表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

35/95

第三十五話・伝統伝承が途切れた私的理由・後編


 


 実父は三才のころに実母(私から見たら祖母)を亡くし、その直後に祖父は再婚しました。いや、まだ祖母が生きているのに、近くで囲っていました。父三才、叔母(父の妹)ゼロ才の話。男世帯で乳飲み子を抱えていたら、先妻の死後すぐに後妻を迎える立派な理由になったでしょう。昭和ヒトケタの時代です。出自の件で親戚一同反対していた相手です。詳細は前のイラクサでも「おばん」 シリーズとして書いていますので省略します。

 結果として父は継母から心理的虐待を受け、吃音がひどい緘黙な男性に育ちました。技術的な資格を得られる工業高校に行ったので働くには支障ないのですが、娘の私から見ても己の意見をいうことがなく、家庭内でも空気な男性でした。金魚、にわとり、小鳥を買い、菊を三本仕立てに育成して玄関を飾るのが趣味という人畜無害な人間でした。

 父の継母は、本当にひどい人で、身体的な虐待はなくても、祖父の子ではないと何度も当の父に言って聞かせ、父の妹にも言う。周囲にもいう。そして父にとって後から生まれた異父弟にも言って聞かせました。

 それは異父弟の子どもたちにも引き継がれ、私までが蔑視される原因となっています。と申すのは父が生まれた昭和六年は、祖父は大阪にいず皇居で近衛兵をしていたから。妊娠時期を逆算したら大阪にいないはずだといい当時存命して同居していた曽祖父の子だと言いふらしていました。父の継母のずるいところは、曽祖父が亡くなってから言い出したことです。

 父は相当に苦しみ、祖父に何度も聞いたが、祖父は俺の子だと言って聞かせたらしいです。それでも父の継母は、母と結婚の際にも「あれは祖父の子どもではない。だから長男扱いはしない」 と言ったらしい。母方の祖母はそれも知っていましたが、祖父に確認したことと、家柄がいいのと、戸籍にも屋敷と記載されるので、近所の聞き合わせ(←見合い相手の様子を聞きにいくこと、死語) で父の評判がよいことで母を嫁がせたと聞きました。祖父の生まれは明治でしたが、当時は近衛兵になれたら、大出世でした。その地区では祖父を含めて二人しか合格しなかったらしい。とかく父の継母は、祖父の長男たる父の人格を落とすのに必死な人でした。初対面は生母を亡くしたばかりの三歳でしたからさぞいいように扱えたと思います。本当に罪作りな人です。そして今なおそれを信じている継母の子、そして孫たちがいます。

 これも詳細は前のシリーズに書いています。私がその疑念をも晴らした話も書いていますので興味ある人はぜひ読んでほしい。

 

 父はそんな継母に育てられたゆえに、闘志や反抗というのもを一切できずに大きくなりました。家庭の暖かさに飢えていたと思います。母との見合い結婚で即決だったといいます。母は父の前でも「不細工な人」 と揶揄するような人ですが、それでも父はおとなしかったので夫婦仲は良かったです。父が稼いでくる給料もすべて、愚かで無学な母が管理していました。母はヘンな霊媒師を頼り、ヘンな絵や数珠をたくさん買う人でしたが、一切文句を言いませんでした。私が父であったら、あんな母は好きになりませんが、父にとっては母の独特のこだわりも、勝手に高価なものを購入して見せてくるのも、かわいかったらしい。母に文句をいうことは一切ありませんでした。母から面と向かって「不細工な男性だから本当は結婚はしたくなかった」 と言われても黙っていました。


 父の継母は、父から怒る、哀しむという感情を徹底的に除いたのです。三歳から愛情を持たない女に育てられたらこうなるという見本です。ましてやゼロ歳の時から後妻に育てられた父の妹も、相当に歪んだ思考の持ち主に育ちました。折々に、その継母があとで産んだこの子守をしていて学校にも行かせてもらえなかったこと、ご飯も異父弟たちと差別され、粗末なものを食べさせられたと恨みがましく言っていました。女性同士だからこそ、細かいことまで覚えている。長じてその叔母は父が兄としての感情を持っていてもそれを拒絶していました。例の継母が正当な血でないと言ったことを信じていたふしがあります。

