7、呪抜刀②
客間に敷かれた布団の上で鐙は目覚めた。天井からは足音が小太鼓のように響き、忙しない男達の声と弦造の間の抜けた挨拶が障子の隙間から届いてくる。しばらくそれらの音を楽しみながら二度寝していると、女の声が入ってきた。
「おはようございます、藤鷹様。朝です。入ってもよろしいでしょうか?」
鐙は上体を起こしながら返事した。
「髪を結わせて頂きます」
昨夜風呂で髪を洗った後、足丸は手拭いで鐙の髪を拭いた。足丸が持つ手拭いは熱が籠もっており、髪の水分を取る内にすぐに乾ききった。すっかり軽くなった髪を下ろしたまま、鐙は就寝した。
「油で撫で付ければよろしいですか?」
「いや、櫛で梳いて結うだけにしてくれ」
焦げ茶に近い色の髪を、お朝は言われた通りに結んだ。
「朝餉を持って参ります。布団はそのままに」
お朝は愛想の一つも見せることなく部屋を出た。
鐙は半襦袢の上に淡萌黄色の小袖と、鴨の羽色の袴を身に着ける。支度が済んだ頃に弦造と足丸が入ってきた。
「おはようございます。藤鷹様、昨夜はよく眠れましたか?」
弦造が言った。その横で足丸が朝餉を載せた膳を置き、布団の片付けを始めた。
「ああ、久々にぐっすり寝たよ。ここの客は皆朝が早いのだな」
「他の参拝客が目覚める前に支度しないといけませんからね。おかげ様で団体客も早々と宿を出てくださいまして、我々も一段落ついたところでございます」
足丸が先に客間を出た。
弦造が「どうぞお召し上がりください」と言った。膳の上には、湯呑みと茶碗と汁椀と梅干が置かれていた。
鐙は茶碗の蓋を取る。白米が一粒一粒ふっくら光っている。梅干の実を箸で千切り取り、白米と一緒に口にかき入れる。汁椀の中身は味噌だった。菜の花の緑が浮かんでおり、箸先を軽く汁に当てると、ややとろみを感じた。
「昨夜の牛骨の吸い物と同じ出汁か」
数口啜ってから鐙は言った。
「昨夜の残り汁を味噌で溶いたようです」と、弦造は説明した。
「藤鷹様、食べながらお聴きくださいまし」
弦造は畳の上に地図を広げた。世輪町内のものだと鐙はすぐに分かった。
「藤鷹様は大陽参りは初めてでございますか?」
「ああ。東灯藩には将軍家を崇める社がある。わざわざ大陽様を参ることは無い」
「左様でございますか。では、手順をお伝えします」
弦造は地図上の道を指でなぞりながら話し始めた。
「世輪町は南北を走る六つの通りと、東西を走る五つの『抜け』という横道の組み合わせで出来ております。六つの通りは奇数通りが参道、偶数通りが生活道と決まっています。この矢橋屋も生活道の四通りにあります。一般的な大陽参りは、三通りをほ抜けすぐから南に向かって進みます。高位のお貴族様や武家様は一通りを使います。そして五通りは町民用の参道と決まっています」
鐙は菜の花を箸で摘みながら弦造の話を聴き続けた。
「今回藤鷹様には五通りから南へ上って頂き、い抜けを通って四通りに入り、北へ戻って今度は三通りを上って大陽大社敷地内に入って頂きます」
弦造の指が上下に往復している。
「何故、先に五通りを進むのか?」
「それはこの世輪町の役目が深く関わります。大陽様はあらゆる邪気も欲も祓ってくださいます。だからといって、毎日大勢の人を祓わせるのは、大陽様のご迷惑になります。そこで予め余分な邪気や欲は世輪町内で落としてから、参るようにしたのです。参道を大陽大社に向かって進むだけで、祓いの効果があります。また、欲は無理に消すよりもお参り前に発散すべきという考えがありますので、宿や料理屋や遊郭が発展したのです」
「だから昨夜から俺は随分世話してもらえているのだな」
鐙は茶碗にほうじ茶を入れて、残った米粒を濯いだ。
「大陽様との距離が近くなる程、祓いの力は強まる一方、強い妖や邪気の反発も起きやすいです。
