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クレオパトラの娘  作者: かのこ
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古の書

 会食が始まった。

「この間小耳に挟んだのだが、珍しい書物が出てきたとか」

 客人たちが臥床に横たわるとそんな話題になった。

「アレクサンドレイアの……あの時のどさくさで流出したのではないかな。そういうものが数点あったではないか」

 神君カエサルとプトレマイオス王の戦った、アレクサンドレイア戦役で炎上した図書館のことを語る時、知識人たちは声をひそめる。ギリシア人は憤怒と悲しみのため、それに触れたがらない。ローマ人は「文化を持たぬ野蛮人」が愚かなことをしでかしたとののしられるのを恐れて。

「さきの最高指揮官インペラートルが、ペルガモンの図書館の蔵書を寄贈すると決定したではないか。あの際に、出てきたという説もあるそうだ」

 この最高指揮官はアントニウスのことで、贈った相手が女王クレオパトラである。

 場所が場所だけに、出席者たちの声は小さなものになる。

「何の話をしているのかね」

 王子が尋ねると、プロペルティウスが小声で言った。

「アリストテレスの書が出てきたそうだよ」

「ほう」

「その書を携える者は、世界を支配するだろうと言われているそうだ。書名まで知られていて、『アステリオン』というのだと」

 その書名は、ローマに来る前に聞いたのではなかったか。そう、その書物がローマで発見された、ということだった。

「アリストテレスがアレクサンドロス大王に教えた時の講義録ということだが……。死後に弟子の一人が編集したものであるとか」

 誰もが口にするのもばかばかしげな様子で、その書について語った。

「いい加減な噂でしょう」

 王子も半信半疑な様子で我が師に言った。題だけで内容についてはほとんど知られていないという。

「それを手に入れれば、大王の偉業を継ぎ、世界の覇者になることも可能だと言われているそうです」

「ローマへ来る前に世話になった貴族の屋敷で、同じ噂を聞きましたが」

 我が師も「流言か偽書でしょう」と言い、信じがたいような表情をした。意味は『星の王』で、よく考えると『詩学』だの『形而上学』だの『アテナイ人の国制』だのとどれも明確なアリストテレスの書名らしくはない。

 王子も首肯した。

「……物騒な噂です」

 エジプトで自害したアントニウスの配下は、ほとんどがアウグストゥスに降ったが、未だ最期のはっきりしない者もいる。エジプトにはアントニウスや、女王の財産が残っているとも言われている。

 確かに書物を持っているくらいでは世界征服はできない。だが。アレクサンドロス大王の後継者を自認する王朝の始祖プトレマイオスは、大王の学友であった。共にアリストテレスに師事している。

 冗談だと笑いながらも、誰もが脳裏に一人の少女の名を描く。

 クレオパトラ・セレネ王女。

 プトレマイオス王朝の最後の生存者。彼女には、エジプトを支配する権利がある。彼女の母親が嘗てエジプトを支配したように。


 アウグストゥスの屋敷よりも豪華な食事をふるまわれ、高尚な会話を交わした後、帰宅の途についた。私は灯を借りてユバ王子の前を歩いた。

「なんだか妙な噂でしたね」

 私が言うと、王子も疲れたように言った。

「はっきりしないことが、ああやってどんどん肉付けされて、本当らしくなってゆくのかも知れないね」

 その帰路、私たちはティベリウスに遭遇した。ユバ王子が呼び止めた。

「ティベリウス!」

 振り返ったティベリウスは、王子が近寄るのを警戒するように見ていた。

 美しい少年だった。足の裏にいたるまで、左右の均等がとれていたと言われる。色白で眼が大きく、後ろを長くのばした髪型は、クラウディウス家独特のものだった。当時、既に大人ほどの背丈があり、王子に匹敵するほどだった。

「何をしているんだね」

「噂を調べている。アリストテレスの逸書が出てきたという。『ピナケス』にも載っていない幻の書だそうだ」

 『ピナケス』とはアレクサンドレイアの大図書館の蔵書目録である。

「アレクサンドロスの受けた教えを記した書で『アステリオン』というらしい。それを持つ者がローマに現れたという。貴族階級の間では、結構有名になっているようだ」

 ティベリウスは大儀そうに説明した。神経質で陰気な一面が、人に誤解を与えていた。ユバ王子も口に出しては言わないが苦手だったようだし、アウグストゥスもあまりこの妻の連れ子を気に入っていなかった。私の知るかぎり、まともに笑った顔を見たことがない。愛想笑いすらしない。お互い完璧なギリシア語で会話が出来る王子でさえ、ラテン語で話していてもイライラするのか、ティベリウスとの会話の後に、疲れたように首を捻っていることもある。