 叔母とその子供たちは父の葬式でも来てはくれたのですが、棺にお花を入れるのを嫌がったりもあって、父の人生っていったいなんだろうと私は涙にくれました。多分、私の知らぬ何かが父と叔母の間であるのだと思います。でも真実はもうわかりません。その叔母が亡くなったときは、その長男(従兄弟)が、喪中はがきで知らせてくれたのですが、香典二十万円を差し上げても返しもないです。受け取りの連絡が来て、それきりでした。死んでからも、父や私どもは従兄弟からそういう仕打ちを受けています。

 父は三歳から亡くなるまで、そして亡くなってからも血縁者からそういう仕打ちを受けました。父の継母は、立ち位置を有利にするために、嘘をつき通して百三歳で亡くなりました。その血をうけついだ孫やひ孫はいまだその嘘を信じています。亡父の言う通り、もうどうでもいいことです。私が無神論者になった理由もそこにあります。


」」」」」

 ただ、父の祖父に対する憎しみには、父は無言でいた分相当に根深いものがあります。祖父は政治家の後援会長をしていた時期に交通事故で亡くなりましたが、父はその方面には一切手を出しませんでした。その後も政治的なこと、例えば当選したら花を送るなどの話が来ても一切拒否していました。後援会すら入りませんでした。

 近所の人は、継母の事をよく知っており、ご不幸があったときの葬儀委員長などの話は、父が生家を出ても依頼がきました。真っ当に長男の扱いをしていただきよく電話をもらいました。父はそういう義理事はきちんと受けて勤めを果たしていました。

 継母が数十年かけてわめいても、そして継母の息子たちがあれは正当な長男ではないと言い張っても、近所の人の父に対する扱い、そして祖父と同じく近衛兵をしていた人の証言が父の立場を確固としてくれました。これらは法的な証拠にならなくても、(そもそも父の継母の讒言も証拠にならないけど)なによりの無形の暖かい眼差しがあったと思います。

 太古から継母による儘子いじめはありますが、彼女は正当な長男の父を追い出した成功者です。父や私は負けたようなものですが、少なくとも私の子供たちがこの話を伝えていくこと、私の調査した資料を後世に残すことで、父の無念を少しでも晴らすことができればと思います。


 もちろん、一番悪いのはそういうのを後妻に迎えた祖父です。祖父はあとでかなり後悔したらしく、それでも例の後妻を「子も産んでしまったので追い出せない」 と言って父に謝ったと聞いています。

 後妻は、祖父に嫌われると後がない人ですので、せっせと淀屋橋に行っていました。入れ知恵を授けてもらうためですね。出自の事もあるし、祖父に対する脅す勢力もあったと思います。これも昔のことで真実はもうわかりません。

 伝統はこういうことであっさりと潰えます。結婚相手によっては、子孫が迷惑するという見本でもあります。父の継母は、私も覚えていますが、いつみてもきれいに和服を着こなし、きれいにお化粧をしていました。反対に、写真に残る父の実母はお世辞にも美人とは言えません。従妹同士の結婚で、二人目の妊娠中に妾を作られました。そして三歳の父とゼロ歳の叔母を残して死んだ……享年二十四歳でした。とてもかわいそうに思う。


 父と祖父は冠婚葬祭ぐらいしか会いませんでした。父方の肉親がそうであれば先祖伝来の蔵の内容など教えるはずもないし、孫の私にも伝わらない。曽祖父は新しいもの好きでバイオリンを弾いていて、それも蔵に保管していたというが、それは父からの話ではなく、母が嫁ぎ先の親戚から聞いている。

 父に昔話を聞いても「忘れた」 しか言わなかった。徹底して父は、継母そして祖父を許していない。伝統は絶えた。父は悪くない。我が身の保全の画策に腐心した父の継母よりも、なお一番悪いのはそういうことを許した祖父だと思います。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