1、序章 新月の昼夜
☆月と季節は旧暦風です。
春:1〜3月、夏:4〜6月、秋:7〜9月、冬:10〜12月
☆年齢の数え方:生まれた時点で0歳。その後元日毎に1つ加齢。よって誕生日の概念はありません。
☆髪型、服装等は、史実通りではありません。
☆ここに登場する『将軍』は、架空の人物です。
「あったかいなぁ」
六歳になったばかりの男児は呟いた。雲一つないカラッとした青空。お日様の光が燦々と降り注いでいた。
央照城内にある野外演舞場の観覧座席には、全国から集まった大名達が長裃姿※1で並んでいる。演舞場を中心に円状に観覧席は配置され、上座の席には将軍と高位の大名達が、直垂※2という装束姿で座っていた。
まだ桜が咲くには早い睦月半ば。厳格な空気から少し離れたところで、ちらほらと桃の花が愛らしい色を見せていた。
桃の木の枝にシジュウカラが止まる様子を、首を横にして男児は見ていた。本来ならこの儀式に将軍家以外の女子どもが参列することはない。しかし今回特別に、男児とその母親は最後部席からの観覧を許された。
「鐙、始まりますよ」
母親に言われ、鐙という名の男児はすぐに姿勢を整えた。今日の母親はいつもと違った。髱を横に膨らませ真ん中で干し椎茸のように割れ目を入れている。長い毛先は結わずに背中から地面にまで束ねて垂らしていた。打掛は淡萌黄色で裾から背中辺りにびわの白い花の刺繍が施されていた。
鐙も今朝は随分朝早く起こされた。前回剃って間もない頭頂を、髪結いが剃刀で撫でた。前髪はバリバリと油で固められ、髷も結い直した。そして母と同じ淡萌黄色の裃※3に着替えさせられ、先程からずっとここで待っている。頭皮が油と剃刀負けで痒い。しかし手を伸ばそうとすると叱られるので、鐙は我慢するしかなかった。
先日鐙は、町人の子の読み物をこっそり付き人に頼んで見せてもらったことがある。そこには浪人の絵が描かれていた。浪人は頭頂の髪を伸ばしてボサボサにしていた。それを見た鐙は、大人になれば剃らなくていいのだと思ったものだ。
法螺貝の音が聞こえてきた。演舞場はすり鉢のように後方にかけてやや上り坂になっている。幼い鐙でも、遠目ではあるがこれから始まる儀式の様子が見えた。
「父上だ……」
「静かになさい」
声が漏れ、即座に母親に咎められた。
演舞場に二人の武士が現れた。一人は抜き身の刀を持ち、真っ白な裃姿だった。鐙の父、藤鷹鞍之助である。彼は東灯藩出身の武士で、先日八年振りに行われた選抜を勝ち抜き、将軍家専属の祓い役に就任した。藤鷹家は先代から続き三回連続で御役目を果たしている。
もう一人の武士は祓い補佐役を務める堀喜春蔵である。藤鷹家と堀喜家の縁は濃い。鐙も堀喜家の子どもとは兄弟同然で付き合っている。それ故に鐙は、この場に堀喜家の者がいないことを少し疑問に思っていた。
堀喜は薄鼠色の裃姿で、腰を低くしたまま移動し、演舞場に寝かせていた大きな藁人形を立てた。藁人形は黒い羽織を着ていた。
今日は『祓い初め』という重要な儀式だった。年末年始特有のお勤めから、日常の勤めに切り替える為に、祓い役が将軍含めた全大名の邪気を祓い消し去るのだ。普段は将軍とのお目見えが許されない格の大名もこの日だけは将軍と同じ場に参列することが出来た。
藁人形は七尺あった。鞍之助が向かい合うと、大人と子ども程の背丈差があった。祓い役補佐の堀喜がしゃがんで再び法螺貝を吹く。すると、鞍之助は刀を構えた。
遠目からでも佇まいの美しさが分かった。逆さまの氷柱のように、鞍之助は両足を肩幅に広げ立っている。周囲は時が止まったかのように静かだった。
「セイッ」
強く押し出すような掛け声に合わせて、鞍之助は刀を左斜め下へ振った。すぐに構えを直し右斜め下へ振る。鞍之助が持っている刀は武士が所持する一般的な刀と見た目は変わらない。しかし、振った瞬間、光を放ったかのように、刀身はきらめいた。鞍之助と刀の動きの完成度に、観覧席からは唸り声が漏れる。
藁人形は立ったままだ。鞍之助は藁人形を斬っているのではなかった。次に鞍之助は二歩下がり構える。今度は腰をかなり落とし、切っ先も下げている。
「デヤァッ」
勢いよく鞍之助は跳ねた。上半身は藁人形を越えた。刀を振り上げ、身体が下がるに合わせて大きく振り下ろした。足元を崩すことなく鞍之助は着地し、立ち上がる。
すると、バリバリバリと藁人形は縦に真っ二つに割れ、地面に倒れた。鞍之助の刀は一寸たりとも人形に触れていない。それはここにいる誰もが見ていた。
オオオオオー!
