14、紅世輪②
月一更新をしてきましたが、来月は更新が難しいかもです。八月には更新できるように頑張ります。のんびりお付き合いくださいませ。
朝晩の冷えが穏やかになり、提灯を持って四通りを歩く人々の背中が伸びている。両側の店から明るい灯と声が聞こえてくる。参詣時間外の夜は盛大に遊ぶのが、大陽参りの醍醐味だ。参拝客達は思い思いの形で、飯や酒を楽しんでいた。
弦造に頼まれ、鐙は足丸と一緒に四通りを南に上る。
足丸は鐙の前を歩き、提灯を持って目的地まで案内する。頭頂部を剃り、前髪は残したまま、やや後頭部を膨らまして小銀杏にしている。お仕着せは弓兵衛と同じ縹色・瀧縞模様だ。それを小さな身体に合わせて肩上げ・おはしょりしている。弓兵衛と揃いの股引を履いているが、足丸のそれは丈が膝下までと短くして、脛を出していた。
雇われ浪人風らしく、鐙はお仕着せではなく、古着の小袖と袴を身に付けて、腰に二本の刀を差し、下駄を履いている。小袖は淡萌黄色、袴は鴨の羽色と、鐙が持参してきたものと色味が似ているが、肌触りはまるで違い、鐙は慣れるのに少し時間がかかった。
二人はは抜け交差地点を過ぎる。木行燈の傍にはうどん屋台があり、暖簾下から羽織姿が見える。世輪町役場の者達が、明日に備え手短に仕事終わりの夕餉を済ましていた。
は抜け上からしばらくは暗く静かだったが、ろ抜けに近付くと明るくなり、人通りも増えてきた。四通りい抜けからろ抜けの間は富裕層客向けの宿や料理屋が並ぶ。そして独特の甘い香りが漂う紅色の鳥居の前で二人は立ち止まった。
「アブさんがいてくれて良かったよ。僕一人じゃ門前払いされちゃうから」
足丸が言った。
二人がここに来た理由は、矢橋屋の宿泊客に代わって、主人への文を届ける為だ。
先程足軽が矢橋屋を訪れたのは、参拝客宛の文を飛脚が持って来たからだ。
信心深く懐に余裕のある者は、二通りの宿に泊まる。そこは参拝者の身を清める場所で、付き人等の同伴を認めていない。その為、付き人は四通りの宿に泊まる。主人の代わりに欲を町に落としておくという意味で、付き人は娯楽に興ずることが出来る。すると、緊急時に主人に繋がりにくくなる。そこで、宿泊先が固定している下位の使用人がいる旅籠に一報が入るのだ。
矢橋屋では受付時に、どこの誰の使用人かを聞き取り、それを役場に知らせる。滞在先が不明な客宛の文は役場に届くので、役場は矢橋屋に文を託すのだ。
「俺もこういう場所は初めてだよ」
二人は鳥居を潜り、女の色めいた声が飛び交う遊郭街、通称紅世輪を訪れた。
「なんて店だっけ?」
「花美屋だよ。茶屋じゃなくて置屋※1ね」
使用人によっては、上の者が遊ぶ場に行くことを禁じられている場合もある。北尾屋の使用人も、主人の代理を任されている番頭の居場所は知っているものの、自身が行けない為、矢橋屋に代理を頼んだのだ。
往来に面した安店の張り見世※2の前で客引きの若い者※3が男に話しかけて遊女を買わせようとしている。格子越しに品定めする客が遣り手婆と口上手く交渉している。
買うまでの遣り取りも一興だが、場違いな丁稚小僧がスタスタと道の真ん中を歩くと、途端に大人達の眉間に皺が寄る。「子どもを連れて来るな」とすれ違い様に鐙を嗜める者もいた。鐙は申し訳なく黙って会釈する一方で、足丸は我関せずどんどん奥に進んでいく。
「着いたよー」
路地角の前で足丸が立ち止まり指差す。丁度角の位置に入口があり、『花美屋』と書かれた大きな提灯がぶら下がっている。二階建てで一階片側は張り見世になっている。提灯は紅色を帯びていた。小振りのものが一階の格子上部に横並びで並んでおり、艶めかしい雰囲気に溢れていた。
「案内、ありがとう。気を付けて帰れよ」
「はーい」
足丸は提灯を持ったまま早足で去った。
入口からは強過ぎる香が漂ってくる。鐙はフンッと気合を入れ、中に入った。
行燈の灯りが反射し、白壁が薄っすら桃色を帯びている。梁も柱も紅色だ。上がり框の端には、沈丁花の鉢が置かれており、生花の甘い香りと焚いた香が混ざり、頭がフラつきそうになった。
「頼もーう」
暗い奥の廊下から若い者が腰を曲げながらやって来た。
