第二十四話・女性が三人いると二対一になる法則とぼっち体質の存在を考える
ぼっち体質というのは、どこにいてもどういう環境でも、一人ぼっちになる人のことです。
三人並んで話したり、一緒に過ごすとどうしても二対一になることが多く、私は苦手でした。俗に、あぶれる女というわけです。私は感音性難聴があるせいで、遠くにいる人の話し声は聞こえても内容が理解できないし、何人グループでいても、結局となりにいる人と話し込むことが多い。
三人でも四人でもまたそれ以上でも仲良く会話を楽しめるのは正常な聴力を持つ「健聴者の特権の一つ」 でもあると長らく思っていました。ところがそうでもないことが分かったときは、驚きました。え、どうしてなの、聞こえるのでしょという感覚です。今回はこれを話題にしてみます。
健聴者でも三人の女性のうち、二人が話し込み、一人があぶれたとする。それが同じメンバーで毎回そうなってしまう場合は、ぼっちになる人が悪いのではなく、二人だけで話すことを好む人がいるからでしょう。三人のうちの一人がいつでもそうだと、真の友達ではないと思うがどうだろう。二人組になったお互いがあぶれモノに興味を持たず、二人の世界を楽しむというもの。ぼっちになってしまうのは、ぼっち本人が悪いというわけではない。しかし、ぼっちを好む人は全般的に人間関係に受身が多い。これは我が身を顧みて思っている。
ぼっちには人間関係が苦手というよりも、他人との距離感がわかってない。そして自己開示といってどこまで、相手によって話題を広げて話をつなげるかということもわからない。幼児期の環境も当然影響ある。悪いことではないが、社会的参加をするにあたっては不利になる。それが嫌ならば、傷つきながら、恥をかきながらも人が集まっているところに飛び込むしかない。もしくは、似たような仲間を集めて楽しむしかない。今はネット社会なので昔よりはそれをやるのは容易でしょう。お金に余裕があるなら心理ケースワーカーと個別に依頼して相談に乗ってもらう人もいる。
でも、ぼっちって何が悪いの、と私は思う。
誰にも迷惑をかけていないのは確かだ。
過去私は学校が終わって塾へ行く合間にファーストフードのお店を利用して、予習と腹ごなしをかねて時間つぶしをしていたことがあります。そこへ同じ制服を着た別のクラスの子たちが四人連れ立ってテーブルに来た。同じ制服同士は目立つ。四人ともあからさまに私に侮蔑の視線を寄こす。私の方を指さして、これみよがしにくすくす笑ったり、ひそひそ話をする。
当時から私はぼっちで過ごすのは恥ずかしくなかったが、学校の休憩時間でも一人でトイレに行く人、と揶揄された思い出もあり、なぜバカにして笑われるのかが理解できなかった。
集団行動しかとれぬ人間のどこが偉いのかと当時から思っていた。
だけど、多勢に無勢で黙っているしかない。こういうのも地味だけどいじめになると今でも思う。でもいじめられる原因の一つでもあったと達観もしている。私の場合、ぼっちのお陰で集団行動しかとれぬ人よりは、数多くの書物に親しめたのがよかった。これは今なお誇る私の財産です。無形だけど。
ぼっちでも、集団行動をみださないぼっちならば、それはそれでいい。ひとりぼっちは恥ずかしいと悩む子は多いけど、その点私は小学生時代から聴力が悪いから仕方がない、という変なあきらめがあったので、仕方がないと思っていた。加えて我が母が私の聴力の低さを恥じる人だったので、私と友人になるのは恥ずかしいと相手も思うだろうと思っていた。これは哀しい成長体験だけど、それも私の運命だし、それで優れた本の世界に没頭できただけ、私は幸せだと思うことにしている。その方が気楽だから。
ぼっちで悩む人にとっては、救いにならぬかもしれないが、ぼっちだけが味わえる楽しみを見つけるがよいと思っている。それができるのは、他人ではなく、自分しかないですよ。