歓声と拍手が沸き起こった。
儀式は成功だった。立ち上がって称える大名達もいた。
鞍之助と堀喜は、将軍がいる上座に向かって手を付き頭を下げた。幾つか言葉を交わしているようだが、賑わう観覧席にかき消され、鐙の耳までは届かなかった。
二人が演舞場を去るのを見送ると、将軍から順に参列者は場を後にしていく。鐙と母親は大名達が全員離れるまで待っていた。
母親のお許しが出たので、鐙は頭を掻き、足を崩した。
「凄うございました。僕も父上みたいな祓い役になって、将軍様の前で御役目を果たしたいです」
鐙の母親も表情を緩めた。
「御父上も喜びますわ。今日あなたをここに連れて来たのも、御父上があなたに御自身の姿を見せたかったからですのよ。
あなたは藤鷹家嫡男。東灯藩が誇る祓い役として、将軍様や大名様の邪気を祓うのです。来たるその日まで存分に精進なさい」
「はい、わかりました」
鐙は正座し直し、背筋を伸ばした。人が減り、演舞場全体がよく見える。真っ二つになった藁人形はとっくに片付けられていた。
「父上の切っ先はとても美しかったです。
藁人形の邪気はとても強いものでしたね。祓い終えた後もまだ刀に邪気が付いていました」
鐙がそう言うと、母親はビクッと肩を動かした。きらめく男児の眼差しを覗き込みながら、母親は尋ねた。
「鐙、あなたは見えたのですか?
刀から黒い炎のようなものが」
「はい。煙のようなものが見えました。初めて見ました。あれが邪気なのですね」
母親は唇を噛んだ。無垢で愛らしい顔の児に、もう一つ別の可能性を予感した。
「鐙、刀についた邪気のことは他言してはなりません。邪気が残っていたと思われるのは、縁起の悪いことです」
「え、はい……」
母親の声色が変わったので、鐙は戸惑った。
「ですが、決して忘れてはなりません。今日のことはしっかりと己の心身に刻みなさい。藤鷹家がどうあるべきか、あなたはやがて考えなくてはなりません。御父上も先代も先々代も向き合ってきたことです。同じことを繰り返すだけが正解ではありません。いいですか、これは母との約束です」
僅か六歳の男児には難しかった。鐙はとりあえず行儀良く「はい」と返事をした。
鐙が、母親との約束の意味とその過酷さを知ることになるのはまだ先の話だった。
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「暗いなぁ」
将軍が暮らす大都市『央照』から遥か西南に位置する『陽潮藩』。今宵は新月。更に雲がうっすら空全体を覆い、星も見えなかった。
二人の武士が行灯も持たずに新月の夜の森を歩いている。一人は二十代半ばで、もう一人は十代の若者だった。若者は上下白い羽織と袴を着ている。年上の方も同じ白色のはずだが、すっかり着古して黄ばんでいた。夜闇に二人の格好は充分目立った。
「勝牙様、妖の気配が強くなってます」
若者がまだ軽さが残る声で言った。ソワソワしながら何度も額に手をやっている。
「落ち着かないな、青一朗。月代がまだ慣れないみたいだな」
青一朗は照れくさそうに俯いた。
「風が当たるとくすぐったいです」
「すぐ平気になるさ。それにしても俺が小さい頃に遊び相手になってくれた時のお前の父親にそっくりだ」
「ありがとうございます」