「お侍様、何の御用でしょうか?」
「拙者、矢橋屋の使いである。北尾屋四代目弥右衛門宛ての文を届けに来た。急を要する故、通して頂きたい」
「お待ちください」
若い者は頭も低く保ちながら小走りで戻る。少ししてから鐙の前に現れ、膝を付いた。
「北尾屋の番頭様がお呼びでございます。お上がりください」
若い者を先頭に鐙は廊下を進み、階段で二階に上る。途中、障子の隙間から茶挽女や禿※4の眼差しが見えたが、反応しないよう努めた。二階に来ると、薄暗い障子の先から男女の声が漏れてくる。気まずい時分に来てしまったと鐙は唇を噛んだ。
「北尾屋様、お連れしました」
若い者が部屋の前で座り声をかける。中からの返事を合図に障子を開け、鐙に入るよう促した。
「こんな格好ですみませんなぁ」
四十代位と見える北尾屋の番頭は、女物の振袖を羽織り、上座の座布団で正座をしていた。派手な振袖の下は、襟の整っていない寝間着が見えた。小銀杏の耳元から後れ毛が出ており、熱せられた匂いが漂ってくる。頬が赤らんでいると鐙は思ったが、三度繰り返し見ると口紅が付いているのだと分かった。隣に繋がる襖の牡丹模様から甘い空気を感じた。
「こちらが文でござる」
適当な返し方が浮かばず、鐙は無駄に侍口調のまま、番頭に長方形に畳まれた紙を渡した。
「ふむ、確かに」
番頭は鐙の前で文を広げる。そしてすぐに顔を上げた。
「お侍様、感謝痛み入ります。こちら店主の奥方からの急ぎの便りでございました。すぐ返事を書きます故、使用人には明朝早々に飛脚を手配するようお伝え願います」
番頭は慇懃に頭を下げた。
「急ぎなら拙者が承ろう。矢橋屋の朝は混み合う故、使用人もすぐには動けまい。拙者、世輪の飛脚とはちょっとした縁がある。案ずることはない」
小望の件で、無理を通した対価をしっかり払った鐙は、義理を貫く男と認められたらしく、先日故郷に便りを出す時も心厚く応対してもらえたのだ。
「何から何まで有難く存じます。では早速準備しますので、お侍様は一杯やってお待ちくださいませ」
北尾屋の番頭が、パンパンと手を叩くと、障子が開き若い者が現れた。
「お侍様に膳と妓の用意を」
若い者が頭を下げたのと同時に、反対隣の襖の向こうから、女の激しい嬌声が響いてきた。
「気遣い無用! 下で待たせてもらおう」
鐙は顔を真っ赤にしながら言った。
■■■■■
鐙は一階に降り、裏庭に出られる縁側で待つことにした。庭の端には厠があり、中央に井戸があった。縁側正面向かいに木塀があり、一部が開き戸になっていた。その横に行燈があるが、消灯している。鐙は火照りを冷まそうと、井戸で顔を洗った。
「とんでもない所に来たなぁ……」
鐙は独りごちる。祓い役の修行として、鐙は武芸と儀式作法の鍛錬を積んできた。高尚な祓い儀式に携わる者として、禁欲は当然だった。鐙の父も祖父も、世継ぎ目的以外での女との接触は極力控えていた。鐙も成人の歳になり酒の付き合いも増えたが、女を呼ぶ場面では暇するよう心掛けていた。
「駄目だよぉ、勘弁してくれよぉ」
「いいじゃねぇか。客ももう落ち着いた頃だ」
縁側の向こうの部屋から声が聞こえてきた。ここの奉公人だろうか。人目を盗んで勝手に楽しもうとしているようだ。縁側に来る気配がして、鐙は井戸の陰にしゃがんで隠れる。
「水揚げ前でも関係ねぇ、バレねぇよ」
「もうアンタのそういうところ嫌いじゃないよ」
月明かりの下、男女の熱した呼吸音がしっとり響く。鐙は早く去ってくれと願った。
「アンタら、人が居るところでおっ始めてんじゃないよ」
カラッとした娘の声が厠の方から聞こえてきた。
「もて菊!」
「アンタいつから居たんだい?」
「井戸の陰にもう一人いるよ」
鐙は自身の存在を指摘され、やむを得ず立ち上がる。突然長身の浪人姿が現れ、縁側の男女は声を上げた。
「早く戻りな。二度と馬鹿なことをするんじゃないよ」
もて菊と呼ばれた娘は厠を離れ、井戸に近付きながら言った。
「このことは黙っててくれよ……」
二人は気まずそうに去って行った。
近付いてきた娘に鐙は会釈する。
「かたじけない。安易に動けず苦慮していたところだ」