その御刀は、長い時間呪いを纏い、幾人もの命を犠牲にしてきました。邪気が地層のように重なっております。呪いの根源を大陽様に祓ってもらうには、先に参道を通り、上辺の邪気から少しずつ祓う必要があります」
弦造は鐙の傍にある呪抜刀と脇差を見る。一瞬苦い顔を見せたが、口角を上げ直した。
「参道には墓地があります。見かけたら黙祷してやってください。名も知らぬ死を弔う御心は、きっと刀の邪気祓いにも効果があるでしょう。昼餉は四通りを北に戻る途中の店でお済ませください。ウチに用意はございませんので」
「分かった。そうするよ」
箸を置き、鐙は言った。
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支度を済ませた鐙はミセニワへ向かう。戸は閉められており、番頭台で弦造が座っていた。鐙が板間に来ると、サッと足丸が現れ、草履を用意した。
「ん?」
鐙は顔を上げる。
「この香は梅花……? 少し違うかな」
「流石、藤鷹様。香の心得がお有りですか」
弦造が番頭台から出て、板間の隅を袖先で指した。そこには小さな藍色の香炉が置かれており、薄桃色の花が細やかに描かれている。
「女将が先程、藤鷹様のご無事を願って空薫されました」
「この香は女将の調合か」
「桜を足したそうですよ。
女将は花も茶も嗜みますが、香が一番気に入っております。女将は夜しか外を出ませんので、参道の見事な花々の姿よりも香りの方が楽しめるのだそうです」
夜しか外を出ない。つまり女将は妖退治の時だけ外出するということだと鐙は思った。
「見事だと伝えてくれ」
弦造はお辞儀をして、鐙を見送った。
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雲一つ無い晴天だった。行楽を楽しみに来た客達が南へ歩いていく。老若男女問わず朗らかな笑い声や話し声が聴こえてくる。
鐙は腰に差した呪抜刀に触れる。鞘から抜けないように紐で固定しているとはいえ、抜こうとする者の命を奪う刀を持ち歩くことへの不安と恐怖は否定出来ない。しかし、あえて帯刀しているのは、鐙の強い覚悟によるものだった。ようやく手掛かりが掴めるかもしれない今、絶対に刀から逃げてはならないと静かに言い聞かせていた。
ほ抜けとはすなわち間道である。鐙は西に進み五通りに向かった。外からの客と思える者達が、鐙と同じく五通りに入って行く。三通り入口に人が溜まっているので、混雑を避ける為に五通りを経由する客もいるのだろうと鐙は考えた。
昨日通った三通りは両脇の木々や花々の手入れが行き届き、磨かれた石灯籠が規則的に並んでいた。一方、五通りはそこそこの手入れしかしていない様子だった。桜並木も途切れ途切れで地面は枯れ葉だらけである。角の崩れた石灯籠を見て、鐙の口元は思わず緩んだ。
「手を抜くところは、遠慮なく手を抜いてるんだろうな」
そんな中、一箇所丁寧に地面が掃かれ、小さな土山が作られているのを見つけた。どこかの廃屋から持ってきたらしい細板が刺さっていて、書かれている文字の墨色はまだ新しい。
「牛か。家畜も弔ってもらえているんだな」
鐙はそっと手を合わせた。
ほ抜けからい抜けまでの距離は約半里※1である。歩けば四半刻程※2かかる。それを一往復半してようやく大陽大社敷地に入れると考えると中々の時間を要する。素朴な参道の様子を楽しむのもそこそこに、鐙は速やかに歩いた。
五通りい抜けの交差地点に着き、東に進む。森の中に作られた道を歩き、四通りに出た。
世輪町は大陽大社に近い側が高位として扱われている。二通りは生活道でありながら、大陽大社の延長とされ、身分の高い者だけが寝泊まり出来る場所とされている。四通りは参拝客の欲を発散させる目的を持つ。い抜け下は富裕層が利用する豪華な旅籠や料理屋が並んでいた。
「可愛いお侍さん、夕刻になったら遊びに来てよ」
