5、イタチ④
「ウチでお侍様に養生してもらうなんて、勿体無いことです」
間を置いて弦造が言葉を返した。
二階からお朝が降りてきたので、蜜はこっそり呼ぶ。
「侍を客間に通して。昨夜の方です」
お朝はすぐにミセニワへ向かった。
「いらっしゃいませ。大したもてなしは出来ませんが、どうぞお上がりなってください。
足丸、湯を取り替えておくれ」
お朝が侍に微笑みながら声をかけた。
「痛み入ります」と侍は深々と頭を下げた。
侍は上がり框に腰掛け、ほとんど汚れていない脚絆と白足袋を脱ぎ、膝下を足丸に委ねた。洗い終えた頃に、お朝が現れ「客間へどうぞ」と促した。
蜜の自室の隣が客間だった。お朝は侍を連れて廊下を進む。蜜は厨に隠れていた。お朝と侍が厨の前を通った時、ゾクッと悪寒がした。今の侍は妖気を纏っていない。しかし、侍が厨を通る時に、昨夜はなかった邪気を感じたのだ。
侍が客間に入ったのを確認してから、蜜は自室に戻った。弓兵衛が用意した茶を、お朝が運び、客間を出た頃合いに、弦造が入れ替わりで入った。
矢橋屋は旅籠内に色々仕掛けを作っている。蜜は押入れを開け、葛籠や布団が積まれている隙間に手を伸ばし湯呑みを取り出した。客間は自室の押入れを挟んだ先にある。湯呑みの底には蜘蛛の糸が繋がっていて客間に続いている。湯呑みに耳を当てると、声が鮮明に聞き取れた。
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「夕餉を準備していますのでお待ちください」
弦造が記憶を惑わす術を使う際、二つ条件を満たさなければならない。一つは対象者が意識を失うこと、もう一つは消したい記憶を対象者の口から話させることである。弦造は対象者が言った内容しか取り除くことが出来ないのだ。
「お忙しい時にかたじけない」
「お気遣いなく。さて、お侍様。ウチで養生なさる前に色々聞いてもよろしいでしょうか」
蜜の心臓の鼓動が激しくなる。ここからは弦造の話術が頼りだ。
「私は矢橋屋の番頭をしております弦造と申します。主人に代わり、旅籠の全てを任されております。失礼を承知で申し上げますと、何やら事情がお有りではないでしょうか。ですがご安心ください。他の者が余計な口を出さぬよう、私からしっかりと言っておきます。ですので、どうか私には偽りなくお話くださいませ」
「ありがとうございます。実は昨夜、妖に襲われました」
蜜は袖で口を覆う。届かないと分かっていてもつい息を潜める。
「それは大変でしたなぁ。お怪我はしていませんか? 医者を呼びましょうか?」
記憶を話させる時に脅したり無理強いしたりしてはならない。嘘が混じり易いからだ。相手が自然に口から出す言葉を拾う必要がある。
「いえ、それには及びません。途中意識を失いかけましたが、気付いたら妖は消えておりました。そして、何者かにこう言われたのです。『矢橋屋で養生せよ』と」
「不思議な話ですな。何故わざわざウチを指定したのでしょうね」
気さくに接しているが、弦造の声が微かに震えているように蜜は思った。
「もしかして、そう言ってきたのは女ではありませんか?」
「女? どうしてそうお思いなのですか?」
「この世輪町内では、人を守る為に妖を退治する『つきおんな』という妖の噂があるのですよ」
「つきおんな……」
蜜は唾を飲み込んだ。
「分かりません。頭が朦朧としていて、男の声か女の声かも覚えていないのです」
「そう、でしたか……」
残念そうな声色を弦造は隠し切れなかった。
「その声の主が、私を襲った妖を倒してくれたなら、礼を言わねばならぬと思い、唯一の手掛かりである矢橋屋を訪れたのです」
「もしかしたら『つきおんな』がお侍様を助けて、ウチで休むように言ったかもしれませんな。『つきおんな』の顔を見ると喰われると言われております。なので町民は怖れておりますが、一方で感謝もしています。指名してもらえたのは、ウチとしては光栄ですな」
弦造が茶のおかわりを促した。湯呑みや急須が動く音が聞こえる。蜜は呼吸を最小限にする。茶に薬を混ぜて眠らせるのが、いつもの手法だ。
侍が蜜の顔を見たかまでははっきりしないが、妖に襲われたと話した。弦造はその記憶ごと消し去ろうと考えたのだろう。
「『つきおんな』以外に、妖を倒す存在に心当たりは他にありませんか?」
侍が尋ねる。
「大陽大社※1がすぐ近くにありますからね。大陽様のお力添えが働いて、妖が消えることはあるでしょうな」
弦造は控えめな口調で返した。
