13、紅世輪①
「ギャー! 何て格好してるんですか?」
弦造が戸口から出た途端叫んだ。慌てて鳶色の羽織を脱いで鐙の肩にかける。
「早く中に入ってください。若衆を裸で立たせるような店だと思われたら堪りません!」
弦造は羽織越しには鐙の背中を押して、戸口へ押し込んだ。
「女将も入ってください!」と弦造に言われ、蜜は俯いたままミセニワに戻る。犬もテトテトついて来た。
「騒がしいな」
「弦造、掃き掃除は済んだのかい……ギャッ」
「おかえりなさーい」
弓兵衛、お朝、お笹もミセニワに集まる。お朝は鐙の姿を見て声を出した。お笹は足丸と同じ顔でニヤニヤと笑っている。
「女将は早くこちらへ」
お朝は裸足で土間に降り、「見てはいけません」と釘刺しながら蜜の手を引っぱる。蜜は袖で顔を覆ったまま鐙の傍を通り過ぎた。
「女将、そのままでいいので聞いてください」
鐙は板間に上がった蜜に向かって言った。弦造に羽織を返し、土間に膝と手を着け頭を下げた。
「藤鷹様?」と弦造がやや困惑気味に言った。
鐙が土下座したのだと、土を擦る音で蜜は悟った。
「俺をしばらく矢橋屋で雇ってください。飛脚で金を使い果たし、無一文になりました。故郷に工面を頼みますが、時間を要します。お願いします。用心棒でも何でもします」
沈黙の中、犬がクゥーンと鳴いた。鐙は頭を下げたまま、言葉を繋げた。
「この犬、名は小望と言います。小望をしばらくここで養生させてやってください。呪いと闘いながら主人の願いを届ける為、央照からやってきました。身体は相当弱っていて、このまま帰せば無事に辿り着くことは出来ません。お願いします。俺が面倒見ます」
蜜は袖を少しだけずらし、鐙を見ないようにしながら、舌を出し尾を振っている犬を見た。
「その参詣犬は小望という名なんですね」
「巾着の中の文に書いてありました」
「額の毛模様は三日月ではなく、小望月。あともう少しで望月になる形。素敵です」
蜜は袖の隙間から小望を見つめている。お朝が眉尻を上げた。
「女将、犬の名前なんかどうでもいいです。本当にお武家様を雇うんですか?」
「私は構いません。矢橋屋の一員とした方が、藤鷹様が修行する上で互いに都合が良いでしょう。給金は前貸ししますので、着る物とお故郷への文は、それで賄ってください」
「かたじけない」
鐙は頭を一層下げて言った。
「犬はどうしますの? こんな汚いものにうろつかれたら迷惑です」
「身体を洗ってあげれば良いことでしょう。お笹、湯と手拭いの用意を」
「はーい」とお笹は銭湯へ続く渡り廊下を走って行った。
「足丸は急いで古着屋に行ってきてください。
その間、弓兵衛の小袖を貸してあげてください」
「はーい。呪抜刀は返すね」
足丸は膝をついたままの鐙に刀を渡し、外へ駆けて行った。次に弓兵衛が一歩前に出た。
「おい、アブ。俺の部屋に来い」
「アブ?」
「央照から来る客は少なくない。将軍家とも縁のある藤鷹家の者が、こんなボロ旅籠で雇われていると知られたら、家の名に傷が付くだろう。
アブ……。さしずめお前はハナアブってとこかな。蜂のフリをして敵を騙す。農家の坊主も上手いこと言うもんだ」
「何で知ってるんだ?」
弓兵衛がニヤリと笑い、弦造も口元から笑みが漏れている。蜜とお朝は黙ったまま奥へ下がった。
「ここは妖と縁がある矢橋屋だからな。ほら、早く来い。弦造はしばらくここでワンコロが物を壊さねぇか見ておけ」
鐙は苦虫を噛み潰したような顔をしながら、弓兵衛について行った。
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明るい空に橙色が混じる時分になった。宿泊者達がミセニワにやって来る。矢橋屋にとって一日で一番忙しい時間が始まる。
