危機の足音
当初こそ私はローマでさまざまな邸宅に呼ばれる王子や師について歩いたりしたが、未成年がそうした場に出入りばかりもしていられなかった。
私はアレクサンドレイアでは学校に通っていたが、一時的な滞在の予定であったので、ひと通りローマ見物が終わると、王子は書庫を開放してくれた。大抵の日には、私は王子の奴隷たちに習ったり、講読などをして過ごした。
王子は用もなく、執筆意欲もわかない時には眉間にしわをこさえて、臥床の上でごろごろし、姿勢を時々変えながら考え事をする。何を考えているのか尋ねても、返事がない。学問や執筆の内容のことではなく、現実の問題を考えている時の王子は不機嫌そうな、険しい表情をする。
一見何事もなく、ローマの一日が過ぎてゆく。だがローマ全体にじりじりと何かが忍び寄って来ているような、重苦しい不安を感じていた。
あの後、矢の射手は見つからなかった。帰宅してからあの時のことを我が師に尋ねたが「ああ、カエサル(アウグストゥス)と言ったのではないのかな」という返事だった。だがあの時はアウグストゥスなど見ていなかった。これも落ちつけない原因の一つだった。
その日、我が師はどこかへと出掛けていった。このころには私や王子も知らない知人が出来ていて、郊外まで案内をしてもらったり、別荘で幾晩か泊まってきたりということがあったから、私もあまり気にしなくなっていた。
「そんなに遅くはならぬと思うが」
「はい。お気を付けて」
昼近くであったろうか。いつものように言葉を交わして見送った。それが、私と師との最後の会話となった。
「嫌な予感がする」
王子はしきりとそう言った。
日課である王子の助手たちとの講読を済ませ、同じく習慣である午睡の後、中庭に行ってみると、王子の馴染みの医者が訪ねてきていた。アウグストゥスの侍医アントニウス・ムサの弟で、エウフォルブスという三十すぎの、やはり医者である。
「頼まれていた処方箋です。この通りに薬を作ってみて下さい。あまり信用できないと思いますが」
何の薬ですか、と尋ねると「古い文献にある傷薬です。私は迷信だと思うのですが、王子が面白がったので、書き写して来ました」
さっそく王子はエウフォルブス殿の指示のもと、嬉々として変な匂いのする薬を作りはじめた。処方箋を見せてもらうと、この傷薬の使用の際には「痛いの痛いの飛んでゆけ」といった歌を歌うように、と記されている。
使用人たちはまた始まったという顔をして中庭を避けるようにして通る。
「嫌だなあ。誰か怪我でもしないか屋敷中をうろうろするから、結構邪魔になるんだよ」
下働きの少年が愚痴りながら姿を消した。誰で試すのかと不安になった。
その後エウフォルブス殿を見送りがてらフォルムを散歩した。帰宅してから、王子は書斎にこもり、執筆にとりかかった。
師の帰りは何時ごろになるだろうと考えているところへ、ユルスが訪ねてきた。夕方、六時頃だった。春の初めであったので日が長く、まだ明るくはあったが、供もおらず、かなり急いでいるように見受けられた。
「屋敷の主は在宅か」
「いらっしゃいますが執筆にかかりっきりです。なんでも気分がのった時でないと書けなくなるものだとかで、お客さまにはご遠慮いただくようにと……」
「安心しろ。お主の言葉はしかと聞いたとユバには言っておく」
ユルスはそのまま屋敷の中に入ってゆき、書斎にいた王子からペンを取り上げた。
「異母妹の姿が見えぬ」
王子が無言で天井を仰いだ。漂っていた殺気がぬけた。これを奴隷がやったらまず間違いなく、珍しい形容の罵倒を浴びせられることになるので、この間の彼らはびくびくしている。
「で。こっそり私のところに逢い引きに来ているとでも?」
王子は言われるほどなら自分で言ってやると思ったが、それでもやっぱり不本意そうなやさぐれた表情をしていた。さすがに自分には関係ないとは言えなかったのだ。
「ああ。それは思いつかなかったな」
当時十五歳、若年寄と言われたティベリウスや落ちついたマルケルスとは違った意味で、ユルス・アントニウスは妙に大人びていた。アウグストゥスの後継者候補の中では、どこか毛色が違う印象を受けた。
「すまぬ。忘れてくれ」
「うむ。時間が惜しい。あまり人に知られても困るし、アウグストゥスを表立って頼るわけにはゆかんのでお主のところに来た。誠意を見せろとは言わぬ。人手と知恵が欲しい」
