10、参詣犬②
桜の盛りが過ぎたからか、参拝客の数が昨日よりも少ない。鐙はほ抜けから五通りに入り、適当な場所を探した。腰にある呪抜刀に触れる。特に変化は起きていないようだが、なるべく南へ進まないようにと鐙は思った。
昨日手を合わせた牛の墓の前に到着した。ボロ板の墓標の付近に、黄色い花弁をつけた菜の花が散らばっている。
「昨日俺が来た時はなかったから、その後墓に手を合わせに来た奴がいるんだな」
鐙は散らばった菜の花を拾い集め墓標の前に置いた。この墓の周囲は綺麗に掃かれており、硬い砂利や枯木が取り除かれている。
「これも何かの縁だ。隣で修行させてくれ」
鐙は牛の墓に手を合わせ、隣であぐらをかく。背筋を伸ばし深呼吸すると、静かに瞼を下ろした。
剣術や祓い役の修練の過程で、瞑想は何度かしている。鐙は、頭の中にあるものを全てストンと腹へ落とす。腹へ落としたら、ゆっくり息を吐く時に一緒に出す。通りを往来する人々の足音や話し声や砂煙が鐙にも届くが、鐙は産毛一つ反応を示さなかった。
「ここで何してるんだ?」
近い位置から頭上に子どもの声が降ってきた。無視をせず、鐙は瞼を開き顔を上げる。
目の前に欠けた湯呑みを持った小僧が立っていた。年齢は足丸よりも下で、まだ十にも満たないだろう。肩上げした縹色の小袖をお端折りして赤い膝を出している。筒袖や襟に鼠色の継ぎ貼りがあり、裸足の足元や毛先や裾に泥が付いていた。農家の子が手伝いの合間にやって来たと鐙は推測した。
「修行だ」と鐙は答えた。
「もしかして、牛太郎の精霊か!」
「は?」
「おっかぁが言ってた。お墓を作って一所懸命祷れば、牛太郎は精霊になってオイラを守ってくれるんだって」
「牛太郎はお前の家で飼っていた牛か?」
「そうだよ。牛太郎、覚えてないの? オイラ、毎朝お前の小屋を掃除して、身体を拭いて、餌もやってたのに。その小袖は牛太郎の好きな枝豆の色だろ」
農家の小僧はしゃがんで、鐙の淡萌黄色の袖を摘みながら言った。
「俺は牛太郎じゃない。人間だ。でも、お前が墓周りを綺麗にしてくれたおかげで良い修行が出来た。感謝する。きっと牛太郎も喜んでいるさ」
鐙は立ち上がり、墓を見た。
「この墓からは何も悪いものは感じない。穏やかに眠れているんだ。今はまだ寝かせてやれ。いつかお前の元に礼に来るはずさ」
小僧は思いの外、背の高い侍に少し驚いたが、鐙の言葉に顔を綻ばした。
「お前、名前は?」
「三吉」
「俺は鐙だ。しばらくここで修行しても良いか?」
「良いよ。牛太郎も寂しくならないし」
二人は満足気に微笑みあった。
「あら、あの犬もお参りかしら」
「大したもんだ。無事辿り着いたんだ」
通りすがりの男女の声が二人に届いた。振り返ると、道の真ん中をトボトボと歩く犬がいた。泥塗れだが赤毛だと分かる。体高は一寸(約30センチ)を越える位だ。鐙は柴犬かなと思った。
「参詣犬だ。年越してからは初めて見た」
「参詣犬?」鐙は三吉に尋ねた。
「遠くに住む人の代わりに大陽参りする犬だよ。疲れているみたいだし、きっと遠くから来たんだ」
三吉は犬に近付き、しゃがんでチチチと口を鳴らした。犬は反応し、三吉の方に寄ってきた。
三吉は拳をそっと出す。犬が鼻をクンクン動かす間、三吉はワザと目を反らして待っている。やがて犬は拳をペロリと舐めてから顔を上げた。三吉は泥で毛羽立った犬の背中を撫でた。
「人に慣れているんだな」
「当然だよ。でなきゃ道中御飯貰えないもん」
犬はすぐに三吉に懐き、よろけながら腹を見せた。まだ白さが残っている腹部の毛を、三吉は大袈裟に撫でる。
「オイラ、おっかぁに御飯貰ってくる。腹を空かしたままじゃ参拝出来ないからね。アブさんは、コイツと待ってて!」
三吉は南へ走り、に抜けを西へ曲がった。
