第八話・この人は耳が悪いから
私は初対面の人と話す時、時間に余裕がある場合、補聴器使用者であると簡単に自己紹介をします。現在コロナ禍のせいで、マスクは必須で距離もあけて話さないとエチケット違反になります。状況に応じて自己紹介できない場合も多々ありますが、公私ともに大きめのお声でお願いと伝えて切り抜けています。
以下はつい先日あった話です。中途半端な難聴者あるある。
とある場所に第三者が訪問してきて、私にあいさつしました。相手は男性で声がこもって低くしかもマスクつき。朝の早い時間で私はまだ補聴器を使っていなかった。相手がなにか言いますが、ほぼ聞こえない状態。すると隣にいた人が「この人、耳が悪いからね」 と一言だけいって私を飛ばして話を続けました。
その言葉だけを聞くと「耳が悪くて会話にならないから、相手にしなくていいよ」 と思える。それがすごくむかつきます。でも来客の前ではさすがに怒りを表せず、そのまま黙って引き下がりました。こういう場合は、ずっと怒りという感情を処理しきれずその日まるごとが不快な感情で覆われてしまいます。私はそういう人間です。
実はその人は前にもそれをしたことがあって、単純に気が利かない人、気持ちが理解してくれない人だと思っていました。でも今回のはあからさまで大変傷つきました。
話を変えますが、私の仕事上でもお年寄りと接することが多いです。彼らとは大声で話しかけないと通じないです。すると家族によっては「本人は聞こえてないから説明はいいです」 といいます。そうすると百パーセント、あいまいな笑顔で本人は引き下がる。その言葉はしっかりと聞こえたのです。聞こえなくても大体はわかるのです。でも、怒っても仕方がないから黙って引き下がる。私は彼らの気持ちが本当によくわかる。近親者にそういわれた彼らの目線は百パーセント下に向く。会話から離脱するという小さな意思表示です。
私はこういう扱いをされる側ですので、「この人、聞こえてないから」 イコール 「相手にしなくていい」と、どうしても取ってしまいます。
聞こえてないのはわかっていても ⇒⇒⇒ 「から」 って何なのよと思う。「から」って。
でも私はもう怒らない。哀しいだけ。幼い時から学校でもどこでも言われていたから。その言葉を聞こえるだけましだ。でも、つらい。それを言う相手は、どんなに嫌な思いをするかをわかってない。悪気がないのは承知ですけど。
私は小さい時から聴力が悪く、言葉が舌足らずでそれを恥ずかしがる母からは人前に出るなと言われていました。親戚で話しかけられて会話をしていると、「こっちへおいで」 と母から呼ばれ、母の近くにいるように言われました。帰宅後は「なにを一生懸命しゃべっていたんや」 と怒られました。他人と会話するのを嫌がられており、幼い時は理由がわかりませんでした。長じて己の声を録音してテープ再生して聴くまでは。
幼少時から聴力に障碍があると、滑舌問題以前の独特のしゃべり方になります。かなり矯正をしましたがまだ残っています。私は話し方が嫌がられるのだと自覚して以来、初対面の人との会話も怖くなりました。今でも本当は怖いです。でも仕事で話さざるをえず、病棟に出ると薬剤師は私一人という状況になると意見を述べざるを得ない状況になる。それで臆病なところは、少しずつ治っていったと思います。
そのうち補聴器使用を開示したうえで病棟でも患者教室でも薬学会でも講師やスピーチをしました。もちろん助けは時折求めました。聞こえてないと思ったら横から補助的に言葉を出してもらいました。できることはやる。周囲には迷惑をかけて申し訳ないですが、その分他の仕事で補ったつもりです。気を使われるのもこちらも気がひける。だからといって閉じこもってばかりいたら、それで解決にはならぬ。どういう立場になっても個人や集団になんらかのつながりを持たないといけないと思う。対人関係が怖かったらネット上でもバーチャルでも何らかの居場所や関係を持つべきです。
でもリアルな人間から聞こえないから相手にしない、もしくはするなと言われたら相当にへこみます。その人の場合はそこまで言ってないと反論するでしょう。実際そうなのですが、でも居場所がないと感じる。だから、さっさとその場を去ります。それが私の唯一身を守る手段です。そんな自分を情けないとほぞをかみつつ。
聴力の低下は確実にコミュニケーション能力を落とします。病気で成人後に失聴された人の嘆きを職務で見ていますが、他人とのコミュニケーションがスムーズにいかなくなった、楽しめなくなったとおっしゃいます。私は幼いころからだったので、それがどんなにつらいことかはわからない。そのかわりに健聴というか正確に聞こえる喜びや感覚は無縁なので、その状態になりたいとは思わない。割り切れてしまうのです。しかしながら周囲で「聞こえてないから相手にしなくていいよ」 的な紹介をされるのはイヤです。その違い、読者さんには理解できるでしょうか。
中途失聴者の人々にとっては、こういった場面に遭遇すると非常にショックでしょう。そういうところは理解してあげたいです。医療従事者になって、いろいろな病気の人を見ています。みんな哀しみ苦しみ、元の健康な体になりたいと病気と闘っていました。
昔から内緒の話や、ひそひそ話もできない私。どうにもできない部分はあきらめるというよりは、最初から縁がないと思っている。それでも私は恵まれている。そんな私でも耳が悪いから会話にならないから相手にしなくていいよと言われたら、やはり嫌になります。
耳がよすぎて聞こえない人の気持ちがわからないのね、となれば、その人を変えるよりも、本人の自分がその場から姿を消すしかない。会話の補助をすると話の流れがとぎれてしまうから、私みたいなものが混ざれば困るでしょう。だから私はその場を去る。それでいいけれど、解決しないつらつらした想いを文章で書きました。
だから今回のそれは、つらつらイラクサです。心のあちこちに生えていて時折刺激臭を放つ困ったイラクサです。
 




