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クレオパトラの娘  作者: かのこ
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エジプトの王女 ヌミディアの王子

  パラティウムに泊まった翌日から、私たちはアウグストゥスの知人の家に滞在させてもらうことになった。当初はそこの主人が知人を招いて酒宴をはったり、その客人が師を食事に招いたりするという日々が続いた。

「やっとあの娘に会えるようだよ」

 アウグストゥスへの謁見の数日後、我が師はアウグストゥスの姉オクタウィアの屋敷への招待を受けた。ローマの高級住宅街、カリナエにある。

「このオクタウィアという方と、クレオパトラ王女とは、どういう関係なんですか」

 招待状を見せてもらった私は尋ねた。

「彼女の義理の母君だよ」

 オクタウィアは二度結婚していて、最初の夫との間にマルクス・クラウディウス・マルケルスという十五歳の男児と、二人の娘がいる。二度目の夫があのマルクス・アントニウスで、二人の娘をもうけていた。

 そして五回結婚したマルクス・アントニウスの連れ子の中で生き残っていたのが、三番目の妻との次男、ユルス・アントニウスと、五度目の妻との娘クレオパトラ・セレネ王女だった。ローマに背いた夫の連れ子まで、実の子と同等に養育されていたというのは、称賛されるべきであろう。

 私たちがカリナエのオクタウィアの館へ到着すると、ユバ王子が先にみえていた。屋敷の者たちとも親しいようで、幼い少女や少年たちに囲まれて、話にこうじている。

「ゾウは賢明な動物なのだよ。自分の国の言葉を理解するんだ」

「そんなの嘘でしょう」

 幼い小アントニアが笑いながら言う。

「それにとても信仰深いと言われている。群れで新月の夜に川におりて行って、身体に水をふりかけて浄めの儀式を行い、月に敬意を表すんだよ」

「本当かしら」

 一緒に来ている王子のお付きの奴隷が苦笑している。私が後で「本当なんですか」と尋ねたら、王子は「どうなんだろう」とおっしゃった。御子様たちの今後が気になる。

 私たちが案内されると、王子はこちらに礼儀正しい挨拶を寄越した。しかし話を聞いている子供たちの中に王女はいない。

「アポロニオス先生」

 すると我が師のそばに、痩せた小さな少女が歩み寄ってきた。恩師との再会を喜ぶというには思いつめたような、複雑そうな表情をしていた。

 彼女の名はクレオパトラ。添え名をセレネという。執政官マルクス・アントニウスを父に、プトレマイオス朝エジプトの女王、クレオパトラ七世を母に持つ。彼女にはプトレマイオス・カエサリオンという、名の通り神君カエサルの子だという噂の兄や、アレクサンドロス・ヘリオスという双子の兄、プトレマイオス・フィラデルフォスという弟もいたが、いずれとも死別している。

 神君カエサルの愛人となり、マルクス・アントニウスの妻となったエジプトの女王は、美貌ではなく、深い教養と伝統ある王朝の威厳で知られた女性である。強烈な個性と東洋的な魅力でローマの男たちを籠絡した女王の娘にしては、セレネ王女は意外に平凡な少女に見えた。

 王女はギリシア女性に多く見られる、目鼻だちのはっきりとしたきつい顔つきをしている。エジプトの王女と言っても数百年も前から、かの地の王はエジプト人ではなくなっていた。エジプト原住民の血も混じっているという噂もあるが、プトレマイオス王家はアレクサンドロス大王の武将を開祖としているから、マケドニア人、ギリシア系と考えてよい。だから王女はギリシア人とローマ人の混血なのである。暗い茶色の巻き毛と、白い肌をしている。他の娘たちと変わらぬ、普通のローマ女性のトゥニカ姿だった。

 話し相手を見るのに、とてもきつい目つきをする、というのが私の第一印象だった。

「元気そうだね。セレネ」

 我が師はわかっている、というようにうなずいた。それきり王女は我が師に、小さな声で「はい」とか「ええ」とか答えていた。

 それらを見守るようにして、座を連ねている女性がいる。四十を過ぎていたが、ローマの人々がその美貌と貞淑を讃えた貴婦人は、その頃でさえ充分に美しかった。

 ユバ王子もふとした時にオクタウィアを探しては、姿をみとめて安堵するといったさまが見られた。王子にとって彼女は家庭の象徴であり、母を具現する存在であった。確かにあたたかな家庭がそこにはあった。

