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クレオパトラの娘  作者: かのこ
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反アウグストゥス

 ユルスはその屋敷に私たちを案内した。一見貴族の邸宅ともとれる贅沢な屋敷だが、現れた主人は明らかに人妻だった。それはいい。問題は彼女の貫禄と、ユルスへのなれなれしさである。

「……ここは?」

 女主人は複雑に髪を編んで優雅に結い上げ、贅沢な黄金の首飾りや耳飾りをしている。身にまとったバラ色の長衣は光沢のある絹でできており、しなやかな肢体を浮き彫りにするものだ。華やかに着飾った女主人は、ユルスを見て破顔した。

「ユルス!」

 年齢を推測するに、二十も半ばといったところか。彼女はユルス・アントニウスの腕に抱きつくようにしてすり寄った。

「来る気はなかったが、事情が変わった。会ってやる」

 王子は女とユルスの関係を深読みしたものか、はかりかねている。

「名はクラウディア。俺の異父姉だ」

 ユルスはそっけない説明をした。

「まあユルスったら、なんて無愛想な子なの」

 マルクス・アントニウスの三番目の妻、フルウィアの連れ子にあたる女性である。父は神君カエサルと因縁のあるクローディウス。少々イカれた説話の持ち主である。そう、カエサルの妻との逢引に、女装をしたというあの男だ。

 ユバ王子は即座に彼女の素性を思い出した。

「……ではアウグストゥスの……」

「法的には、最初の妻だった女だ。まあ既成事実はなかったけどな」

 アントニウスは当時のアウグストゥスとの和解のために、フルウィアの娘を利用したのだ。だが当時は彼女が結婚するには不適切な幼女であったために、結局アウグストゥスは婚姻を無効にすることが出来たのである。

「アウグストゥスとの離婚後、適当な男と再婚したんだが」

 彼女が自分の姉であるという事実を否定せんばかりの態度だった。異母妹たちに見せる思いやりは微塵もない。

「甲斐性のない男で、こいつから逃れるために地方の荘園で暮らしていて別居状態だ。しかもこいつの愛人たちが、ろくでもない奴らでな」

 ユルスはもう少し肉付きが良くなれば、更に父親に似てくると言われて嫌そうな顔をしているのだが、このクラウディアは母親似なのだろう。気圧されるような勇ましさに、夫のためにアウグストゥスに挑み、死んだキケロの舌をピンで刺して嘲笑したという、彼女の母親の豪快なイメージがだぶった。

