4、イタチ③
昆布の香りが鼻をくすぐり、蜜は目を覚ました。蜜の部屋は旅籠の北西一階で、裏に長屋が並んでいるが、障子窓からは陽が優しく入っていた。空に浮かぶ太陽は大陽様の分身だ。大陽様本体が住まう社の傍にある世輪町は、どこにいても陽当たりに恵まれ、雨雪も少ない。程良く乾いた空気を吸いながら、蜜は天井を見つめる。
「女将、入りますよ」
お朝が入室した。手に持っている盆の上に小さな土鍋があった。
「随分寝坊したようですね」
蜜は布団から出て、膳の前に座る。
「特に問題はありませんでしたよ。私達もこれから休憩に入ります。女将もしっかり食べてくださいな」
お朝は微笑みながら言った。口うるさいが、誰よりも自分を気遣ってくれていることを蜜は知っている。蜜は手を合わせてから土鍋の蓋を開けた。湯気が待ち切れなかったように、蜜の顔を覆った。刻んだ菜の花が青々と白粥を彩っている。
「昨日の農家から頂いた新鮮な菜の花ですよ」
お朝はそう言うと立ち上がる。
「食事と着替えが済みましたら、お呼びください。弦造が話をしたいそうです」
弦造の名を聞き、蜜は昨夜の侍のことを思い出した。
「昨夜妖に襲われた御方の具合はいかがでしたか?」
お朝は振り向く。表情が固い。
「よく眠っておられます。
詳しくは後程、弦造からお聞きくださいませ」
それ以上何も言わずにお朝は部屋を出た。
蜜は粥をお玉で掬い、小鉢に取り分け食べ始めた。
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食事を済ませ、着替えや手水等を終わらせる頃には、蜜の身体は充分動けるようになっていた。
矢橋屋は客に昼餉を出さない。矢橋屋に泊まる客は、日中はずっと主に仕えているので、戻って来ることはないからだ。
蜜は廊下に出て、ミセニワの番頭台にいる弦造の所へ向かった。二階に続く階段の前を横切る時、上から大いびきが響いてきた。この時間に寝ている客など居るはずがない。考えられるのは、あの侍か。見目麗しい若き男も、こんな酷いいびきをかくのかと、蜜は衝撃を受けた。
「呼んでくだされば参りましたのに」
番頭台で帳面を広げていた弦造は、蜜に気付いて首を伸ばした。
「少し身体を動かしたかったの。昨日の御方はまだ寝ていらっしゃるの?」
蜜の質問に、弦造は苦笑いした。
「はい。お朝と一緒に寝間着を着せて、二階奥の小部屋に寝かしてます。起きたら軽く飯をやってから帰らせればよろしいでしょう。いくらか銭を取れたら御の字ですが」
弦造が嫌々応対をしている様子が伝わってきた。
「妖に襲われて、無事な訳ありません。お侍様を無慈悲に放り出すなど出来ません」
「お侍様? あれはどう見てもただの酔っ払いですよ」
「え?」
蜜は急いで二階に上がる。奥の小部屋は体調を崩した客を寝かす為に使っている。痰の絡んだいびきが聞こえてくる。そっと蜜は襖を開く。室内に酒臭さが充満しており、咄嗟に袖で鼻を覆った。
布団の上で寝相悪く寝ていたのは、崩れた小銀杏髷と無精髭の男だった。蜜はすぐに部屋を出た。
「私が助けた御仁と違います」
後ろからついて来ていた弦造に蜜は言った。
「川辺りにはあの男しかおりませんでした」
「茂みに隠れていたのかも。橋の下近くです」
「私も夜目がききますし、妖に襲われた者なら妖気で分かります。ですが橋近くには、女将が放った妖気しかありませんでした。妖気を纏った人の匂いは独特です。間道と川辺りを見回りましたが、あの男以外誰もおりませんでした。あの男も妖気を纏ってはいませんでしたので、違うだろうと思ってましたが」
蜜と弦造が話しながら階段を降りると、お朝が待ち構えていた。
「やっぱり違うじゃないの! あんな男の介抱なんか私は嫌だったんです! 飯盛女と思い込んで尻を触ってきたのですよ」
飯盛女とは宿で給仕をする女のことだが、宿泊客を相手する娼婦を暗に意味している。矢橋屋は代々女の手配を一切していない。
「ごめんなさい。私が助けたのは若いお侍様だったの。それなりに高位なお家だと思うわ。きっとお連れとはぐれて、川の反対側から妖に引き摺られてきたみたいなの。」
