰を下ろし、二人は食べ始めた。弓兵衛は寝間着の上に薄手のどてらを着ていた。丼に温めた出汁とうどんを入れただけの素うどんだった。出汁は薄く、うどんは茹で過ぎでフニャフニャだった。
「悪いな。今日は足丸が用意したから」
弓兵衛は苦笑いしながらうどんを啜った。
「刀の話をしてもいいか?」
弓兵衛が尋ねると、鐙は丼から顔を上げた。
「女将や弦造も同じ考えだ。呪抜刀には妖が憑いている」
弓兵衛は鐙の右側に置かれている刀を見た。
「刀が暴れ出した時、陽遣いの牛蒡も言っていた」
鐙は言った。あれからずっと気になっていたことである。
「俺も女将も、呪われているのは怨念の所為だと思っていた。しかし違った。呪抜刀は怨念の他に、強い呪いと妖が憑いている。五通りから参ったことで、上辺の怨念が祓われ、妖気が漏れ出した。今は落ち着いているがな」
「怨念と呪いと妖。どう違うのだ?」
「怨念は人の負の感情が強まったものだ。死者の怨念は更に強くなる。呪いは、誰かが意図的に怨念や邪悪な力を相手にぶつけるものだ。そして妖は自らの意思で生き物に憑き、やがて中を喰らいつくし支配する。
ちなみに邪気とは怨念・呪い・妖の気配を総称した呼び方だ。判別しにくいからな」
「刀は既に妖に支配されているというのか?」
鐙の声に不安が混じる。呪抜刀は藤鷹家にとって家宝である。刀そのものを失ってしまう可能性に、躊躇う気持ちが僅かに生じた。
「分からない。かなり複雑に邪気と妖気が絡み合っているからな。しかし刀の持つ強さと美しさは消えていない。まずはこの刀に憑いた呪いと妖の正体を見抜くことが大事だ」
弓兵衛は空になった丼を置いた。
「憑いた妖は強い。呪いが持つ独特な邪気は今も微かに感じるが、妖の気配即ち妖気はまるでない。己の気配を断てる者は当然に手強い」
「妖が憑いているとは、聞かされていない」
「真相を明らかにしないまま今に至っているのかもな。呪いの正体やきっかけは藤鷹家にとって不都合なことなのかもしれない。
呪いは条件を満たさないと発動しない。曽祖父の代から呪われたと言ってたが、呪いそのものは遥か前に憑いていた可能性もある。それこそ、主君から賜わったという時から……」
「我が主君と将軍様を侮辱するのか」
「もしかしたらの話だ。とにかく正体を掴まないと、呪いの根源にも辿り着けない。強い呪いはかけた者を特定しないと対策出来ない。妖も種類が分からないまま闇雲に倒そうとしても無駄だ。向こうの方が上手だからな。それでも、やる覚悟はあるのかってことだ」
弓兵衛は一層声色を低くして言った。細い切れ目から覗く瞳が鋭く光る。鐙はうどんを飲み込み、丼と箸を置いた。
「もちろんだ。その為にここまで来た」
弓兵衛は口元に笑みを浮かべた。
「時間のかかる作業だ。焦らずやろう。これからお侍様が訓練することは二つ。
一つは僅かな邪気や妖気を察知出来るようになること。もう一つは、妖との戦い方に慣れること」
「どうすれば身に付けられる?」
「五通りのにとほの間で座りやすい場所を見つけて、日中は瞑想と黙祷するんだ。今までと違う五感の使い方を会得する為、感覚を研ぎ澄ますのだ。
妖との戦い方についてだが、基本的な武芸は身に付いているはずだがら、その基礎鍛錬を続けながら、夜に妖が出たら実践する。俺か女将が付き添う」
「女将も……?」
「察知も戦いも、女将は俺より遥かに優秀だからな。お前が危なくなっても女将がいれば安全だ」
鐙は視線を逸らした。夜に浴衣一枚の娘と行動を共にすることになるかと思うと、やや気兼ねしてしまう。
「訓練は明日からだ。今夜はゆっくり休め。
女将が言うには、日中呪抜刀が暴れ回ったおかげで、今宵妖が町に出てくることはないってよ」
「かたじけない。弓兵衛殿、お頼み申す」
鐙は正座し直し、頭を下げた。
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翌朝、二階の客の足音がうるさくなる前に鐙は目覚めて着替えた。布団を畳み、押入れにしまうと、廊下に出て中庭に向かう。厨の前を通ると、弓兵衛が慌ただしく朝餉の支度をしていた。喧嘩被りの手拭い、襷掛けした滝縞模様の小袖に藍染の前掛け。股引の足元は快活に動いていた。
「お侍様、早いな」弓兵衛が振り返る。
「朝餉前に、中庭で素振りをしようと思って」
「ならばこれを使え」
弓兵衛は厨の隅から木刀を取り出した。
「防犯用に置いてるものだ。使ってくれ」
鐙は木刀を受け取り、礼を言った。
ミセニワと階段の間にある廊下を通ると中庭に出られるようになっている。更に続く渡り廊下を進むと、風呂屋に繫がる。厠と井戸も中庭にあるので、男達が数人支度の為に集まっていた。
鐙は男達から離れた庭の隅で立ち止まり、呼吸を整え木刀を振り始めた。
家を出てから一月経つ。その間、稽古を怠っていたことを身体は正直に教えてくれる。
「まるで駄目だな」
呼吸を整えてからもう一度素振りを開始する。
「朝から良いもん見せてもらえたな」
「ウチの坊ちゃんも剣術を習っているが、あんな綺麗な型じゃないよ」
「面構えも絶品だ。ありゃあモテるだろうよ」
馬の尾の様な後ろ髪が舞い、弧を描くように木刀を振り下ろす。
見目整った若衆の素振り姿を、厠待ちの宿泊客達が眺めていた。
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出汁の効いた粥をたらふく流し込み、鐙はミセニワに向かう。客を送り出した弦造が土間に立っていた。
「藤鷹様、お出掛けですか?」
「ああ、五通りで瞑想してくる」
「どうぞ、お疲れの出ませんように」
弦造は見送る為に、一緒にミセニワを出る。今日も快晴だった。鐙が見上げると、鳥が頭上で飛んでいた。首と足が細長い鳥だった。
「鶴だ。縁起が良いな。将軍様も応援してくださっている」
「将軍様が?」
「鶴は将軍家にとって吉兆の証だ。央照のお城の庭にもやってくるらしい」
「左様でございますか。しかし藤鷹様、あれは鶴ではありません。鶴がここまで来ることはありません」
弦造は言った。
「でもあれはどう見ても……。それとも鷺の仲間なのか?」
「いえ、あれは鶴の姿をした妖です」
鐙は驚いた顔で弦造を見る。弦造は「お静かに」と小声で言った。
「あの鶴は他の者には見えておりませぬ。その証拠に将軍家の吉兆なら、もっと周囲も賑わうはずです。私と藤鷹様だけ見えているのです。
藤鷹様お知りおきください。妖には二つあります。人や獣に取り憑き支配するもの。取り憑かず妖のままいるもの」
弦造はスッと姿勢を正し、微笑んだ。
「訓練を積めば、見抜けるようになるでしょう。人に取り憑く妖は危険な存在ですが、妖のまま揺蕩うものは、時に人の味方にもなります」
そう言って弦造はミセニワに戻った。
イラスト作成:アホリアSS様
2024/05/17:弓兵衛の読み方、ずっと「ゆみへい」としてましたが、「ゆみへえ」が正しいですね。修正しました(汗)