「呼ばれて、貴族たちが集まって親父の昔の話をしているのを聞いているうちに、だんだんやばい気がしてきて、来るのをやめていたんだが……」

 アンテュルスに指定されたのがこの屋敷だった。アントニウスの息子が、ローマで父親と関係の深い人間と会ったり呼び出したりするのに、都合のよい場所だったのだ。

「もしかしてあなた、ユバ王子でいらっしゃる?」

 ユルスが王子に説明する様子で、クラウディアは気づいた。

「お名前は存じあげておりますわ。我が家に来る方たちの間でも、よくクレオパトラ王女の話も出ますの」

「エジプトの王女を蛮人に嫁がせるとは何たることか、という話題ではないか」

 王子は笑った。返事に興味はないかのように、奥の部屋に行くユルスに続いた。

 ユルスは臥床にどっかり座ると、黙り込んだ。代わりに王子が女に尋ねた。

「アンテュルスの件について聞きたい」

 クラウディアはユルスの顔をうかがったが、ユルスは返事をしなかった。そこで仕方がないわねえ、といった様子でぽつぽつと返事をした。

「こちらへ代理の者が来たり、ここで会うこともございますわね。今夜、一席設けるようにとの指示がありましたの。ユルスが来たら、この部屋に通すようにと」

「まだアンテュルスは来ていないのか。或いは既に別の部屋にいるのか」

 王子の口調は悪事に加担する輩に対するもので、不信感に満ちていたから、クラウディアは気分を害していた。だが王子に自覚はない。

「その知人たちはユルスをアンテュルスに会わせて、どうするつもりなんだね。そもそもどういう輩なのだ」

 クラウディアは曖昧な返事した。

「その方々の名を挙げれば私の信用を失いますので、ご容赦下さいませ」

 つまり、アウグストゥスに不満を持つ者を庇うと言うのだ。ユバ王子の苛立った表情に、彼女は不敵な笑みを返した。

「ただ、あまり今のご時世を快くは思っていない名門の方々、とだけは申し上げておきますわ」

 だからユルスはそうした人々との距離を置いてきたのだ。王子は眉をひそめた。アウグストゥスへの反逆が企てられ、ユルスやクレオパトラ王女がその駒として使われようとしている。由々しき事態である。

「……何故そんな者に力を貸す?」

 王子がクラウディアを問いつめる。

「大それたことをするつもりはなくってよ。私は、ただユルスに兄と再会をさせてあげたいだけ。血を分かつ兄弟であることには変わらない。そのくらいはおわかりでしょうに」

「ユルスの立場がわからぬわけではなかろう。父親の仲間と内密に会っていたという事実だけで、罪になるかも知れぬのだぞ」

「アントニウス将軍のご子息、しかもユルスの実兄が生きてらしたのよ。会わせてあげたいと思うのが人情でございませんこと? ユルスとて、世が世なら、こんな境遇に甘んじることはなかったはずですわ」

 クラウディアがユルスを抱きしめたが、ユルスはどうでもよさげにそっぽを向いた。得体の知れない輩など無視するつもりであったのに、こんな形で応じることになったのが、不愉快でならないのだ。

「……どうしておとなしくしていてくれないんだ……」

 やりきれなさを帯びた口調には、やはりユルスは異父姉に対してもある種の責任感を抱いていて、非情に縁を切れないでいる苦悩が見てとれた。

「お前のせいでクレオパトラやアントニアたちが不幸になったら、絶対許さないからな。恨んでやる」

「なんてこと言うのよ。私だって大切な弟の幸せを考えてるのよ?」

 豪華な部屋の壁は、窓から見た風景のだまし絵になっている。その風景の中には遥かなる海が描かれていて、栄ある港を持つアレクサンドレイアのことが思い出された。彼らの家庭の事情には口出しも出来ず、それに目をやっていると、突然横合いから声が聞こえた。悲鳴をあげかけたほど、驚いた。

「ユ……ユリア?」

 ユルスが絶句気味に呟き、天を仰いだ。

「一体どうしてこんな場所に……だいたい、自分の立場をわかっているのか? ローマの第一人者の娘だぞ」

 ユリアの種明かしでは、ユルスの奴隷を金銭で懐柔して、この場所を知らせるように言いつけてあったのだという。

「そのご令嬢に小うるさいこと言ってる不届き者は誰よ。お小言ならリウィア様だけでたくさん。どうせオクタウィア様のとこのお嬢様たちはおしとやかで、お嫁の貰い手なんかいくらでもあるでしょうよ」

「当たり前だ、お主と一緒にするな」

 即座にユルスが言い返したので、ユリアに殴られた。

「見てなさい。あたしは、女がこーんな窮屈な思いをしなくてすむような時代にしてみせるんだから」

 少女の乱入にもクラウディアは微笑みながら対処し、侍女に言いつけて飲み物を出させた。

「帰りなさい」

 ユバ王子の声はかたい。王子が声を荒らげても、恐ろしくなどないのだが。

「クレオパトラが危ないのよ。こんな時にじっとしてろと言うの」

「私の婚約者を気づかってくれるのはありがたいが、君がいたところで……」

「何よその言い方。こういう時だけ婚約者づらなんかしないでよ」

「婚約者ということは、事実なんだから仕方ないだろう」

 仕方がない。それがユバ王子の本心なのである。

「ふーん。じゃあ聞くけど。その婚約者が、新しい髪形をしても着飾ってても気づきもしない、てのはいいわよ」

「そういう男ってのはいるのよ。うちの亭主みたい」

 事態はそれどころではないのに、ユリアの話は脱線し、クラウディアは可笑しそうに元夫の娘の威勢のいい様を眺めている。もしかしたら、彼女も「ユリア」という名の女児を産んでいたかも知れないのだ。

