6、呪抜刀①
蜜達三人は矢橋屋に到着した。人目を忍んで逃げた侍は草鞋を履いておらず、白足袋がすっかり汚れていた。足丸が侍の足を洗う間に、お朝が侍の左腕の傷に薬を塗り布を巻き直した。
「客間にどうぞ」
今度は蜜が侍を案内した。お朝と弓兵衛もやって来た。弦造の促しに従い座る。下座だった。上座に蜜が座り、左右に弓兵衛とお朝。弓兵衛の隣に弦造が座った。自分が旅籠の客として扱われていないことを、侍は悟った。
「矢橋屋にお越しくださり、ありがとうございます。私は女将の蜜と申します」
蜜は畳に両手をつけて深々と頭を下げた。他の三人も続けて頭を下げる。
「先程は番頭の弦造が失礼いたしました。茶に薬を盛ったことをお気付きになられたのですね」
「溶かし方が少々甘かったので」
鐙の左手側にいる弦造が、亀のように頭を引っ込めていた。
「隠すべきところは隠しますが、偽りなくお話しましょう。昨夜矢橋屋に来るよう伝えたのは私です」
女将……と両横から困惑の声が漏れた。
「では『つきおんな』は女将なのですね」
「はい。弦造が薬を盛ったのは、昨夜の記憶を消す為でしたが、もう不要です」
蜜と侍は黙ったまま見つめ合っていた。
「では、私も偽りなく己のことを申し上げます。
私は東灯藩から参りました藤鷹家が嫡男、鐙と申します」
鐙と名乗った侍は背筋をスッと伸ばした。
「東灯藩の藤鷹家だと?」
声を出したのは弓兵衛だった。
「ご存知ですか?」と鐙が弓兵衛を見る。
「将軍家直属の祓い役じゃないか!」
弓兵衛がそう言うと、他の三人は思い出したような反応を見せた。
「しかも嫡男が一人で? フラフラ出歩くような身分じゃないだろ」
「そう言うお前こそ、この俺に安易な口をきける身なのか?」
口調を変え、鐙は弓兵衛を睨みつける。その眼差しには、高貴な者が下の者を見る時の一種の影があった。
「身元が怪しい侍に遜る気はねぇよ」
弓兵衛は跳ね返すように声を低くして言った。荒くれ者というよりも、鍛錬を重ねたような鋭さがあった。
「確かにそうだ。俺の手形を見るか?」
「藤鷹様、失礼をお許しください。
この者は、矢橋屋で料理人をしております、弓兵衛と申します。少々気が荒く、お客様へも態度を中々改められぬのです」
蜜が空気を正すように言った。尻を少し浮かせていた弓兵衛は座り直した。
「私は藤鷹様がイタチの妖を祓うのを見ました。藤鷹様には祓いの力があります。私は『つきおんな』として、人を襲う妖を退治していました。ですが、私の倒し方は祓いではありません」
「女将、そんなことまで話さなくとも……」
鐙の右手前にいるお朝が言ったが、蜜が眼差しを向けて黙らせた。
「この者はお朝。中居をしております」と、蜜は手短に説明した。
お朝は既婚者が結う丸髷をしているが、眉を剃ったり歯を黒くしたりという女房向けの化粧はしていない。痩せて骨っぽい姿で老けて見えるが、皮膚と髪にはまだ艶がある。然程高齢ではないのかもしれないと鐙は思った。
「私の退治の仕方は、中にいる妖に食べさせることです。弱い妖は、人や獣と同じく餌ですから」
鐙は小さく唸った。目の前の娘はあの巨大な猪よりも強いということだ。
「この退治法には問題があります。私の妖は取り憑かれた者ごと喰ってしまう為、取り憑かれた者は助からないのです」
蜜は瞼を強く閉じ、素早く開いた。長い睫毛が花開くように上を向く。
「祓いならば妖だけを取り除くことが可能です。藤鷹様なら、これまで助けられなかった命が救えるかもしれないのです」
「まさか俺に妖退治をしろってことか?」
「はい。藤鷹様にはその御力があります。ですがまだ使いこなせておりません。強い陽が当たると強い影が出来ます。藤鷹様の力が、猪を呼び寄せてしまったのです。しかし、祓いを使えぬ藤鷹様は対抗出来ませんでした」