鐙と蜜と小望は中庭にいた。お笹が用意したたらいには、湯がたっぷりと張られていた。
床を踏む音とお朝のキーキー声が、二階の窓から届く。「手伝わなくていいのかな」と鐙は見上げながら言った。
「仕事は明日からお願いします」と蜜は返した。
鐙は弓兵衛から借りたお仕着せを着流している。裾が少し短い。呪抜刀と脇差は今後寝泊まりする弓兵衛の部屋の押入れに仕舞わせてもらった。
手拭いを姐さん被りした蜜は、袖を襷掛けして前掛けを着けた姿で地面に膝をつく。手拭いを湯に浸して絞り、泥で固まった小望の毛を優しく拭く。小望は鐙に身体を支えられながら、地面に敷かれたゴザの上で大人しくしている。
「弦造が犬を診れる家畜医を呼ぶと言っていました。犬の世話の方法が書かれた教本ももらうよう頼んでいます」
泥が取れ、明るい毛色が見えてくる。蜜が小望の身体から手を離すと、小望は全身を震わせ水気を切った。跳ねた水滴か蜜と鐙にかかる。
「キャア、フフフ」
蜜は楽しそうに微笑んだ。今の蜜は、普通の町娘と変わらぬ朗らかな雰囲気だった。重暗い影を背負った女だと、鐙は思っていたので、その様子はとても意外で、好ましかった。
袖から伸びる細くて白い腕を、鐙は見る。数日の滞在で気付いたのは、世輪町の住民は皆日に焼けている。偶数通りを歩けば、誰が参拝客か町民がすぐに見分けられる程だ。大陽様お膝元故の、日差しの長さ強さが理由だろう。鐙も自身の腕を見て、夏でもないのに随分肌が焼けたと感じている。
そんな世輪町で暮らしているにも関わらず、蜜の肌は、誰にも触れられていない新雪の上積みを思わせる程の白さと滑らかさをしていた。
鐙は幼い頃の記憶に残る、母を思い出した。周囲から絶品の器量良しと言われた母も、透き通るような白い肌をしていた。
「小望にはしばらく無理をさせてはいけませんね。元気そうに見えますが、祓いの力が弱まっています。強い妖に狙われれば、良き餌となってしまいます。それだけ、邪気に襲われることは生き物にとって負荷がかかるのです」
と、言い終えると、蜜は鐙を見た。
「気になっていたのですが、猪に襲われた後、鐙様はどこに隠れていたのですか?」
「反対側の岸に戻ったんだよ。関所を通らずに渡ってしまったから」
「橋を歩いてですか? 弦造は何故気付かなかったのかしら……」
「いや、橋は渡ってない。無断で侵入したと思われたら困るから、泳いで戻ったよ」
「え、妖に襲われた直後なのに、泳いで川を渡ったのですか?」
流れが強い川ではないものの、それでも橋を使わない時は小舟を出す必要はある程の幅と深さはある。蜜は信じがたい様子で鐙を見る。
「大変だったよ。刀や荷物を羽織とかで包んで背負って、水に浸かり過ぎないように泳いだから。
油紙で包んでいたから、手形は読めなくなる程濡れなかったのが幸いだった。路銀も引き摺られた時に落としてなかったしね。
近くの宿場町に戻って、身に着けるものを全部取り替えてから、関所に向かったんだ」
翌朝弦造が早々に関所を訪れ、侍が来たかを尋ねた。しかし、それらしき侍の記録はなかったと言う。鐙が初めて矢橋屋を訪れたのは午後だったのはその為かと、蜜は思った。
「恐ろしい御方ですね、鐙様は」
蜜は困ったような笑みを浮かべながら言った。
「女子がいるぞ。大女だが良い尻をしてる。何で髪を垂らしているんだ?」
「本当だ。女は手配しないって、さっき番頭が言ってたよな」
鐙が渡り廊下の方を振り向く。客と思わしき男二人が話しながら二つある厠にそれぞれ入った。蜜は小望の身体を拭き続けている。
「女将、部屋に戻ったら……」
「もう少しで終わりますから。鐙様は足丸が戻ったかどうか見てきてもらえますか? 足丸に頼んで毛を乾かさないと」
