暮らしのヒント もしも川下りの船頭に転職したら
一つ私は賭けにでた。現状で満足するのか否か。今勤めている会社は、勤続10年になる。にもかかわらず、準社員という身分だ。だからといって、特に不満がある訳でもない。でも、自分より後に入って来た若い人達が正社員になっていくのを目の当たりにすると、多少は心揺れ動く。今年に入ってはじめて社長に正社員になれないのかと、思いきって訊ねてみた。
が、なれないことはない。もう少し頑張ってみたらとの返事。
こうしたらなれると具体的な話はなかった。こっちは10年勤めているのにという、やるせない気持ちがわいてきた。と、同時にそうかそうなんだという諦めにも似た感情が生まれた。
かと言って、今すぐにどうのこうのという思いはなかった。私は家庭もあるし、分別はあるつもりだ。しかしある休日、私は思わず職安をのぞいた。掲示板に張り出された求人案内の一枚に、私は吸い寄せられた。
「柳川川下り船頭募集」
船頭という職がおもしろそう、やりがいありそうだと直感が私に訴えたのだ。運命?
案内用紙を私は食い入るように見つめた。給料は多少減るが、それほど違いはなし、気になる保険などいろいろな面も完備されている。
もちろんまったくの初心者。リスクはあるが関心とやる気が勝った。
私は職員の方に在職中の転職が可能か、川下り会社に聞いていただきOKをいただき、即座に面接を決めた。妻に事後報告となってしまったが、社長とのやりとりを話して転職したい旨を伝えていたので、なんで畑違いの船頭という職?妻の疑問はさておき、とりあえず了承は得た。決め事として在職中での転職があったが、これも大丈夫だ。
私は腹をくくった。面接が受かれば船頭をやる。駄目だったら今の仕事を続ける。どっちに転んでも運命。ただ私は、船頭になってみたかった。なんとなく、なれるだろうと思っていた。
果たして結果的に、奇しくも準社員としての採用となった。またかと思う反面、三十後半のオッサンを雇ってくれるのはありがたいと感謝したりした。
という訳で私は、オッサン新人見習い船頭となったのだ。
初出勤は二月から、いい年をして緊張しつつ職場へ。専務、部長に簡単な挨拶、説明を受けた後、現場へ。冬のこたつ船の準備を手伝う。テーブルを敷き、火鉢をセットしてこたつ布団を被せる。結構、重労働だ。適当に見様見真似でやっていたら、仕方が違うと船頭さんに怒られる。それからは、分からないことは確認してやることにした。だって、本当にわけわかだもん。
それから、実際にお客さんと一緒に船に乗せてもらって、生の船頭さんの操船やガイドを聞く。
自分に出来るだろうか、少し不安になってきた。というのも、船を操りながら、川下りにある名所をガイドし、地元の歌を歌い、海外のお客さんには簡単な英語や中国語、韓国語を織り交ぜながら説明する。以前、川下りをお客として乗った時は、おもしろそうだなあとしか思わなかったが、いざそれをやるとなると話は違う。楽しそうだという浮かれた気分は無くなった。
それからこたつ船の準備と簡単な受付案内をなんとかこなして、一日目が過ぎた。
船頭デビューはだいたい三か月以内とのこと・・・そういや、自分不器用なんだよなあ。
なんとかそれまでには、一人前を目指したいところなんだけど。
うちの会社のお得意様は海外のお客さんだ。特に台湾、香港の方。職場のみんなが口々に忙しくなると言っている。間もなくあちらは春節がはじまるのだ。ひょっとしたら雑用ばっかりになるかもしれんけど言われつつ・・・。
二日目はじめて舟を操船した。私は素直に喜んだ。
竿一本で舟を操るということが、難しい、前の会社の先輩が言っていたな「掉さし三年、櫓は三月って言って、お前に出来るとかな?」って、これは一筋縄ではいかんぞ。思うように進まず、ただ回転するだけの舟を懸命に動かそうとして、へっぴり腰で適当に竿をさしている自分の姿、ひたすら汗をかいてもがいている自分をほーらやっぱりと冷静な自分が俯瞰で見ている。
「いや、はじめてにしては筋がいいですよ」
指導役として同船してくれている二十代の先輩船頭がお世辞を言ってくれる。