蜜は懸命に落ち着きを保ちながら話した。『つきおんな』の顔を見たまま侍は姿を消したのだ。
「それなら、関所に聞けば心当たりがあるかもしれませんなぁ。お侍様は私が探しますので、女将は引き続きイタチ退治をお願いします。昨夜見つからなかったということは、いよいよイタチが妖になり人をいつ襲ってもおかしくないということです」
弦造が言った。
「もしかしたら既にイタチに襲われたのかもしれませんね。お侍様が自力で場を離れてしまったら、女将の妖気の効果もないですから」
お朝の話し方に、情けの様子は感じられない。お朝からすれば、蜜の姿を見たかもしれない人物がいなくなることは都合が良いのだ。
「お侍様には矢橋屋で養生するよう伝えました。来られたら私に知らせてください。ここを訪ねる侍はあの方しかいないでしょうから」
蜜は踵を返し部屋に戻ろうとしたが、ふと思い出し振り返る。
「今寝ている男が目覚めたら御飯を出してやって、その後速やかにお帰りしてもらいなさい。銭は取れなくてもいいです。足丸に相手させなさい」
足丸とは矢橋屋住み込みの丁稚である。お朝が安堵した表情を見せた。
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蜜の主な仕事は、帳簿や役場から届いた書簡の確認である。それらを自室の机に向かって目を通し、弦造達に指示を与える。
宿泊客の受付や勘定は番頭の弦造が、給仕と掃除洗濯等は中居のお朝と奉公娘のお笹が、調理や雑務は料理人の弓兵衛と丁稚の足丸が、それぞれ担っている。蜜が客と接することはほとんど無く、旅籠として慌ただしい夕餉の頃も自室に籠もっていることが多い。
今日はどうにも落ち着かず、手元の書簡の内容が頭に入らない。ミセニワは日中開いているので、参拝客の賑わう声が微かに届いてくる。普段なら気付くことすらない雑音だが、妙に耳が過敏になっている。
蜜は筆を置いて部屋を出た。昼もすっかり過ぎた午後。厨を覗くと、弓兵衛が夕餉の支度を始めていた。
「何か手伝わせて」
弓兵衛が振り向いた。小銀杏に白髪が混じっているが、襷掛けした袖から見える腕の逞しさは火消衆※1にも負けない程だった。
「どうしたんだ、女将?」
「落ち着かないから、気を紛らわしたいの」
蜜はそう言いながら、壁に掛けていた前掛けと手縫いを取った。
「女将の手が荒れたら、俺がお朝に怒られるんだ」
弓兵衛は呟いた。だが、蜜は水瓶の水を柄杓で掬って手を洗い、まな板の青菜に触れようとした。
「分かったから、女将は鍋の灰汁を取ってくれ」
諦めた弓兵衛が蜜を竈の前に立たせる。三つ並んだ竈の一つは釜で米を炊いており、もう一つの鉄鍋からは肉の臭いがした。蓋をあけてみると、骨と薬味がグツグツと煮込まれていた。
「これは?」
「今晩の汁物さ。牛の骨を葱や生姜と一緒に煮れば臭みが取れて美味くなるんだ」
菜切り包丁で青菜を刻みながら弓兵衛は言った。弓兵衛は決して小柄な男ではないが二人が並ぶと蜜の方がやや高い。蜜は女子の中でもかなり上背があった。
蜜は両端から泡を出し続ける太い骨を興味深く眺めながら、浮かんできた灰汁をお玉で取り除いた。
蜜には両親がおらず、お朝と弓兵衛が蜜を育てた。お朝が口うるさい母親なら、弓兵衛は心強い祖父のような存在だ。お朝は商いに必要だからと、高度な手習い・算盤を蜜に施した。更に女将の品格を高める為ということで、師を呼び寄せお茶や花の稽古も欠かさなかった。一方で家事の類は使用人がするものだからと、蜜にやらせようとしなかった。
お朝の厳しい教育の一方で、弓兵衛の振舞いは息抜きの役割を果たした。弓兵衛は「いつか矢橋屋を出て嫁ぐかもしれぬ時に困らないように」という考えで、遊びの延長で蜜に家事を教えた。
時折蜜は厨から顔を出し、ミセニワの方を見た。厨はミセニワと奥の自室の中間にある。ここからなら、誰かが来た時にすぐ確認出来る。蜜が何度も廊下に顔を出していることに気付いても、弓兵衛は黙っていた。
「貴女の中着※2の色、やっぱり綺麗だわ」
「ありがとう。央照では淡萌黄色が人気なのよ」
