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第四話・目立つことは悪


 以下は、母の格言です。女の子は、とにかく目立ってはいけない。でしゃばってはいけない。長いものには巻かれた方が楽……そういう人に私は育てられました。幼児期はまったく記憶がない。私はたえず大人に対して萎縮しており、とにかく大人が怖かった。そして尊敬しないといけないと思っていました。今は私もトシをとり、よくもまあ何も知らぬ子に対して嘘八百教え込んだものよとあきれている。かわいがってもらったことには間違いないし、感謝しないといけない立場なのだけどね。


 私は成人するまで母のいうことはすべて正しいと思っていました。母は曲がったことは大嫌いといいつつ、近所の人とのトラブルには黙ってやりすごして、家族にその人の悪口を繰り返し吹き込む。建て前と本音は使い分けることを私に身をもって教えました。

 幼い私は母の発言がころころ変わるのでいつも混乱しており、父のように黙っているのが一番賢いと思っていました。さっき言った言葉と違うことをやっているのはしょっちゅうありました。また共感を求めるのは毎日のことで、母の概念に疑問をもたぬ私は母のコピーとして、いつも賛成していました。

 たとえば、コロッケを買うと「ぬくぬくやったんやで」 と言いますが、当時は電子レンジはないので食べるときはすでに冷たいです。それでもおいしいねというまでは何度も同じ言葉を繰り返します。多分は専業主婦の母は、内向的で限られた人としかつきあわない。せめて娘の私には、なにがなんでも認めてほしかったのだろうと思う。以前のエッセイで、母をADHDとして接するとうまく行った話を書きましたが、幼い当時はそういう比較対象も医学的な知識も皆目わかりませんでした。ただ母の機嫌を損じないようにと気を使っていました。だから母にとっては私の妹Zよりも私のほうが気に入られるのは当然かと思います。

 しかしつらかったのは、母が私の聴力低下を恥ずかしがったことです。補聴器を買うのも躊躇してなかなか購入できず、いざ買ってもらえたらそれを髪で隠しなさいと言う。昔の補聴器使用者ならわかるでしょうが、ハウリングといって、補聴器にあたる風などで雑音が混じってしまう。だから長い髪の毛もまとめるならともかく、耳を隠すようにおろすと逆に補聴器の邪魔です。が、母の言いなりの人形だった私は、他の人にばれないように工夫して使っていました。本当はそんなことしなくてもよかったのに……でも母は母なりに周囲に聴力の悪い人がいないので、使うと目立つ。またいじめられたらかわいそうと思って隠しなさいと言ったのだろう。すでにクラスメートから「つんぼのくせに」 など言われていましたが、相手にしないようにというだけでした。聾唖学校へ行きたい、あそこなら私のような人もいるでしょうというと、そんなみっともない学校を希望するなんてと怒り、しばらく口をきいてくれなかったことを覚えています。聾唖学校に対する母の差別意識については申し訳ないですが、当時の私は本気で困っていて、聴力の悪い同じような友だちが欲しかった。でもそういった気持ちが母に理解してもらえぬ。私はどうしていいかわからなかった。せっかくの補聴器も隠して使うという……とても残念な青春時代でした。

 病院通院のおかげで医療従事者に興味を持ったのですが、それも母は反対しました。大学へ行くなら教育学部に行ってほしいと言います。私に教師になれというのです。なぜ? 私が教師になったら普通学校であれば、聴力面で余計な苦労をしそう……それなのになぜ?

 母は昭和十二年生まれ、当時の職業婦人(←死語)で世間体がいいのは唯一「教師」だったのです。医師などは婚期が遅れるからやめろと言われていました。母は私が補聴器使用者であることは隠せ、そして教師になれという。

 くわえて私は幼いころから母から、人前でしゃべることを禁じられていました。それなのに、教壇に立って人前で授業しろと……親戚の人と話していると帰宅後に母は「人前であんなに一生懸命話してみっともない」 と怒られました。私はいつでも萎縮していました。空想の作り話はみっともない、文章も宿題以外ダメと言われ、唯一自由にできたのは読書だけ。それも検閲があり、母の許可がおりないとお小遣いで買った本でも捨てないといけませんでした。今でも覚えていますが文庫本で母がぱらぱらめくると変なシーンがあったからといって捨てられたことがあります。キスシーンがあったからだと思いますがね……今となってはバカバカしいです。

 私が人前で話すことを禁じられたのは幼少期からの感音性難聴児特有の発声、発音に違和感を恥じての事でした。今のようにSNSで聴覚障害児の母の会などというものは存在していなかったし、狭い世界の中で生きていた母にとって、それが私への愛情表現だったのでしょう。苦しいですが、もう私も還暦も前にしてもうどうでもいいやと書きました。

 昭和時代は目に見える身障者や精神障碍者たちには、健康な人々からの厳しい視線がありました。あれは前世に悪いことをしたんやろ、何かの因縁やろと言われていました。少なくとも母のみならず母方の親族は皆そういいました。見回してみると母の親戚それぞれの家庭に発達障碍児がいます。私がある時、母一族が変な概念を持つからそうなったのじゃないのかと母にいうと……母はずっと黙っていましたね……。

 以上目立つことは悪だと育てられた私の精神的な回顧録でした。




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