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鐙は牛太郎の墓の傍へ戻った。犬も付いて来た。待っていれば餌がもらえると理解しているようで、あぐらを組んで座った鐙の横で尻を着ける。
「お前はどこから来たんだ?」
鐙は犬に話しかけたが、犬は舌を出して呼吸するだけで、反応しなかった。
犬は、薄汚れた白い綱を首に巻き、首元に赤い巾着を括り付けていた。参詣犬というものを初めて知った鐙は、隣で大人しく待つ柴犬が興味深く、耳先から尻尾まで隈なく眺めた。その視線に嫌気が差したようで、犬はワンッと鐙に向かって軽く吠えた。
「悪い悪い」
その後鐙は、犬が動かないかを気にしつつ、瞑想を再開した。隣にいる犬の臭さが漂ってくる。苦労の果てにようやく来れたのだろうと思いを馳せた。
「ん?」
犬の様子を確認する為に、鐙は目を開けて横を見た。すると僅かに、犬の首元にある巾着から黒いモヤが見えた。
「邪気……?」
犬に変化は無い。しかし鐙は気の所為とは思えなかった。
「おい、ワンコロ。巾着をちょっと見せてくれ」
鐙は犬の斜め前でしゃがみ直した。犬の首の綱にそっと触れる。犬の顔が正面を向いた時、額に白い模様が見えた。
「三日月みたいだ」
額の毛が一部白くなっており、右側が微かに膨らんだ三日月のような形をしていた。鐙は珍しい毛の模様に微笑んだ後、首元の巾着に手を伸ばした。
ガルルルッ
犬が歯を見せ噛み付こうとしてきた。鐙は咄嗟に身体ごと手を引いた。
「触ったら駄目なのか?」
犬は四肢で立ち、鼻息荒くして鐙を睨む。
「ごめん、もうしないよ」
鐙は元の場所に座る。犬も同様に腰を下ろしたが、先程よりも鐙から距離を置いていた。
風呂敷を担ぎ、丸く包んだ紙を手にした三吉が戻ってきた。
三吉は犬の前で紙を置いて広げた。魚や鶏の骨と野菜の切れ端が混ざった残飯である。犬は勢いよく残飯の山に顔を突っ込み食べ始めた。
「アブさんとオイラはこっち」
風呂敷の中身は、竹の皮包みが二つだった。一つを鐙に渡し、三吉は自分の分を広げ、三つある握り飯の一つを墓に供え、手を合わせた。
鐙は「いただきます」と手を合わせてから竹の皮を広げる。粟と稗を混ぜた握り飯で塩が良く効いていた。
「俺の分まで悪いな」
「おっとぉとおっかぁがいつも言ってるんだ。四通りの宿は金を出す客しか世話しないから、金を出せない犬や人間は、自分達が世話してやるんだって」
「有難い話だ」
鐙は笑いながら握り飯を頬張った。
犬はあっという間に平らげ、広げた紙を破れそうな程にペロペロと舐めていた。
「紙は食べちゃ駄目だよ」
三吉は紙を回収した。すると犬は諦めて数歩下がり、鼻を舐めたり毛づくろいをした後、身体を丸めて目を閉じた。
「なぁ、アブさん」
三吉が空になった竹の皮を畳みながら言った。
「俺はアブじゃねぇ。鐙だ。馬に乗る時に足を引っ掛けるやつのことだ」
「へぇ、アブさんのお家は騎馬兵だったの?」
「関係ねぇよ……」
そう返しながら鐙はふと思った。藤鷹家は代々嫡男に馬具の名前をつけている。父が鞍之助で四年前に他界した祖父は手綱という名だった。だが、確かに騎馬兵の家系でもないのに何故馬具を名前にするのか、鐙は知らなかった。
「それはそうと、俺に何か聞こうとしたな」
「あ、そうそう。アブさんにあの参詣犬のお参りの付き添いをしてほしいんだ」
「何でだよ。アイツ一匹で行けばいいだろ」
「大陽大社の地に勝手に糞やションベンしたらバチ当たりだから見張らなくきゃ。オイラ、畑仕事に戻らないといけなくて、おっかぁに話したら『お侍様に頼め』って」
三吉は視線をずらし、鐙の膝にある空の竹の皮を見る。
「この握り飯は手間賃なんだな」
鐙は苦笑いした。「パサパサで不味い冷飯を喰わせといて」という言葉は呑み込んだ。
「でも俺は修行中だから大陽大社に入れないぞ。五通りい抜けまでになる」
「大丈夫。陽遣い様が世話してくれるから。五通りの隅っこでションベンを済ませてから陽遣い様にお願いしてね。