「どうぞ、そちらの大陽饅頭もご一緒に。渋茶に合いますよ」
「頂きます」
茶を啜る微かな音が聞こえた。さぞ品も良い仕草だろうと蜜は想像した。
「美味いです……。
少し疲れましたので休みます」
「布団を出しましょうか?」
「このままで……結構……」
「左様ですか。では、私は一旦失礼いたします」
障子の開閉音の後、寝息が薄っすら聞こえてきた。茶に混ぜた薬が効くのに時間がかかる。その代わり、効けばそう簡単には目覚めない。術をかける時は相当な深い眠りにさせる必要があった。
蜜は押入れを閉めた。後程弦造が客間に入り、術をかければ全て終わる。侍は完全に自分を忘れるだろう。そして二度と逢うこともない。
フーッと息を吐きながら蜜は仰向けに寝転んだ。どっと疲れが出てきた。今宵もイタチ探しをするのだからと、しばし目を閉じることにした。
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「女将、失礼いたします」
障子の外から声がして、蜜は起き上がり裾を直した。弦造が入ってきた。目の下の膨らみがいつも以上に黒ずんでいる。
「どうしましたか?」
廊下から賑やかな声が届く。まだ夕餉や風呂の時刻のようだ。
「侍がおりません」
「えぇ?」
「客が静かになる前に済まそうと、暇見て客間に入ったらもぬけの殻でした」
「誰も侍を見てないの?」
「私が客間を出てすぐ、新規の団体客が入りまして。全員慌ただしくしていました故に気付けませんでした」
今は睦月終わり。年を越して春本番になり、行楽を兼ねた参拝客が増える時期だ。普段まとまった人数の客が来る時は、事前に役場から報せが来る。多数付き人を抱える御一行の参拝の場合、部下が予め関所に通達をするのが慣習だ。関所から役場へ報せが入り、役場は旅籠の手配を行う。だが、行楽時期は急な参拝も多く、事前通達をしない御一行が来ることも少なくない。
「放っておきますか? 侍は女将のことを話してはいませんでした。つきおんなのおかげと思ってくれて良いのですが……」
弦造は腰を曲げ頭を低くして言った。
「何故薬が効かなかったのですか? 飲むところを見たのでしょう」
苛立ちを隠せぬ口調で蜜は尋ねた。
「はい、確かに見ました……」
「侍は薬を盛られたことに気付いているかもしれません。放っておけば矢橋屋が怪しい旅籠だと流布されてしまいます」
蜜は目を閉じ、頭の中で考えを巡らした。その時だった。蜜の前髪がピクリと反応した。
「妖が近い……。きっとイタチだわ」
蜜は部屋を出ていればミセニワへ向かう。
「女将、どちらへ?」弦造は後ろから尋ねる。
「イタチを捜します。かなり興奮しているようです。危険です」
「ですが、その姿で退治は……」
「まだ人が残る時間帯に浴衣を着れません。弦造も付いて来てください」
蜜は感覚が命じるまま矢橋屋を出た。
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大陽様の町なだけあり、夕陽から日没までとてもゆっくりだと侍は思った。川辺りの茂みに茶を含ませた饅頭を吐き出し、侍は三通りへ向かう。お参りは日没前までなので、この時分に広い通りを行き交う人は少なかった。
予め世輪町内の見取り図を確認している。参道である三通りを南へ上り、は抜けから四通りに戻って、別の宿を探そうと侍は考えた。
「俺はつい、素直に信じてしまうんだよなぁ」
思えば昨夜の女の指示は罠だったのだ。女が妖を倒したのは間違いないが、番頭の話が事実なら、その姿を見た自分は殺すべき存在だ。
侍は身の上の都合で、昔から用心の術を叩き込まれていた。茶に何か混ざっているのを匂いで見抜き、饅頭と一緒に口にいれることで、相手を欺いた。急客が来たのは運が良かった。だが自分が居なくなったと知れば、連中は捜すだろう。
広い道の両端は木々が茂っている。森を割って道を作ったようだと侍は思った。ひょこっと獣か何かが出てきてもおかしくはなさそうだ。空は夕陽と夜空が混ざり赤紫色を帯びていた。
ガサッ
侍は立ち止まる。物音は右手西側の茂みから聞こえた。
ウゥー……
「野犬か?」
侍は視線も送らず歩く。野生の獣は刺激しないに越した事がない。だが唸り声は近付いてきた。
ガルルッ
唸り声の主が茂みから飛び出し、侍の前に現れた。野犬らしいものの身体を黒い炎が覆い、上へ伸びている。侍は昔この炎を見たことがあると思った。だが、その時よりもこれはかなり濃い。
ガウッ!