「お主、見る方向が違うだろ」

 王女の異母兄ユルス・アントニウスが、その様子を見て笑った。陽気な少年である。

「一応、うちには年頃の娘もいるんだよ」

 温和なマルケルスも微笑して言う。アウグストゥスに似た線の細い、王女の義理の兄である。

 王子は覚悟を決めた表情で、我が師のそばにいた彼女に合図をした。王子が軽く左手を挙げると、彼女は女奴隷を連れて中庭に続く出口へと歩き出した。私は出口付近にいて退屈していたので、なんとはなしにそちらに耳を傾けていた。見送られた二人の足取りは、重いものだった。


 ユバ王子とクレオパトラ王女は婚約していた。ちょうど十歳の年齢差がある。オクタウィアが諸王や王子の中から義理の娘の婿を選び、アウグストゥスも承認した。学識に優れた点を高く評価されたもので、その事についてだけは、王子は光栄に思っていた。

「こうして会ったところで、あなたと話すことはとくにございませんけど」

 中庭の植え込みの近くに置かれたベンチに座って、クレオパトラ・セレネ王女がそっけない言葉を述べた。二人の疎遠さを強調するように王子の方は立ったままである。

 二人には話題がなかった。

 それでも王女は婚約指輪を常に薬指にしているし、婚約者に見せるつもりであるのか、品のよい首飾りや腕輪、結んだ髪にひきたつ耳飾りなどをしていた。

 後で私がそう指摘すると「単に着飾るのが好きなだけかも知れないよ」と王子は言うのだが。

「元気そうでなりよりだ」

 ぼそぼそと王子は言った。こちら方に聞くなら聞けと言わんばかりの無防備さで、出入口近くの私には筒抜けに聞こえてきた。

「少し具合が悪いんですけれど、オクタウィア様が出席なさいとおっしゃるものですから。アポロニオスには会いたいとは思いましたし、ユバ様にも立場がおありでしょうから」

 王子は何と答えるか考えるはめになった。だったら部屋に帰っていいと言ってしまって良いものか。二つの言葉で迷い、一つを口にした。

「ありがとう」

「何故ですの」

「辛い身体で出てきてくれたのだろうが、それでもそなたの姿を見られて良かった」

 ユバ王子は卑屈に謝るよりは、寛大に礼を述べることを選んだ。

 セレネ王女はつまらなそうな表情はしていたが、不自然に顔をそむけるのをやめた。

「それと先日、そなたが織ったという布を頂いたよ」

「別にあなたのために織ったわけではありませんのに」

 アウグストゥスの家の女たちは、男のために布を織る。アウグストゥスも妻や姉、娘の仕立てた服を元老院に着てゆく。王女がオクタウィアの指導のもとで糸を紡いだり、機織りをするのも自然ななりゆきだったが、プトレマイオス王家の姫君としては不本意であったろう。更に、無断で仕上げたものを婚約者に贈られたとあれば、屈辱に感じても仕方あるまい。

「それでも嬉しかったものだから」

 男は善意から嘘をつく。しかし女は変に勘がよい。十三の子供であってもだ。王女はやはり興味なさげな顔をして、「それはようございました」と言った。


 アウグストゥスはローマ市民の結婚を奨励した。ユバ王子もクレオパトラ・セレネ王女も、結婚をするのに支障のない年齢だったが、当人たちは極力その話題に触れないようにして過ごしていた。

 王子は物心もつかないうちにローマに来てローマ式の教育を受けたが、王女は三年前まであの偉大なエジプトの王女であったのだ。本来なら兄弟とでも結婚して、エジプトの女王になるはずだった彼女が、王族とは名ばかりの遊牧民あがりの男の妻になる。没落と見なしても仕方がない。

 ましてやユバ王子は博識である反面、少しばかりの変人ぶりで知られていたから、若い娘が毛嫌いしても責めることは出来まい。

「おーいユバ。サイコロ遊びをしないか?」

 葡萄酒に酔った様子のユルス・アントニウスが、マルケルスと連れ立ち、肩を組んでやって来た。王女や異父兄のユルスと、マルケルスとは連れ子同士にあたる。全く血の繋がりはない。

「ちょっと相手をしてやれば、ユルスも満足すると思うから」

 マルケルスが言う。二人は気まずい思いをしているだろうと頃合いを見計らって来たのだ。

「せっかくのところをすまんな」

 ユルスが言うのに、婚約者たちは無言で応じた。ユバ王子はそのまま王女に背を向けて中庭から立ち去った。



最初からクレオパトラ・セレネを書こうと思ってました。調べるうちに、設定に酔いそうになりました。

ティベリウスでもユルスでもユバでもユリアでも、主人公に出来そうです。

でも実質、ユバが主人公な気もします。

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