鐙は右傍に置いていた二本の刀に触れた。その様子を見ていた脇の三人の視線が集まる。
「私が妖退治をしている理由は、この町が大陽様が住まう社のすぐ傍だからです」
「つまり、強い妖が出やすい町なのか……」
「はい。参拝客は悩みや苦しみを抱えて来ることも少なくありません。人の負の感情を好む妖にとって世輪町は餌場なのです」
「祓いの力を使えないと、妖を呼び寄せるだけで、町も迷惑被るってことか」
「藤鷹様ならきっと対抗出来るようになれます」
蜜は鐙の顔を瞬きもせずに見続ける。鐙は視線を下にずらした。
「女将がそう言うなら、俺も努めてみるよ。そうすれば俺の目的も果たせるはずだ」
「目的?」
「俺は若気の至りで一人旅してる訳じゃねぇ」
そう言って鐙は刀を鞘ごと持ち、蜜の前に掲げた。
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蜜は鐙が差し出した刀を見る。黒い鞘に収められた、ごく一般的な刀だ。しかし、蜜は異様な邪気を感じ取った。
「それは?」
「藤鷹家に代々伝わる刀だ。呪抜刀と呼んでいる」
「じゅばつとう?」
「鞘から抜こうとすると、その者の命を奪う呪われた刀だ」
「何故それを藤鷹家がお持ちなのですか?」
そう言ったのは弦造だった。だが、すぐに咳払いし「すみません」と言葉を濁した。
「我が東灯藩主から褒賞として賜わったものだ」
「呪われた刀を部下へ贈ったのですか?」
と、蜜は尋ねる。
「いや、賜わった後に呪われた。俺の曽祖父の代からと聞いている」
鐙は刀を畳に置きながら答えた。
「藤鷹家は祖父の代から将軍家の祓いの儀式を務めてきた。藩内では代理の刀を使用していたが、将軍家の式に紛い物は使えない」
「では、どうするのですか?」
蜜の問いに、鐙が口を歪ませた。
「罪人に抜かせていた」
空気が一瞬凍った。
「鞘から抜けば、刀は問題なく使える。だが、別の鞘に収めようとすると刀は勝手に動き出し、元の鞘に戻ってしまうらしい」
「では、将軍様の式の度に、罪人とは言え無関係の人間の命を犠牲にしていたのですか?」
鐙は黙ったまま頷いた。
「国一番の晴れやかなお式で、恐ろしい……」
お朝が軽蔑する目で鐙を見た。鐙は言い返さなかった。
「刀を近くで見てもよろしいでしょうか」
鐙が了承すると、蜜は近付き、鐙の前で座り直した。鐙は刀を両手で持ち、蜜に見せた。
「一応、見るだけにした方が良いだろう」
鐙の言葉に従い、蜜は覗き込むように刀を見た。形も長さも鞘の具合も何ら変わったところがない。通常と異なるのは、鐔の穴の開いた所に紐を通し、鞘と括り付け、すぐに抜けないようにしていることだ。
黒く塗られた装飾もない鞘。蜜は引き込まれるような心地になった。邪気は鞘から放たれている。何だか胸の奥がざわめいてきた。
「女将、あまり近付き過ぎない方が……」
弦造が声量を落として言った。蜜はかなり前のめりになっていた。目線を上げると、少し困惑している男の顔があった。
「すみません」
蜜はすぐに戻った。お朝が眉を釣り上げている。唇を少し動かし「端ないことを」と呟いた。
「俺はこの刀の呪いを解く為に家を出た。大陽大社なら術があるかもしれぬと考えた」
「それは大業ですね」
蜜は照れを残しながら言った。
「刀と一緒に大陽様を参れば、邪気を祓ってくれるかもしれないな」
弓兵衛が腕組みしながら言った。興味深そうに刀を見ている。勝手に足を崩して座っていたが、誰も咎めなかった。
「大陽様は人だけではなく物にも憑いた邪気も祓ってくれる。
例えば、女房が死んだ亭主の仕事道具を持ってきて、無念を祓ってもらってから弟子や息子に譲ったり、主命で逃亡者を斬り捨てた武士が刀をここで清めてから藩に戻ったり、とかな」