「お喋りはお終いにして、もう少し急いでくださいな。混むと籠※3を拾うのが大変です」
この時間帯は近くから日帰りで訪れた参拝客が帰る頃である。若い娘達と女中の声が矢橋屋の前を通り過ぎた。
「良い土産が出来ましたな。可愛らしい花簪です。お嬢様の御髪にも似合いますでしょう」
「流行りの淡萌黄色らしいからな。今度初めて島田※4を結うと言っていたので丁度良かろう」
余裕のある主人と相槌の上手い付き人の声も届いた。
「淡萌黄色が人気なんですね……」
蜜は湯気を見ながら言った。
「流行り物なんて俺には分からんよ」
弓兵衛が汁物の味を確認しながら言った。
蜜の小袖は死んだ祖母のお下がりでどれも地味である。また蜜は女髷を結ったことがない。中の蜘蛛が陽を嫌う為、うなじから背中を髪で覆わないといけないからだ。陽に当たると蜘蛛が暴れ、酷い時は腹が破裂するかのように痛くなる。どれだけ身体に着物を重ね布を巻いても意味が無く、髪の毛でなければ蜘蛛は静かになってくれないのだ。
「気になるならお笹に頼んで、帯紐でも買ってこさせるか?」
「ありがとう、弓兵衛。でも大丈夫よ」
蜜は微笑んだ。
髪を結わない年頃の娘は悪目立ちするので、蜜は日中の外出を控えている。先程通り過ぎた客達のように反物や髪飾りを売る店に、蜜自身が出向くことはなかった。
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陽が傾き始め、旅籠矢橋屋が本格的に稼働する。仕事を終えた連泊の客が戻って来た。足丸とお笹が桶に湯を張り、客の足を洗ってから板間に上げる。
新規客の応対は弦造が務め、宿代や日数の相談をしている。
「そろそろ部屋に戻った方がいいぞ」
弓兵衛が椀を台に並べながら言った。
侍は現れなかった。あの時自分が矢橋屋に連れて行けばと蜜は後悔した。弦造の術は完璧ではないので、うっかり記憶に残されてしまうと困ると判断した。しかしそれが侍の命を奪う結果になったかもしれない。もし無事に生きていたとしても、裸同然の端ない娘の噂を流布され、姿の特徴から自分と特定される不安が付き纏う。
静かだった矢橋屋が賑わっていく。蜜は溜息をつき、厨を出ようとした。
「御免下さい」
よく通る若い男の声がした。蜜は咄嗟に厨に下がり、こっそりミセニワの方を見た。
「いらっしゃいませ。まぁ、お侍様とは珍しい。誰かをお呼びですか?」
弦造が番頭台から出てきて、板間の上で正座して応対を始めた。
若い男は土間で立っている。背が高い。蜜は思い出した。あの時の侍も自分よりも上背があった。
「いえ、今宵はここに泊まらせてもらおうかと思いまして」
「ここは付き人専用の旅籠です。お侍様のような御方が泊まる場所では……」
弦造は言った。恐らく例の侍かどうかを見極めているのだろう。しかし、蜜は今いる侍こそ、昨夜助けた御仁だと確信していた。
汚れのない羽織と裾をビロード張りした袴姿。何故か手縫いを頬かむりしている。
「構いません。私はここで養生させてもらいたいのです」
侍は頭の手縫いを外した。
凛々しい伊達男の頭は月代を剃っておらず額に前髪がかかっていた。ぼうぼうと伸ばした髪を後ろで束ね、髷にせずに馬の尾のように揺らしている。
年齢と服装と髪型の不一致さに、弦造は返す言葉を忘れた様子だった。足丸とお笹は顔を背け、珍妙な侍の姿にクスクス笑った。
「あの御方も結ってないんだ」と蜜は呟いた。
火消衆※1:火事が起きた時に火消をする男達。普段は鳶職など肉体労働をしているので良い身体の持ち主でもある。モテる男として町民の憧れだったらしい。
中着※2:着物を重ねて、裾の色の組み合わせを意識したコーディネートを楽しんでいる。ここでは上着と小袖の間に着ているもう一枚の小袖を差す。
籠※3:一人客を乗せて移動する人力タクシー的なもの。
島田※4:女性が結う髪型の一つ。この世界では一般的な女性の髪型とする。特筆なければ女性は大体この髪型。作中の会話は、子どもの髪型から大人の髪型にステップアップする娘へのお土産に簪を買ったという意味です。