「アイツが補佐役をお前に譲った後、静かに隠居すると思ったが、ちゃっかり俺の子ども達の護衛兼子守になりやがった。足を痛めたって言ってたくせに馬乗りしてたぞ。アイツは本当にガキの面倒を見るのが好きだなぁ」
勝牙はゲラゲラと笑った。角張った顎や濃い眉から、武士というよりも荒波に挑む漁師のような豪快さを感じさせた。
隣りにいる十六歳の青一朗は、ほんの数日前に年始の祝いと合わせて元服したばかりである。初々しくも精悍な顔付きをしていた。
「睦月の新月てことは、今日は将軍様とこで祓い初めの儀式だったってことか」
「昨年祓い役の選抜が行われて、今回も東灯藩の藤鷹家が専属になったんですよね」
「そうだ。東灯藩の祓い役は全国一の見栄えだからな。代々別嬪の嫁をもらうことで、美麗の祓い役を育ててきた」
ザリザリと乾いた枯れ葉の音を立てながら勝牙は言った。
「さぞ見事に祓いを演出したんだろうな。殿が戻ってきたら、お小言を言われそうだ。俺には華の欠片もないからな」
「祓いは見世物ではありませんよ」
青一朗は言った。
「いや、祓い役てのはそういうもんだ。
大陽様の代わりになりきって、祓いの作法をする。それだけで、人々の心は満たされ、生きる糧に繋がる。だから祓い役は武士の役職の中でも上位になるんだ。
でも俺達は違う」
勝牙は立ち止まった。青一朗も空気が変わるのを察した。
「俺達は祓い役じゃねぇ、祓い師だ」
そういうと勝牙は刀を抜き、目の前の空を切った。暗闇から青白い炎のようなものが浮き上がる。それは縦にうねる木の幹のようだ。耳の奥を揺さぶるような高音を発し、素早く後方へ去った。
「追うぞ! 本体がまだいる」
勝牙は弾むように夜の森を駆けた。青一朗も後を追う。横から青く光るものが飛んできた。それを走りながら青一朗が刀で切り倒していく。
「良い動きだ、青一朗!」
勝牙の言葉に、青一朗の口元は少し綻ぶ。
「俺の娘ともう少し歳が近ければ、婿にしたかったよ!」
「畏れ多いことは言わないでください!」
走った先が行き止まりになっているのが見えた。岩壁に面した木々の隙間から、先程と同じ青白い炎がゆらゆら覗いている。
「妖め、ここまでだ。
この勝牙朔周がお前を消し去る」
炎が二人に立ち向かうように、姿を現した。太く長い大ミミズだった。邪悪な力と臭いが勝牙の鼻先を震わす。
「デヤァ!」
勝牙が踏み出すと同時に、ミミズが頭を素早く振った。勝牙は避けながら間合いを詰め、ミミズの身体を真横に斬り落とした。
「むっ……」
ミミズは倒れ、炎は萎むように消えていく。
「勝牙様、やりましたね!」
青一朗が声をかけたが、勝牙の表情は固かった。ミミズの身体の反対側がまだ木々の向こうにある。勝牙は進み、奥を覗いた。
「まさか……」
勝牙は刀を振り回した。刀身に白い糸が幾重にも絡まった。
「これは?」
青一朗も奥を覗く。岩壁の前に白い糸で巻かれたミミズの身体がある。その白い糸はよく見ると木々の上の方へ何本も伸びている。ミミズ本体からは、邪気も何も感じない。勝牙が斬ったからではない。とっくの前から果てていたのだ。
「妖が、別の妖の亡骸を操り、俺達を騙した……何の為に?」
新月の夜闇の中、刀から垂れる白い糸が、銀色に怪しく光っていた。
※1長裃:武士の礼服の1つ。袴が引きずる程長い。遠◯の金さんがラスト桜吹雪を見せる時に着てるやつ。
※2直垂:将軍や上位武家が着る礼服。現在なら相撲の行司さんが着てるやつ。
※3裃:長裃の袴が長くないやつ。