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クレオパトラの娘  作者: かのこ
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ローマの平和

 事情の説明を終えると、アウグストゥスの御前には王子だけが残された。それから、一度部屋を出ていた王女が呼ばれた。ユリアの部屋で、困惑が次第に歓喜へと変わりつつあるユリアと話し込んでいたに違いない。心なしか疲れているように見えた。

 王女は入室すると無言で王子の隣に立った。

 アウグストゥスは二人を見つめた。それも僅かの間のことで、直立不動の王子とそっぽを向いた王女に向かって言った。

「ユバ。お前には旧マウリタニア王国の領地を任せることにした」

 この北アフリカの広大な領土はローマの穀倉地帯と呼ばれる重要な土地であった。後継者のなくなっていたマウリタニアを与えられた王子は、感激より先に当惑した。言葉につまり、だが恭しく礼を述べた。

 古来、かの地は内紛と反乱の絶えない難しい地域である。北アフリカの原住民は独自の文化を形成しており、王子もギリシア人がノマデス(遊牧民)と呼んだ部族の出身である。

 同じ部族から出た二つの王国、ヌミディア(ノマデスのラテン語形がヌミダエでこれから派生した名詞)とマウリタニア(マウリー族の名に由来)は、先代の王まではローマとの友好関係という名の支配関係にあったが、現在では両王家とも滅び、ローマの直接の支配下にある。

 しかしローマの支配は定着した農耕民にしか及んでいない。王子の与えられた王国の版図には同じ部族でも都市化している集団もあれば、辺境で遊牧している集団もあり、服従を拒む勢力も多く存在した。中でもガエトゥリー人という内陸部の部族はしばしば反乱を繰り返した。ヌミディア王の遺子のユバ王子とて、影響力は限られる。安楽な統治を約束されたものではなかった。

 王子はローマの保護のもと王位につく。王子の統治する国は、食糧の供給源としてだけではなく、ローマの南の砦としての役割を果たすことになる。「ローマの平和」のために。

「クレオパトラのことは、ユバに任せた」

 アウグストゥスが言うと、そこではじめて王女は顔をあげた。

「もうこの娘は、私の管理下にはない」

 無言でアウグストゥスを見つめた王女の表情の、あのせつなさ。

 王子はそれを見なかった。見ずとも知っていた。三年前から、少女のアウグストゥスを見る眼差しに気づいていた。

 アレクサンドレイアで兄弟たちと共に兵士に捕らえられた時に、王女は初めてアウグストゥスを見た。父母は死に、自分たちの死も覚悟していた。現れたアウグストゥスは幼子を見て自分の娘を思い出し、微笑んだ。

 自分たちを捨てた親の代わりに、彼らに歩み寄り、抱きしめてくれた大人だった。生きることを許し、生きていることを喜んでくれたローマ人だった。

 それが、王女の父母や兄たちの仇であったのだ。

 プトレマイオス王家の生き残りとして、決して好いても、心を許してもならない人間だった。それを誰より理解していたのは王女だった。

「私は……」

 王女が呟く。

「私もローマ市民の娘なのに……このローマに、おいては下さらないのですか……?」

 アウグストゥスは少女の想いも知らずに微笑し、かぶりを振り、その馬の眼のような灰色の瞳で、二人を見つめた。

「私がお前たちに何を期待しているか、わかっているな」

 ユバ王子は、はいと答えた。

「私たちのできる、唯一の御恩返しでありますから」


 ユルスやマルケルスが先に帰宅したというので、ユバ王子は王女に同行を申し出た。極めて珍しいことに。王女も拒絶しなかった。お付きの奴隷たちと共に、夜明けのフォルムへ降りる。

「マウリタニアか……」

 やはり薄暗いが、そろそろあちこちで鳥の鳴きはじめたまちを歩きながら、一人で王子が話しだした。眠っていないのと緊張がとけたせいで、妙に陽気に思える。

「秋にはアウグストゥスのガリア遠征に従うつもりだったのだが……。私の預かることになる国の周辺の制圧や都市建設が優先になるだろうな」

 北アフリカの地には、ローマに従わぬ部族はまだ多く存在する。無論ローマの力を借りてだが、国土としての整備が済んだら、ユバ王子は王位を宣言することになる。

「新しく宮殿を建てることになるだろうから、建築家を連れてゆこう。王宮が出来たら、広場を造ろう。ステファノス。君はどうする? アレクサンドレイアに戻るか。ローマでいい先生を紹介してもいい。ローマでなくたってロドスやアテナイでもいいが。私と来るかね?」

「はい」

 私は答えていた。

 完成された黄金の都アレクサンドレイアも、まだまだ建設中の世界の縮図ローマも素晴らしい。だが私はまだ見ぬマウリタニア、設計図さえ引かれていないマウリタニアが見たかった。若き国王は、どんな都市を造るのだろう。

 女性用のマントに身体を包み、傷心の少女は黙ってうつむきながら聞いていた。王女は共同統治者となるはずだが、十三歳の少女にすぎない。新しい王国の建設は、ユバ王子に委ねられる。