突然声をかけられ鐙は戸惑う。店構えを眺めていたら、西側の紅い門にかなり寄って歩いてしまっていたのだ。四通りい抜け下西の一部は、遊郭になっている。門の傍にいる女は、髷をわざと潰し、紅色の派手な半襟をうなじいっぱい見えるように広げていた。鐙は会釈し、足を速めてその場を去った。
ろ抜けとの交差点地点に来ると、参拝客の他に同心といった町の治安や運営を担う者達もちらほら道を行き交い、「そば」や「すし」と書かれた提灯に吸い寄せられ、暖簾の向こうへ消えていった。早めに昼餉を済ましておこうと鐙は考えた。
「これはお侍様、五通りから参られているんですか?」
茶屋の前の縁台に座っている岡っ引きの男が団子を噛みながら言った。
髪型のせいで鐙は浪人に間違えられることが多い。武士は主君の咎めを恐れるので、余程の事が無い限り、往来で刀を振りかざすことはない。それでも帯刀は町人にとって一種の脅威である。しかも浪人は主君に仕えない生き方を選んでおり、厄介な裏筋と縁があることも多い。町人からすれば警戒せずにはいられない存在なのだ。
岡っ引きが声をかけたのは防犯の一環であることを鐙は理解していた。
「身内の事情で、きちんと大陽様を参っとこうと思ってね。三通りに行く前に腹ごしらえしたいんだが、良い店はあるかな?」
鐙が気さくに返答したので、岡っ引きは目尻を下げて微笑んだ。
「でしたらここから三間先下った向かいの『たま屋』が良いですよ。名物の世輪うどんを出す店は他にもありますが、たま屋は絶品です。一見客にはちと冷たいので、岡っ引きに勧めてもらったと言ってください」
「それは良いな。早速行ってみよう」
鐙はたま屋に向かう。小さくて古い店だった。暖簾をくぐると給仕の老女が一瞬険しい顔をしたが、岡っ引きに教えてもらったと伝えると、老女は皺を畳んで笑みを作った。
世輪うどんはすぐに出てきた。太い麺が少量の汁と絡んで茶色になっている。その上に少量の青葱が盛られていた。箸でうどん一本を持ち上げ啜る。あまりの柔さに鐙は驚いた。
「世輪うどんは、客がすぐに温いものを食べられるように、店を開ける前から湯を沸かして、麺を茹でております。注文を受けて初めて麺を湯から出しますので柔いのです。腹にも優しいので、食べた後も歩きやすいですよ」
「味噌タレの塩味と甘みが柔いうどんに合うな」
鐙が美味そうに食べる様を、老女は笑顔で眺めていた。
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矢橋屋の蜜の自室で、蜜、弦造、お朝、弓兵衛が昼のまかないを食べていた。今日、弓兵衛が用意したのは、小さなたらいに一人前の量が入った釜茹でうどんとつけ汁だった。
「美味い、美味い」と弦造は言いながら啜る。
「コシが強くて噛み切れないよ。喉を詰まらせたらどうするんだい」
お朝は眉根を上げながらも、うどんをどんどん口に入れていく。
「お前らの意見は聞かねぇよ。どうだ、女将。昨日良い煮干しが手に入ったんだ」
蜜はゆっくり噛んで飲み込んだ。
「つけ汁の煮干しの風味が美味しいです。ですが、もう少し柔く茹でてください。慣れぬ人には食べづらいでしょう」
「仕方ないな」と、弓兵衛は言った。
藤鷹様がたま屋に入ったよー。
天井から足丸の声が降ってきた。
「お参りは順調そうですね」
弦造が言った。
「侍がたま屋を出たら知らせろ。様子を見に行く。奴が何者か、俺の目で確かめる」
弓兵衛はそう言うと、蜜の方を見る。
「俺に、祓いの指南をさせるつもりなんだろ」
「だって弓兵衛しかいないでしょう」
「現役を離れて久しいぞ、俺は……」
弓兵衛はあぐらをかいた状態で右膝をさすった。厚い一重瞼から覗く瞳は輝いているように見えた。
※1半里:ここでは約2.4キロメートル
※2四半刻:ここでは約30分。一刻が約2時間