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クレオパトラの娘  作者: かのこ
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事実と真実

「ともあれ、皆が無事でなりよりだ」

 パラティウムのユリウス邸に到着すると、休む間もなくユバ王子、マルケルス、ティベリウス、ユルス・アントニウス、ユリア、クレオパトラ王女が、アウグストゥスの御前に並んだ。

 一応子供たちが姿を現した安堵もあるのか、居間で待っていたアウグストゥスの表情は穏やかだった。 「さて。最初から説明してもらえるか?」

「私が」

 王子が年長であることもあって申し出た。

「エフェソスのアポロニオスの殺害の件は?」

 王子は慎重に話しはじめた。

「アポロニオス殿がアレクサンドレイアから、希少本を持参していたという噂があったようです。それを狙われて殺されたのではないかと見ております」

「それは命を狙われるほどの価値のあるものなのか?」

 王子は「金銭的価値に換算すればかなりの高額になると思います」と答えた。

「『アステリオン』という、アリストテレスの逸書と言われているものです。内容はアレクサンドロス大王に授けた教えをまとめたもので、甥のカリステネスや弟子たちが、アリストテレスの死後に書いたとも言われているそうです。噂ばかりが先行して実物を見たものはないのですが。アリストテレスはペルガモンのアソスに滞在していたことがありますし、彼の蔵書がペルガモンにあるという説はいくつかあります。マルクス・アントニウスがペルガモンの蔵書をアレクサンドレイアに寄贈した折りに、出てきたものではないかと思われます。図書館司書だったアポロニオス殿が、それを入手した……という噂であったようなのです」

 アウグストゥスは、弟子だった私を見た。

「お前はその書について知っていたのか?」

「……いいえ。存じませんでした」

 私は何も言うなと言われていた。王子は内心、でっちあげを楽しんでいるに違いない。何通りも逃げ道をこしらえていたのだろうが、アウグストゥスはあっさりと聞き流した。

「いえ。持っていなかったでしょう。偽書である可能性の方が高く、彼も公にはしなかったのだと思います。しかし立場上内容を知っていたことから、それを持っていると見なされて、狙われたのではないかと思います。金銭のたぐいも特に盗まれていないことから、恨みによる犯行かとも思われましたが、もともと『アステリオン』狙いだったのでしょう」

 不思議な気分だった。カエサリオンの話では、『アステリオン』はアリストテレスの書ではなく、王家の財宝の在り処を記した文書の名だった。私たちは一度も実物を見たことがないのに、王子の適当に言うことの方が事実になってゆくのだ。

「クレオパトラの件は?」

「同じ犯人が誘拐したと思われます。彼女は今日、帰宅後に考え直してもう一度、私のところへ会いに来ようとしたそうです。家を出たところで見知らぬ男たちに囲まれて誘拐されたということですから、アポロニオス殿がローマに来てから何度か会っている彼女に託したのではと勘違いしたのでしょう。彼女の王家が所有すべきものでしたから」

 実は後で聞いたのだが、王女はアンテュルスやカエサリオンと話をつけるために、自分から会いに行ったのだ。彼らを説得し、ローマを離れさせるために。だが、どこかに死の覚悟を抱いて。

 だからカエサル庭園の別荘を指定された王女は出て行った。その時点でユルスは見抜いていた。カエサリオンのもとに行ったのだと。

「幸いなことに、宿場を中心にして不審人物を捜し出したところ、犯人の一味の者を捕らえることができ、さらに本拠地を特定できましたので、無事に救助することが出来ました。早急に手配していただいた、アウグストゥスのお蔭です」

 王子は若君たちを振り返らなかった。

 カエサリオンの逃亡を伝えた時、王子が「あれはカエサリオンではなかった」と言うと、ティベリウスは「当然だ」と答えた。「エジプトで死んだのだ。何を今更確認することがある」

「そうだね。カエサルが多すぎるのはよくないし」

 マルケルスは、同じ言葉にこう答えた。

「元老院はアントニウス家の男に、〈マルクス〉の名を禁じた。マルクス・アントニウス・アンテュルスなんて、存在しない」

 そして王女の肩に触れると「おかえり」と呟いた。何事もなかったかのように。

「殺人及び誘拐の主犯の一人はユルスが捕らえ、抵抗したのでやむなく殺しました。クレオパトラは犯人が本拠地としていたカエサル庭園で見つかり、犯人一味も捕らえました」

 アウグストゥスの被護人がアッピウス街道で待ち構え、カエサリオンの手下の生き残りを捕らえたが、「カエサリオンを名乗る者の仲間」として処理した。それでも大部分は逃亡している。

「いささか気になるのが、アポロニオス殿を殺害し、クレオパトラを誘拐した者が、死んだプトレマイオス……彼女の異父兄にあたる男の名を名乗っていたことです」

 王子は慎重に、だがさらりと述べた。報告したくはなくとも、まったく触れずに済ませるわけにはいかない。

 しかしいくら彼らがカエサリオンの名を持ち出したところで、偽称でしかない。首謀者は逃げ、他の誰でもない、実物を知っているクレオパトラ王女が、偽物だと証言している。

「カエサリオンの名は、アレクサンドレイアの者がかたるのに都合良い名なのでしょう。悪質な事件と言えそうです」

 反アウグストゥスの動きが元老院議員の中にあるのは気になるが、今回は不問にするしかない。クラウディアから無理やりに聞き出してアウグストゥスに告げようにも、カエサリオンのことに行き着くから、自分たちの首を絞めることになる。