「そうですか~」
と、愛想笑いの私。とりあえず、一歩踏み出したという喜び、これから出来るのかという不安が入り混じった返事をした。二時間くらい、漕ぎの練習をした。
それから練習と雑用をこなす日々が続いた。
朝一は、こたつ船の準備。火入れした炭火を火鉢に入れ、炭がなじむまでしばらく待つ。その間に舟にカーペットを敷き、その上に長テーブルを置き、布団を敷くその上にテーブルを載せ、出来上がった火鉢を中に入れる。営業が始まると慣れない接客、外国のお客様にはカタコトのシンプル英語で対応、通じない場合はベテランに任せる。空いた時間はひたすら操船の練習。
慌ただしく一か月が過ぎた。六十キロあった体重は五十五キロとなり、身長165センチの私の身体は、ややメタボリックの体形から引き締まってきた。周りからは「やつれたやろ」との声も。肌も冬なのに日焼けをして真っ黒に、頭には帽子をかぶっていたおかげで、おでこを境にして白と黒のコントラストが激しかった。手は竿マメだらけだ。
やるべき仕事も増えた。船上げという作業だ。川下りは片道である。帰りは人力で舟を持ち帰る。外周のお堀から舟をつないで、中継地点である城東橋へ。そこから下りの舟が行き交うお堀の中へ。川下りの舟とすれ違う時はいつもドキドキだ。肝が小さい私は端に船を停めてやり過ごす。
雨の日、はじめて大将船頭さんの指導の下、川下りの全コースを下った。汗なのか雨なのか、何で濡れたのか分からないぐらいべちゃべちゃだったが、充実感とやれるかもという希望が見え始めた。
それから、一人で操船の練習。橋をくぐる。狭い水門をくぐる。勝島の曲がり角や弥右衛門橋、城西橋とコース上の難しい苦手部分をひたすら練習する。次は椅子を舟に積み上げて重みを載せ負荷(お客様を乗せた状態をつくる)かけての練習。
2か月目の半ばガイドのマニュアルを渡された。操船しつつガイドする。これが本当に難しい、はじめはしどろもどろになりながらとにかく喋る。喋ると舟があらぬ方向に動く。舟を立て直す。喋ると舟がいうこときかないの繰り返し。ガイドを頭に覚えこませとにかくやるしかない。
日々、舟準備、練習、船上げの繰り返し、いつの間にか3か月が経っていた。忙しいといっても期限は迫っている。多少の焦りも感じている。
操船とガイドはたどたどしいもののなんとか出来るようになったものの、柳川橋、水門と
いったポイントはまだまだ、船が横滑りして壁に当たる。ある日、柳川橋をくぐっていたら、足元に船のデッキがなく、川にダイブしてしまった。ポケットに入れていたアイフォーン5(古)が起動しなくなってサヨナラ。それと引き換えといっては何か語弊はあるけど、次第にポイントごとの失敗が解消されるようになった。
そして3か月と半月、遅れたが卒業試験が行われることとなった。お客様と試験官大将船頭さんを乗せて、川下りコースをガイドしながら進む。緊張感は半端ない。柳川橋を抜け、二ツ川へ。古文書館、白秋先生歌碑のガイドをはさみ、水門をくぐり外堀へ。汲水場、離れ庭の説明をはさみ、石橋、北長柄橋をくぐる。勝島のカーブを注意し、柳城橋をくぐる。写真館を抜け内堀へ景観の良い袋小路を通り、宮柊二句碑、水辺の散歩道、白秋先生歌碑、そして高門橋をくぐる。城内小学校、椛島菖蒲園、山王橋、うなぎの供養塔、売店、日吉神社、柳川城跡、柳川高校、水のクランク田中吉政公像、そして川下り最古で一番狭い弥右衛門橋をくぐる。それから漁師の仕掛け網「くもで網」、蛯名弾正碑、まちぼうけの像、川下りで最も低い城西橋、小野栄次郎宅、檀一雄石碑を抜けて、小公園、柳城一号橋。ここまで来ると、あと少し。他社の船着き場を抜け、最後の豊後橋をくぐると、目的地御花へ。舟を半回転させ、船頭の方から下船場へ。係留して、声掛けをしてお客様を安全に見送る。
なんとか合格を得た。翌日からは晴れてお客様を乗せて船頭となる。身の引き締まる思いとその怖さを感じた。自分に出来るのだろうか、常に問いかけ、少しでも不安を取り除けるようやるしかない。でも、今は充実感に浸りたい。
この選択が間違いじゃなかったと胸を張れるようやっていこう。