王女やユルスの立場を考えてユバ王子はうなずいた。アウグストゥスの手を煩わせたくない、目立たずひっそり生活していたいというのが切実な願いである。彼らはアウグストゥスの敵対者の子である。
「誰か供がついているのか?」
「いや。こっそり抜け出たらしい」
「姿をくらます原因に心当たりは?」
「屋敷に居づらかったのだろうな……」
ユルスはため息まじりに答えた。
「異母妹たちと言い合いになってな。アントニア・ミノルが怒らせたらしい。悪気はないのだが……」
発端は王女の異母妹の九歳の小アントニアが、「ユバ様ってやさしくて大好き。結婚したら絶対に幸せになれるわよ」と無邪気に言ったことだった。
王子は他国の王族の遺児たちやユリウス家の子供たちに結構慕われていた。少々おかしなところはあるが、話好きで温厚だったから、特に幼い子供たちには好かれたのだ。あいにくと例外であったらしい王女は「だったらあなたが結婚すればいいじゃない」と言い返した。
「私、王女じゃないもの」
「だったら勝手なこと言わないでちょうだい」
幼いアントニアは半泣きになる。そばで聞いていた十二歳の大アントニアが言う。
「この子は誰が相手だって怒るに決まっているのよ。エジプトの王女の結婚相手にふさわしくないって」
「そんなこと言ってないでしょ」
他の姉妹たちは皆、オクタウィアの実子である。だからということはないが、何かと気位の高い王女は馴染もうとはしなかった。
大アントニアは王女に向かって静かに言った。
「アウグストゥスの決めたことでしょう。何故喜んで従わないの?」
「だったらマイヨール。あなたはアウグストゥスが命令すれば、誰とでも結婚するのね」
王女がそっぽを向いて言う。
「するわ。殺されても仕方がないところを生かしていただいているのだから」
王女は皮肉な表情をして笑い、早口で言い返した。
「クレオパトラ。ギリシア語で言わないで。卑怯じゃないの」
「じゃああなたたちにもわかる言葉で言ってあげる。『あなたはそうして追従しているがいい。私の性分には合わないことよ』」
ソポクレスの『エレクトラ』である。王女の境遇は、あの悲劇作家の女主人公になんとふさわしいことか。
「『あなたがいろいろお説教してくれたのは、みんなあの女の教えたことばかり、一つとしてあなた自身の考えなどありはしない』」
ユルスはげんなりした様子でその時の会話を適当に再現した。女たちの姦しさときたら。マルケルスと二人で逃げだすこともあるのだそうだ。
そして王女は「アウグストゥスが私たちを生かしているのは、慈悲深さを人々に知らしめるためじゃないの」と言い捨てた。
「いやもう恐ろしいことを言う娘だ」
ユバ王子は青ざめたまま無言だった。王子は同じ理由でローマでこうして生きている。そしてユルス・アントニウスも。ユルスが人一倍王女を案ずるのは、オクタウィアの、従ってアウグストゥスに連なる血を引いていなかったのは、この二人だけであったためだ。
『殺されても仕方がない』などと、アントニアたちも本気では思っていなかろう。オクタウィアの娘なのだから。だがクレオパトラ王女やユルスは、まさに殺されても文句の言えない立場にあった。そして本当にセレネ王女の異父兄や、ユルスの実兄は、殺されているのだ。
「そして腹をたてた異母妹は、いつの間にか姿をくらましたというわけだ」
女は男のようにまちをふらつく習慣はない。ユルスも自信なさげだった。
「どうも行方に心当たりがなくてな……」
王子は渋い顔をしていたが、立ち上がって出掛ける支度をはじめた。
アントニウス・ムサと弟のエウフォルブスは、優秀な医者だったのでしょう。兄はアウグストゥスの主治医、弟はユバ王の主治医になります。
アントニウス・ムサはアウグストゥス(の肝臓)を冷やす治療をして命を取り留めたという話があります。(皇帝伝 アウグストゥス 82)
まあ一か八か、というやり方だったみたいですけれども。
エウフォルブスの年齢はよくわからないです。兄の名前からすると元奴隷かも。
エウフォルブスの持参した文献は、エジプトのものです。「流れ出よ、すべての風邪の娘 骨を砕き、頭蓋をつかみ、頭の七つの穴を苦しめる者よ。おお、ラーの友よ、トトに敬意を示せ」とか「出て行け、闇からの訪問者よ」とか、用意した薬について説明し出したりするようです。
まあ「痛いの痛いの飛んでいけ」です。