「その噂は私も耳にしたが、私もアポロニオス殿もそんな書名は聞いたことはない。それより、時間帯を考えなさい。成人したとは言え、まだ子供なのだから……」

「供を連れないと夜歩きも出来ぬ、腰抜けと一緒にするな」

 無茶を言う御方である。ローマの夜道は侮れない。日中ローマ市内は馬車の通行を禁じられており、日没とともに解禁となる。荷を積んだ車が行き交う中、目的地に到達するのは命懸けである。のみならず暗闇に強盗が潜んでいたり突如頭上から物が落ちてきたりなのだから、わずかの気も抜けない。

「しかし、不審な行動は、あらぬ疑いをかけられるのではないか」

「私がアウグストゥスにたてつく輩に、祭りあげられるとでも思っているのか」

 当然のことながら、アウグストゥスの専制的な政治に抗おうとする者は数多くいる。元老院主導による政治の復活を望む元老院議員の不穏な動きはあちこちで見られた。

 そしてティベリウスはローマでも屈指の名門貴族の末裔だった。その点ではアウグストゥスはティベリウスに到底叶わない。アウグストゥスは騎士階級の出である。神君カエサルの妹の孫で、相続人として遺言で定められてユリウス家の当主となったのである。

 ティベリウスは、微妙な立場にあった。もっともアウグストゥスの後継者候補の中で、真の意味で安定した地位にある者など、いなかったが。

「君にそのつもりはなくとも、君に隙があればつけこまれるのだよ」

 神君カエサルの最期の言葉は、絶望だけでなくこんな微苦笑を含んだものだったのかも知れない。

「……お前もか」

 声音が落ち、怒りをはらんだティベリウスの目が静かに閉じられた。

「誰も彼もが私をそういう目で見る。私が歴史や古典に興味を持てば、貴族趣味だとたたかれる」

 今ではアウグストゥスの後継者候補のティベリウスも、楽な幼年期を送ってきたわけではない。父親がアントニウス派に属していたために、両親とともにネアポリス(ナポリ)、シチリア島、アカイア、スパルタ等、各地を逃げ回った過去を持つ。三つの時ローマに戻り、四つの時に母が離婚して嫁ぎ、九つの時にアウグストゥスの継子となった。

 ティベリウスは父の屋敷にあった時、名門クラウディウス家の嫡男として、英才教育を受けていた。

 多くのローマ人はギリシア人に学ぶ。読み書き算術から始まり、ギリシア語やラテン語の文法、歴史地理、天文学を学ぶ。十五、六で成人してからも家庭教師をつけたりアテナイやロドスなどに留学したりして、修辞学教師から雄弁術を教わる。だがローマの支配階級にあたる人々にはいくら教養があっても、実績がなければ評価されなかったのも事実である。

「……ユバが羨ましい。詩を創り、ギリシア語を喋り、古典を引用しても、アウグストゥスに憎まれぬ」

 ユバ王子が、胸をつかれたような表情をした。少年の渇望を知ったからだ。

「学者やその弟子を連れて遊び歩き、ちょっと高尚な話をすれば、さすがと褒められる。いいご身分だな」

 アウグストゥスも学芸を好んだ。自己の事業録の記述も行い、朗読を好み、詩を創作し、劇を上演させた。演説の前には必ず草稿を作り、リウィアと話す時さえ覚書を見た。決して文学に無理解な人物ではない。

 だが他人にラテン語からギリシア語に訳させ、簡潔な表現を好んだアウグストゥスは、技巧をこらした気取った言い回しや廃語の使用を嫌悪した。文化人の必須ギリシア語を流暢に操り、格調高い表現を好むティベリウスは、小ざかしい貴族趣味にうつったのである。後のことになるが、しばしばティベリウスは名指しでその点を非難されたほどだった。

 ユバ王子には限られた選択肢の中に見いだした生き甲斐だった。だが王子の立場ならアウグストゥスに賛嘆される才能になりえても、ティベリウスには疎まれる一因になった。

「自分の身は自分で守る。私のことは心配するには及ばぬ」

 名門クラウディウス一門は、歴史も長くなれば、排出した人間もさまざまだった。共和国の要人も数多く登場し、執政官や凱旋将軍も数多く送り出した。その反面、窃盗罪や殺人罪を犯した者もいる。有能な者のいたのと同じくらい頭がおかしいのが多いので有名だった。ティベリウスはどちらであったのか、という判断は難しい。私は、双方を受け継いだ人であったと思う。どちらかに傾き過ぎていれば、もっと幸せな人生をおくれたような気がするのだ。



ティベリウスの外見はスエトニウスからです。この一文でティベリウスは美形なんだ~、と想像しました。

スエトニウスのアウグストゥスからの嫌われっぷりの描写がひどくて、あまりにティベリウスが不憫で書きました。

ユバに少年の悩みをもらすシーンのはずですが、何でか八つ当たりになるところがティベリウス。

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