首の巾着には小銭とお願いごとを書いた紙が入ってるはずだから、陽遣い様が中身を見て、この犬に必要なお守りを渡してくれるはずだよ」
三吉の説明を聞き、鐙は先程犬が怒った理由を理解した。そしてこの犬が非常に賢く主人に忠実であることも悟った。
「これも修行だ。お供させてもらうぞ」
鐙は大袈裟に犬に向かって頭を下げた。
「アブさん、よろしく。オイラは六通りでこの紙を売ってから帰るから※1。じゃあね!」
三吉は駆け足でに抜けを曲がり去って行った。鐙のことをアブと呼ぶのは直らなかった。
犬は立ち上がり、ハッハッと舌を出し、尾を振って待っている。
「俺達も行くか」
鐙が声をかけると、犬はワンっと吠えた。
鐙が五通り西側を南に向かって歩くと、犬は右横並びにテクテクとついて来る。犬は通りの境目となる木々の中で適当なものを見つけると、サッと駆け寄り足を上げ尿を幹に引っ掛ける。そしてすぐに戻ってきて、見つけたらまた駆け出すのを繰り返した。
「おい、そこにかけるな」
犬が朽ちた石灯籠に向けて片足を上げたので鐙が注意すると、犬はすぐに離れた。
犬の寄り道に付き合いながらのんびりとは抜けを過ぎた。四通りと六通りに行こうとする人々が横断する以外の姿は見られない。行楽時期が過ぎれば、この程度の人数が普通なのだろうと鐙は思った。
犬が六通り側の木々の茂みに潜り、そのまま戻って来ない。鐙は茂みに近付く。背の低い木々の葉が揺れている。待っていると犬が戻って来た。
犬が出てきた茂みの方を覗くと、表面に照りのある小さな糞が転がっていた。
「これで安心してお参りが出来るな」
足で顔を搔いている犬を見ながら鐙は言った。
犬が尻を上げた時、首の巾着が揺れた。その時、フワッと黒い煙が舞い、すぐに消えた。鐙は息を呑んだ。巾着か犬自身に妖が憑いているのか、鐙にはまだ分からなかった。そっと脇差しに触れる。いざとなればイタチの時のように斬ってやろうと鐙は決めた。
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弦造が戸口を閉める。正午になり、旅籠矢橋屋は休憩に入る。土間から板間に上がり、奥の女将の自室に向かう。笹の葉の香りが廊下に漂っている。
「良い香りですねぇ」
弦造が部屋に入ると、蜜とお朝と弓兵衛が各自膳の前に座っていた。弦造も座り、膳に置かれた竹の葉で包まれたものを見る。
「筍を刻んで米と混ぜてから、笹の葉に包んで蒸したんだ」
弓兵衛の説明を聞きながら、各々三角に膨らんだ笹の葉の先に結ばれているい草を解いた。ツルンと光る白米握りが現れる。
「美味い美味い」
「ただの昼餉に面倒臭いことをするよ……」
弦造とお朝には一瞥もせず、弓兵衛は筍入りの白米握りを頬張りながら蜜を見た。
「風味が米に合って美味しいです」
弓兵衛は口角を上げた。
「ですが、折角の筍の良い食感が、これでは物足りません。筍は煮付けや汁物の具にした方が、旬を楽しめると思います」
「なるほどな……」
蜜の言葉に弓兵衛は納得しながら口を動かした。
「藤鷹様の修行は順調ですかね」と弦造が言った。
「足丸が言うには、今は参詣犬の付き添いをしてるみたいですよ。何してるんだか」
お朝が呆れたように言った。
「何で犬の世話をしてるんだ?」と弓兵衛。
「子どもに頼まれたんですって。畑仕事があるから代わりにお願いと。お武家様が百姓の子どもに頼まれ事されるなんてお笑いものだわ」
「身分を隠されているから仕方ないとはいえ、きっと藤鷹様は御人好しなのですね」
蜜は呟く。その時ピクンと前髪が反応した。
「足丸、犬に変化があれば知らせてください」
はーい
「女将……?」
弓兵衛、弦造、お朝は、苦い表情を浮かべる蜜を心配そうに見ていた。
※1雑紙買い:使用済みの紙を買い取る商売。紙は庶民にとってそこそこ貴重品かつ色々使うので、いわゆるリサイクルが成立してます