第八十六話・キチガイの薬
今回も三十五年以上前の昔話から始まります。昭和時代から調剤薬局はありました。でも今のようにたくさんはなかった。かつ、薬情と言って、情報提供用紙をもらうこともなかった時代です。
医師から薬をもらっても、特に患者側から質問しづらく、これさえ飲めば現在困っている症状は消えるかマシになるだろうと、なあなあだった時代です。(←言い切る)
さて母の知人Uから薬剤師なりたての私に「これ、なんのくすり?」 と聞いてきました。昔からある精神安定剤でした。正直にいうとUは、「うそ」 と絶句した。どうやら痛み止めだけが欲しかったのに想定外だったらしい。
でも私は医師の処方はそれで間違いないとおもっていました。Uの普段の言動から推察するに更年期障害による不定愁訴だからです。とりとめのない、あちこちの痛みや不快な症状を時間をかけて訴えるのを聞いていたから。
原因不明の限局的でない痛みの場合は、医師の方で判断してそれを出すこともある。
しかしU自身は「楽になる薬を出します」 としか言われなかったらしい。また院内薬局も昔は説明もしないで交付することが多かった。「お大事に」 としか言われなかったらしい。
今から考えれば医師の説明不足はあるとは思う。Uは段々と腹がたってきたらしく、見る間に目がつりあがってきた。
「そんなのキチガイが飲む薬やん、いらんわそんなもん、あのお医者さんはヤブやん」
そういって別のところを受診して痛み止めをゲットして飲んでいました。精神安定剤といえばキチガイと言い切る発想もすごいですが、当時の精神科や心療内科系の患者は日陰モノというか、そんな扱いです。
私は精神科オンリーの病院に勤務していたのでわかりますが、軽い不眠ですらカミングアウトせず家族にすら通院を秘密にされている人が多かった。今でも秘密にしている人もいます。保険を使わず自費で受診する人もいます。が、現在のうつ病患者は普通に家族や勤務先にカミングアウトする人が多い。ブログやツイッターで症状を書く人もいる。これも良い意味での時代だと思う。
私も若かったのでUに対して「間違いでない」と説得できなかった。多分あの安定剤は捨てられたと思う。
心身ともに健康であることが当たり前の感覚だったU。
」」」
この話には続きがあります。数十年たち、Uの子どもVが同じ薬を飲んでいます。でもUはそれを知りません。私は個人情報の根っこを知り得る立場ですが、口外はしない。それにUも、子どものVが飲む薬品名を知ったとしても、多分わからないはず。だってVの飲むそれはジェネリック薬品だから。
昭和時代のジェネリックは成分名表示でもなかったからね。これも時代です。
軽めの精神安定剤なのに、キチガイの薬と言い切るなら、私の子供なぞ鬱病だが飲んでる薬を説明したらUにとって「ガチキチガイ」 の薬になるだろう。
それにしてもキチガイってなんだろう。禁止用語を連発して書いたが、そんなに怖いものですか? 急に発狂されて殺されそうだから?
狭い世界で生きるUにとって対応しきれないものは、すべてがキチガイと決めつけるのはUなりの生きる知恵なのだろうか。