黒い炎を帯びたものが口を開いて飛び跳ねてきた。侍が横に躱すと、それは四肢で着地し振り返った。先程よりも形が見えてきた。胴が長く、脚は短く耳も小さい。
「イタチか?」
だが、イタチにしては大きい。通常の倍はあり、興奮した野犬のようにこちらを睨んでいる。
「なるほど妖か」
侍は脇差※2の方に手をやりつつ、身体は後退させた。昨夜、猪の巨体に襲われた際に、人間の武器では太刀打ち出来ないことを知った。小さくても油断出来ない。隙を見て逃げようと侍は思った。
イタチは跳ねるように突進してきた。侍は避けようとしたが、イタチは素早く、羽織越しに侍の左腕に噛みついた。
「クッ……」
斬れぬと知りながらも、侍は咄嗟に右手で脇差を抜いた。左腕を振り回し、解こうとした。よく見ると本体そのものは小さなイタチだった。揺らめく炎が姿を大きく見せていたのだ。小振りな顔から黒いもう一つの顔が牙を剥きながら伸びてきた。
「セイッ!」
侍は本体から伸びた黒い顔を切り裂くように脇差を振った。すると、炎は砂が散ったかのように消えていった。
キューッ!
噛み付いていたイタチが離れて地面に落ちた。黒い炎は消えている。イタチはピクッと起き上がり、キョロキョロと首を動かし逃げるように木々の茂みへ去って行った。
「お侍様!」
道の北側に女がいた。矢橋屋の番頭も一緒だ。ほとんど陽が落ち、暗くなっているが侍の目には二人の姿が良く見えた。
娘は侍に駆け寄り、イタチに噛まれた左腕の袖を捲った。小さな牙の跡があり、血が滲み、黒い炎が細く立ち上がっていた。女はその傷跡に口を付けて吸った。
侍は驚いた。毒のある生き物に噛まれた場合、口を当て毒を吸い出すという知識はあった。だが、イタチの牙に毒はないはずだ。
女は腕から口を離した。吸ったものを吐き出すことなく、手拭いを取り出して傷に当てて結んだ。
「そなたは……」
「矢橋屋の女将の蜜と申します。お侍様、どうか矢橋屋で養生なさってください」
「あ……」
侍は言葉を出しかけて止めた。そして黙って頷いた。番頭が近付き、何やら弁解する。目の下の脂肪が真っ黒になっていた。また殺されるかもしれないと侍は思いつつも、番頭の手招きに従い歩いていく。
背中に垂らした長い髪。憂いを帯びた声。自分の後ろを歩いているのは、昨夜川辺りで妖を倒した女『つきおんな』だと、侍は気付いたのだった。
大陽大社※1:世輪町南東に広がる大陽様を奉る社他敷地を総称して、大陽大社と呼んでいる。
脇差※2:武士は刀を二本差すのが基本。メインの刀よりも小さいサブ刀を脇差と呼ぶ。尚、この侍は脇差と刀の両方をちゃんと腰に差している。
おまけ補足
余程の事態じゃない限り、他人の傷口を吸ってはいけません!