「ちょっと待ってな」
娘は縁側の方へ行き、姿を消した。そしてすぐに灯りと油を持って現れ、中庭にある行燈を灯した。ようやく互いの姿を見合う。
「アハッ、予想以上の良い男だ。客じゃないのかい?」
「ここの客からの預かり物を受け取る為に待っているだけだ」
「だったらアタシと遊んでいきなよ。金は要らないよ。さっきの二人から口止め料もらうからさ」
鐙の返答を待たずに娘は距離を詰め、手を伸ばして肩に触れた。月明かりに負けぬ輝く肌をしている。
「アタシはもて菊。アタシも水揚げ前だから床入りはダメなんだけどね……」
蜜程ではないが女子にしては背が高い。手足が細長く、頭部は手毬のように小さい。衣紋を大きく抜いた小袖の着方や前帯の締め具合から、しなやかな体つきであることが分かる。
「それとも、お侍様がアタシを水揚げしちゃう? 特別に安くしてもらうよ。アタシもお侍様みたいな良い男に初物あげられたら皆に自慢出来るよ」
水揚げとは、遊女見習いに初めて床入りをさせることである。客が大金を支払い、盛大な宴と合わせて行われるものだ。意味だけは知る鐙は照れと困惑で顔を背けてしまった。
「アハハ。ごめん、冗談だよ。見かけによらず初だねぇ。その気になれば、いくらでもモテるだろうに」
もて菊は手を鐙から離した。小振りな目鼻立ちとやや大きい口の配置具合が絶妙で、不思議な魅力を放っている。髷を二つの輪の形にして真ん中に布を被せた布天神という結い方は粋筋育ちならではの個性を伺えた。年齢は鐙と同じか下のはずだが、鐙は娘の存在感に呑まれていた。
「修行中の身だ。見逃せ」
「仕方ないねぇ。ところで名前は……」
木戸が開き、侠客風の男が入ってきた。
刷毛先を散らした『たばね』の髪型をしており、開けさせたお仕着せから彫り物を覗かせている。
「誰だテメェ? うちの妓に勝手に手ぇ出してんじゃねぇよ!」
「違うよ、助六。お侍様はアタシを助けてくれたんだ」
もて菊が鐙の左腕にしがみついた。腰に差した刀にもて菊の振袖が当たる。
「どういう意味だ?」
「最近入った若い者がいるだろ。アイツ、アタシら振袖新造※5にちょっかい出してるんだよ。偶然ここにお侍様がいたから、アタシは何もされずに済んだんだ」
「何だとぉ。アイツ、シメてやる」
助六が縁側に向かう途中で、北尾屋番頭の文を持った若い者が現れた。
「矢橋屋様、文をお持ちしました」
「矢橋屋だって?」もて菊が言った。
鐙はもて菊から離れ、縁側まで小走りした。若い者から文と飛脚に払う銭を受け取る。
「然と預かった」
鐙は若い者と中庭にいる二人に頭を下げ、縁側から廊下に入り、玄関へ向かった。
花見屋を出た途端、溜め息が出た。どんな修行よりも疲れた。早く戻ろうと鐙は来た道を戻る。
「待ちな!」
振り向くと、花見屋玄関にもて菊と助六が下駄を履いて立っていた。
「お侍様は、矢橋屋の者なのか? 詳しく聞かせてくれ」
「御免、急いでいる」
そう鐙は返答しかけたが、もて菊は有無を言わさぬ勢いで駆け寄って来た。
「鳥居まで見送るよ。大事なものを持ってるなら、客引きに捕まらない方が良いだろ。助六も一緒だ」
断る口実を重ねても通用しないだろうと鐙は判断し、黙って頷いた。
※1茶屋、置屋:茶屋→宴会も出来る飲食店。遊女や芸妓を呼んで宴会を楽しんだ後、遊女と泊まる部屋に行く流れが遊郭遊びの基本。茶屋によっては宿泊もできるところもある。置屋→遊女を管理運営してる店。客はここで遊女を選んで買う。上級遊女は置屋内に専用個室があり、そこに客を泊めることも出来る。
※2張り見世:格子の向こうで買われる前の遊女が待機している。客は外から格子越しに覗いて遊女を選ぶ。上級遊女は張り見世にいない。
※3若い者:遊郭で働く男の総称。従業員。年齢無関係の呼び方なので、歳を取っても若い者である。
※4茶挽女、禿:茶挽女→客に買われず暇している遊女のこと。禿→遊女として修行中の子ども。
※5振袖新造:遊女ランクの最下位。見習い。見習い期間を終えると、留袖新造になる。
なお、紅世輪での遊女ランク名↓
太夫〉天神〉留袖新造〉振袖新造