「少し大掛かりではないか。それに書物一冊が殺人の動機になりうるのか? それがどんなに希少で高価だったとしてもだ」

 アウグストゥスはユバ王子に尋ねた。

「ご不満ですか?」

 ここできっぱり肯定すればいいものを、王子は妙な返事をした。アウグストゥスはそれを、興味深そうな表情で見た。長年のつきあいで、王子の不自然な言い方に何かあると感じ取ったようだ。少なくとも私には、そう思えた。そして同様の疑惑の目をマルケルスにも向けたが、この甥は微笑んでみせた。

 話題を転じるためか、ユルスがぼやく。

「無事だったからいいようなものを、ユリアが来るとは思わなかったぞ」

 当然のようにユリアは受けてたった。

「だってクレオパトラが心配だったんだもの」

「お主が出てくるだけでこっちは混乱するんだ! そんなの理由になるか!」

 二人の傍らでティベリウスがしみじみとうなずいている。

「あたしの方が、あんたたちよりクレオパトラの気持ち、わかるんだから! みんなクレオパトラを責めるけど、すごく不安なのよ!?」

「ユリア。君は部屋に戻っていなさい」

 王子たちはプトレマイオス・カエサリオンについては他言しないと話をつけてあった。ユリアも混乱すれば、何を口走るかわからない。王子が言うとユリアは素直にうなずいた。

「先ほどの話が気に入らなかったのか?」

 ふいにアウグストゥスが尋ねた。王子や若君たちは、アウグストゥスを怪訝そうに眺めた。

「だって、勝手に決めるんだもの!」

 ユリアが握り拳を振り回して叫んだ。

「なんで決めちゃうの!? どうしてあたしになんの相談もなく、大人同士で約束しちゃうの!?」

 王女がはっとしてユリアを見つめた。

「……結婚?」

 当時ユリアは十二歳、結婚も可能な年齢である。第一人者の娘として厳しい躾けを受け、稽古事を幾つも抱え、良き花嫁となるべく準備は整えつつあった。だが、まだまだ幼い少女であったのだ。

「ユリア」

 マルケルスが、王女に付き添われて退室するユリアに呼びかけた。

「もしかして、君、嫌なの?」

 次の瞬間、ユルスとティベリウスが顔を強張らせた。二人ともがまずマルケルスを見やり、そのままアウグストゥスに視線を動かした。

 振り返ったユリアはマルケルスを涙目で見上げて尋ねた。

「あなたは嬉しいの?」

「もちろん」

「あたしがアウグストゥスの娘で、アウグストゥスに認められたから嬉しいんでしょ?」

「うん。それもあるね。アウグストゥスに結婚相手を決めて頂けるのも嬉しいし、それが愛娘なんだから。光栄だよ」

 マルケルスは三つ年下の従妹に向かって微笑んだ。

「勝手に決められて、嫌じゃないの?」

 王女の探索も目的の一つだったろうが、ユリアはマルケルスとの結婚の話を聞いて逆上して飛び出したようなものだった。

 ユリアの不満そうな口調に、マルケルスは納得いかないような顔をした。

「勝手にって言っても、母上や叔父上が決めたことだよ?」

「だって気色悪いわ! お父様もオクタウィア様も、そういう風にずっとあたしたちのことを見ていたの!? 勝手に想像して、あたしとあなたが結婚して……そういう風に、見てたの……?」

 ユリアの戸惑いは、少女らしい潔癖さからきている。さんざんませた口をきいていても、いざ自分のことになると、とたんに臆病になってしまう。王女が唯一の味方であるように抱きついて、顔をそむけてしまった。

「ねえ。何か不満でもあるの?」

 常に穏やかで人のよいマルケルスが、しだいに不服そうな顔つきになってゆく。ユリアの苛立ちや不安が理解できず、自分が気に入らないと言われていると思ったのだ。

「そりゃあ僕はまだ十五だから頼りなく思うんだろうけど。知らない相手じゃないだろう。相手は君じゃないか」

 ユリアは顔をあげると、不思議そうな顔をしてマルケルスを見た。

「君は嫌なんだね」

 ユリアはそこではじめてマルケルスが困惑していることに気づいた。もっと周囲を見渡せば、アウグストゥスを除く誰もが困惑していたのだが……

「う、ううん」

 さすがのユリアもいけない、と思ったようである。ぎこちなく首を振り、気押されたように静かになった。

「マルケルス。いいのか……?」

 すっかり怯えたティベリウスが言いかけるのを、ユルスがいいから黙っておけと制止した。アウグストゥスが苦笑したように見えたのは、気のせいだろうか。

「なんだ。喜ぶと思ってた。少しショックだったな」

 これまでユリアはマルケルスに対しては特に不満も思い入れもなかったらしい。憮然とするマルケルスに、ユリアは慌てて叫んだ。

「あたしも嬉しいわ! ホントよ! ホントなんだから!」

 ユバ王子もやはり驚いていたが、マルケルス本人が、結婚を負担とも義務とも感じていないことに安堵していた。マルケルスに駆け寄るユリアを眺める視線の先に、クレオパトラ王女がいた。偶然、王女と眼があった。



書いた当時、本当にユバの口上はまだ続いたので削りました。(今は思い出せません)

ローマ人は通常子供に自分の名や父親(子からすると祖父)の名をつけるそうですが、あまりの悪行に元老院はアントニウス家の男子に、マルクスという名前をつけることを禁じました。(プルタルコス英雄伝のキケロ49)

「マルクスの名をもたぬように」というのは具体的には、生き残った少年ユルス・アントニウスに対しての強制的な命令で、お前が結婚して子供が生まれてもその名をつけるなと、いうことです。

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