鐙は渡り廊下へ向かう。厠から出てきた男達がジロジロと蜜を見ている。お仕着せ姿の鐙が近付いてきたので、口元を緩ませながら話しかけてきた。
「今晩、あの女に膳を運ばせてくれ。銭は弾むぞ」
男は強引に鐙の手の平に銭をねじ込もうとした。鐙は「待て……」と声をこぼした。
「ウチは女を手配しねぇと言っただろ!」
弓兵衛が怒鳴りながら歩いてきた。男達の肩が上下に揺れる。
「そう言わずに融通きかしてくれよ」
「ウチの決まりを守れねぇなら、橋の下で寝やがれ。ゴザくらい貸してやらぁ」
弓兵衛は顎を上げて睨み付けた。その勇ましい剣幕と襷掛けの腕の太さを見て、男達は黙って二階へ戻って行った。
「すまん……」
鐙はバツが悪そうに言った。
「明日から、これがお前の仕事だ」
弓兵衛は眼差しを緩めることなく厨へ戻った。
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夕餉を済ませた客が風呂屋へぞろぞろと移動する中、お朝は蜜の部屋に向かった。中に入ると、蜜は香炉を箱に仕舞っているところだった。
「香炉を変えるのですか?」
「いえ。しばらく香を控えようと思いまして。犬は鼻が効くと言います。人には良い香でも弱った小望には刺激が強いでしょうから」
「女将……」
お朝は蜜の傍に座り、背筋を伸ばした。
「侍と犬が来たからと言って、お気を惑わしてはなりません。女将はこの旅籠の主として、気高く堂々としていなければなりません。小汚い犬の身体を洗うなんて。このお朝、情けなく存じます」
「お朝達が仕事で忙しいから、私が代わりに犬の世話をしたのです。汚いままでは他の客に迷惑でしょう」
蜜の眉が悲しそうに下がる。
「弓兵衛から聞きましたよ。客が中庭にいる女将を飯盛女と間違えたと。そのおかげで先程、馬鹿な客がお笹に話しかけてきたのですよ。『早く客を取れる歳になってくれ』と。お笹は笑って流しましたけど、私は腹の虫が収まりません」
「ごめんなさい」と蜜は俯く。
「正月明けまで休んでいたお稽古を再開しましょう。今一度心身をしっかり引き締めて頂かないと。花の良い季節になりましたし、お花の先生を近い内にお呼びします。お稽古を休む言い訳は聞きませんからね」
言いたいことを言い終え、お朝はスッと立ち上がり部屋を出ると、ピシャリを障子を閉めた。
お朝の足音が遠くなってから、蜜は深い溜め息をついた。
いつもこうだと蜜は思った。自分のやりたいことをお朝は認めてくれない。反発しようとすれば、無理やり稽古事を増やしてくる。
だが昔と違い今の蜜はあまり落ち込んでいない。初めて生き物の身体を拭った。温かい感触と獣の臭さが新鮮で面白かった。お朝の小言の煩わしさを上回ると思った。蜜は静かに驚きつつ、嬉しさで心を満たしていた。
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鐙は夕刻前後に足丸と共に雑務を請け負うことになった。修行は朝から昼過ぎまでで、剣術と瞑想に励む日を過ごした。用心棒や護衛ではないのかと、鐙は一応確認したが、「要りません」と蜜に言われ、ある意味納得した。
如月も後半のとある夜。旅籠矢橋屋の閉められていた戸口が開き、世輪町役場の足軽がミセニワに入ってきた。
「頼もーう」
「はいはいはい、何でしょう」
大きな行燈と八間で明るい板間に、弦造がやって来た。今は宿泊客が風呂屋に行く時間帯で、番頭の弦造の手は少し空いていた。
「ここに貴陽藩の呉服屋北尾屋の四代目弥右衛門の使用人が泊まっていると聞いたが?」
「ちょいとお待ちくださいな」
弦造は番頭台に戻り、本日の宿泊客の名前が書かれた帳簿を見る。
「お呼びいたします」
そう言って弦造は二階へ上がっていった。
鐙が足丸と一緒に四通りを南へ歩くことになるのは、それからしばらくしてからだった。