「でもあんたに貰った腕輪をしてたって、何も言わないってのは、どういうこと?」

「ユリア。そういうことは後で聞くから」

「骨董おたくなんだから。贈る相手に思い入れはなくても、品物には思い入れはあるわよねえ……。……ねえ。気づいたんなら、言いなさいよ。嬉しいとか似合うとか、言うのが嫌なんだってことは、あの子だってわかっているわよ。それでも綺麗な自分を見て欲しいって思うのが女の子なんだから!!」

「お主に全女性を総括されたくはないがな」

 ユルスが憮然として言った。王子は居心地悪そうに、腕を組んだ指先で自分の二の腕を叩く。

「織った布のことだってそうよ。知ってたらもっとそういう気持ちで織ったのに。オクタウィア伯母様も勝手な方!!」

「いい加減にしてくれないか」

 王子が言うと、ユリアは更に怒った。

「あんた、最初からあの子のこと尊重する気なんてないじゃないの!! 神君カエサルやアントニウス将軍が女王に手玉にとられたみたいに、一応知性派を自認する自分が、魔性の娘に夢中になるのが、怖いんじゃないの?」

「それはない」

 王子は即答した。

「いちいちあげつらうのも大人げないから省くが。彼女だってそうだろう。私はバルバロイなのだから」

「あの子が嫌いなのはあんたのそのうっとおしい性格であって、血筋のことを問題にしたことなんてないわ!! 自分の性格悪いこと棚にあげて、いじけてるんじゃないわよ!!」

 王子は確かに血にある種の劣等感を抱いていた。ローマに敵対した蛮族の王として、記憶にもない父親を疎ましく思っていたし、ヌミディアの王族として遇されている自分と、売り買いされるヌミディア人の奴隷との境遇の差に、嫌悪感のようなものも感じていた。

 人が王子を讃えるのは、教化された結果、文化を持たない野蛮人がローマ人にも優る学識を身につけたからであり、それがローマの懐の深さを示す証拠だからである。

 時としてそんな自分の境遇を厭わしく感じることもあったろう。アウグストゥスの慈悲に感謝しようともしないクレオパトラ王女に、王子は己の本当の姿を見るような思いがして嫌悪を感じ、好意的でない態度で接してしまう。

「ねえユリア様。ものには言い方があるというでしょう? そんな言い方では、ユバ王子を傷つけているだけですわよ」

 クラウディアがのんびりとした口調で言った。

「ユバ王子。ユリア様は、王子が御出自を恥じる必要はないと仰っているのですわ。生まれの良い貴族にも知識人と呼ばれる方にも、くだらぬ男はおります。あなた様は彼らになんら劣ることのない名誉を、自分の力で手に入れたのですから」

 クラウディアは合図を送って控えていた女たちにキタラを弾かせた。ユルスはにやにや笑っていただけだった。

「……とにかくおとなしくしてなさい」



本にした時との大きな違いは、今回の箇所です。元は架空のヘタイラ(遊女)のキャラが登場したのですが、この場面は書き直しました。(と言ってもセリフはほぼそのまま)

後になって「ああユルスの姉にすれば良かったんだ」と気づいて後悔していました。そういうわけで改訂版です。

離婚はしても、アウグストゥスはちゃんと彼女を再婚させたのではないかなと思います。本当はウェスタの巫女にでもしようかと思ったこともあったのですが年齢的に遅すぎるそうです。

ユルスから見てアウグストゥスは「義兄さん」だった可能性もあるのですね。

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