「この刀の呪いが、大陽様参りするだけで、本当に解けるのか」
鐙は言った。
「それはやってみなきゃ分からねぇ。けどよ、どのみち祓いの術を学ぶなら、一回は参って雑念や欲を鎮めておいた方が良い」
「そうですね。明日お参りしてください。弦造、後で藤鷹様に手順を伝えてあげて」
蜜は胸の前で手の平を合わせた。
「さぁ、お話は一旦終いにしましょう。藤鷹様、お風呂で身体を温めてから、夕餉を楽しんでくださいな。お笹」
はーい
鐙は周囲を見渡した。突然どこからか娘の声が聞こえてきた。
「藤鷹様の為に、湯を替えて沸かしてください」
はーい。藤鷹様、風呂屋へどうぞ〜
「藤鷹様」
首を振っている鐙に、蜜は微笑みながら話しかけた。
「矢橋屋の女将は妖に取り憑かれています。故に、ここで働く者も、旅籠自体も、妖との縁が生じるのです。藤鷹様もすぐに慣れますわ」
「ハハハ……だと良いな」
■■■■■
丁稚小僧の足丸に案内で、渡り廊下を進み、中庭にある小さな風呂屋に着いた。
番台には娘が座っていた。歳は足丸と同じ十代前半に見える。前髪を下ろし、後ろの髷に縮緬を結び付けた鹿の子頭だった。肩上げ※1した朱色の小紋に木綿の前掛けをつけている。
「どうぞ、藤鷹様。他の客はもう湯を済ましてますので気兼ねなく寛いでください。刀はここでお預かりします」
「ああ……」
鐙は二本の刀を渡し、娘から手拭いを受け取った。
「笹と申します。何かあればお申し付けください」
細長い眉とつり上がった目尻が印象的な美しい顔立ちである。足丸と似ていると鐙は思った。
板張りの脱衣所にあった籠に脱いだ小袖や袴をガサッと入れて柘榴口※2に向かう。口の上の板部分には絵が施されている場合が多い。この小さな風呂屋も例外ではなく、九本の尾を扇のように広げた白い狐が正面向きで描かれていた。首には朱色の縮緬のような布を巻いている。
「本当に湯を替えたのか……」
脱衣所から洗い場まではあちこちに砂や毛が落ち、黄ばみだらけの褌が忘れられているような汚さだったが、湯船は透明で底の木目がくっきり見える。湯気には男衆の汗臭さも混じってない。
湯船に毛先が浸からぬように、手拭いで髪を覆ってから鐙はそっと爪先から湯に入った。
「フゥ……」
溜まりきっていた疲れや緊張が一気に口から出ていく。屋敷の内風呂に入っているような心地だった。
東灯藩から出発し西へ向かう道中、幾つかの宿を利用した鐙だが、湯の汚さに苦労した。大衆が利用する湯屋は、頻繁に浴槽の湯を替えることは無い。宿となると、一日中歩いて泥だらけになった客が一斉に利用するので湯もあっという間に汚れる。特に冬は行水という訳にいかず、泥や垢や毛が一面に浮いた湯に目を閉じたまま浸かることもあった。
「藤鷹様〜、その湯で髪を洗ってもらっても大丈夫ですよ。桶もありますでしょう。足丸がすぐに髪を乾かしますので身体も冷えませんよ〜」
仕切りで挟んだ先からお笹の声が聞こえてきた。見ると壁に桶が立て掛けてある。
通常湯屋で髪を洗うのは禁じられている。大量の湯の準備は容易ではないので、湯水を多く使う洗髪は湯屋では出来ないのだ。
しかし、矢橋屋は自分が訪れるまでの僅かな時間で十名近く入れそうな浴槽に湯を満たせることが可能なのだ。理屈は不明だが、湯の遠慮はしなくて良いのだろうと判断し、鐙は浴槽から出て、髪を解き、桶で浴槽の湯を掬い頭から被った。もつれた髪が頭皮ごと緩んでいくようだった。
※1肩上げ:身体の小さい子どもの肩に合わせて着物の袖を摘み縫いしていること。
※2柘榴口:銭湯の浴槽と洗い場を仕切る板壁。下部分が四角く開いており、そこをくぐり抜けて湯船に浸かる。柘榴口で仕切っているのは湯が冷めるのを防ぐ為。