「そうだ。即位が決まって国に赴く前に、アウグストゥスにエジプト訪問の許可を頂いて、アレクサンドレイアに寄って行こうか」

 エジプトは、アウグストゥスがファラオ、神の化身として支配し、プトレマイオス王朝時代同様、ギリシア人の官僚によって管理されていた。アウグストゥスの許可無くしては元老院議員は入国してはならないことになっている。王子たちも無断でというわけにもゆかない。

 王女の表情が一瞬、涙ぐむような微妙なものになった。それが故郷懐かしさ故なのか、王子の気遣いに対してなのかは謎であるが。

「アレクサンドレイアの街並み、ファロスの灯台。今度はナイルを船でくだろう。かわった植物や動物も見られるかも知れない」

 王子は大事なことを、マウリタニアの国土の平定が済んだら婚儀となる。迎えに来るから待っていなさい、と言い忘れているのだが、王女は健気にそれを許した。

「どうかご無事で」

 そして、いつもの社交辞令ではない証拠に、付け足した。

「あなたがもし困ったら、私はオクタウィア様のように、軍隊を連れて助けに参ります」

 王子はわざとはしゃいでみせていたが、やっと王女が笑ったので、ほっとため息をついた。考えてみると、それは涙まじりではあるが私の初めて見る、王女の笑顔だった。

「それは頼もしい」

  カリナエの邸宅ではもう夜より朝に近いというのに、小アントニアまでが必死で起きていた。

「あ。クレオパトラ、帰ってきたあ!」

 玄関先で座り込んでいた小アントニアの眠たげな眼が、大きく見開かれた。

「エジプトに行っちゃったんじゃないかって、みんな心配してたのよ!」

 歩み寄ってきた大アントニアは最初は怒りながら、しまいには泣きながら言った。

 王女が家族に内緒で抜け出し、ユルスはすぐに飛び出し、マルケルスもろくに妹たちに話さずに出て行ったおかげで、さまざまな憶測が流れていた。

「なんであなたってそんなに勝手なの? なんでそんなに好きに行動できるのよ? 誰もあなたのことなんか気にしていなくて、あなた一人がいなくなったって平気だと思ってるんでしょう!?」

 日頃は物静かな令嬢が、激怒している。小アントニアが驚いて尋ねる。

「お姉ちゃん、なんで泣いてるの?」

「腹が立つのよ。クレオパトラって、いつもどこか心ここにあらずで、誰ともうちとけないんだから! 来た時からずっとそうよ。ここが居場所じゃないみたい。平気で黙って出ていっちゃいそう!」

 確かに王女はいずれはどこかへ行ってしまう人ではあった。王女がアントニア姉妹たちとローマで過ごした月日は、五年ほどに過ぎなかったのである。

「私、あなたの立場じゃないからわからないけど、そんなに私たちのこと嫌い!? お母様のことそんなに許せないの!? だったらお母様は、どうしたらいいのよ!?  あなたのことを冷たく扱えば満足するの?」

 大アントニアの言葉に、王女は戸惑った。

 オクタウィアに会うのを、王女は恐れていた。女主人の侍女に部屋に来るように言いつけられると、しばらくためらった表情をしていた。

「私も行こうか? まあ全部というわけにはいかないが、きちんと説明して、一緒にお詫びすればわかって下さるだろう」

 セレネ王女に王子が言うと、王女は首を振った。先にユルスたちが報告しているから、オクタウィアは事情の説明を必要としているわけではない。

「それより……手当てをしていらして」

 止血はしたが、アウグストゥスの前ではトガを纏うことで背中や右手の傷を隠していた。王女は痛ましげに王子を見つめ、自分の侍女に案内を言いつけた。

「どしたの……?」

 アントニアたちが王女のあまりの変わりように驚いて尋ねた。

「ちょっとね」

 王子は幼女たちの前で努めて無表情を装った。思わず微笑んでしまうのを堪えたのだ。

「王子と仲良しになったのね? ね。やっぱり面白くていい人でしょ?」

 嬉しそうに小アントニアが言う。

「あの……もしかしてユバ王子となにかあったの? 相談ならのるけど……」

 大アントニアが真顔で尋ねる。小アントニアより年長のアントニアは、いろんな想像をしたようだ。王女は怪訝そうな顔をする。

「あなたユバ王子に喧嘩売りに行ったはずみで、王子もやっぱり男の人だし……もしかして結婚までしちゃいけないようなことをしてしまったとか……」

 それでオクタウィアに詫びに来たとでも思ったらしい。我がことのように蒼白になっている。

「なんにもないわよ」

 少し怒ったように王女は答えた。

「じゃあ、王子に何を話しに行ったの?」

「……とにかく何もないの」

 きょとんとする王子を後に、王女は決心した面持ちで歩きだした。



本当に最後になって「クレオパトラってほとんど笑っていない……」と思いました。


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