さるぼぼちゃん
午餐を済ませた後、ようやく私は本来の体力トレーニングに戻った。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
今日は初日なので家族やセザンヌの部屋、後は厨房に行くくらいでちょうどいいと思っていたが、その行程は予想以上にキツイものだった。
難所その一、階段。
身体が小さいこともあって昇り降りがしにくく、あと非常に怖いのだ。
「うぅ……。おしろだからって、かいだんおおすぎ。こわすぎる。ここだけだれかにてつだってもらおうかな……」
しゃがんだまま階段を降りている感覚と言えば伝わるだろうか?
足がうまく届かないので、手すりに捕まりながらでないと転げ落ちそうになるか座り込んでしまうのだ。
「あとらせんかいだんは……ムリ。ぜったいムリだ、あれ。ころげおちるみらいしかみえないもん」
一度這うようにして移動したが、それでも終りが見えないのと傾斜が強いので泣きそうだった。
後で螺旋階段を通らなくても良い道を教えてもらおうと心に決めたのは言うまでもない。
(あと一段……!)
「ふぅ。ようやくついた」
そこは厨房のある一番下の階だ。ここから少し行くと厨房がある。
領主や客人が来る場所でないからなのか、普段見ている廊下と違って美術品などは何も置かれていない壁に手をついて、ゆっくりと厨房を目指して歩いて行く。
(まぁ、こんなところに値の張るものを置いておいたら、不用心すぎるか)
かつてヨーロッパでどのくらい使用人による窃盗があったかは知らないが、彼らを信用してあまり不用心にし過ぎるのはお互いにとって良くないのだろう。
人が手に持っているものを盗むのと、誰もいない場所に置いてあるものを持っていくのでは、心理的な抵抗が全く違う。そこに家族の病気など何か一つでも後押しが加われば、甘い誘惑に打ち勝つのは難しいのではないかと思う。
転生する前、あちらの世界で旅行好きの友人に海外で置き引きにあったことがあるか聞いたことがある。
私はてっきり、頻繁に海外に行く彼のことだから一度や二度ではないだろうと思っていたのだが、返ってきた答えは「一度もない」だった。
それには流石に驚いて何かコツでもあるのかと聞いたところ、彼曰く「盗まれるような場所に置いておくほうが悪い」とのこと。
それを聞いた当時は文化の違いからか違和感を覚えたが、今になって久々に思い出してみると確かにそうかもしれないと思えるようになったのだ。
そんなことを考えて気を紛らわし歩いていると、食器が触れ合う様な音が聞こえてきた。
「やっとついっ――」
停電。
それが最初に思い浮かんだことだが、今はまだ昼間だしそもそも電気など無いはずだ。
身体に何かが巻きついていて身動きが取れない。
(あれ、なんか眠……。すごく……まず、あふぁ…………)
その日、ジェイムス・コルトーはナベリアから姿を消した。
◆ ◆ ◆
そこはキラキラとした場所だった。
夜空に浮かぶ星々のように光を反射する、幾つもの綺麗な飾りがぶら下げられているのだろう。それらがどこかしらの光を受けて輝いている。
成長のため夜寝てばかりいた私は、久しく見ていない星の輝きをそこに見たような気がした。
「きれーだなー」
久々に見る満天の星空に見とれて呑気にそんなことをつぶやいていると、人の動く気配がして誰かが扉を開けて出ていった。
まだ頭がぼんやりしているが、身体を起こして辺りを見回す。
天蓋付きベッドだろうか。大きくなったベビーベッドのような場所に、私は寝かされていた。
薄明かりの中周囲を観察しつつ意識が覚醒してくるのを待っていると、バンっと大きな音を立てて扉が開けられる。
「やっと起きたわね!」
そう言って小さな人影が入って来た。
ズンズン近づいてくるその人影は、大きさからするとまだ子供のようだ。
私はびっくりして一瞬固まった後、無遠慮に近づいてくる人物から逃げるようにしてベッドの反対側へ後ずさる。
「あぇ!?」
勢い良く下がりすぎてベッドの縁から手を滑らせた私は、間抜けな声を出しながら後ろ向きに落ちそうになる。
慌ててベッドを掴んだが、悲しいかな、一歳半の握力では如何ともしがたかった。
(あー、これは落ちるな。頭から。どうか馬鹿になりませんように……)
普段なら頭を庇うなり手をつくなりするのだが、上手く体が動かない。痛みに備えて僅かに体を強張らせ、目をギュッと閉じる。
「危ない!」
先程の子供と思しき人物の声がしたかと思うと、誰かに後ろから優しく抱きかかえられていた。
「あなた、大丈夫?」
「え? ええ、あ、はい。大丈夫、です。おかげさまで」
落ちそうなところを助けてくれた人物の声が部屋に入ってきた子供と同じことに動揺してしまう。
(あれ? さっきまであそこに……って居ない……)
「そう、ならいいわ」
女の子だろうか?
彼女はそれだけ言うと私をゆっくりとベッドに戻し始める。
その時部屋に明かりが点いた。
私の脇の下を持っている彼女の顔がすぐ目の前にあり、彼女の大きくパッチリとした目が私を見つめていた。
(まつ毛長っ!)
子供のくせにツケマでもしているのかと思うほど長いまつ毛は、違和感なく自然な感じで、つり目気味のキリッとした顔に良く似合っている。
彼女の第一印象はまつ毛だったが、全体的には“真っ赤っ赤”というのが率直な感想だ。
赤い瞳に赤い髪、黒い生地に赤いレースや模様の入ったドレスを着ていて、やはり似合っている。
目が会うこと数秒、私はそっと視線をそらす。
(流石にジロジロと上から下まで見たのはまずいよねー。うぅ、なんか話しかけづらい)
身体がベッドにのせられたので両手でその感触を確かめ、顔を上げると……まだ見られていた。
なんというか、すごく居心地が悪い。
医者を受診した際に顔のどこかしかを観察されることがあるが、あれに近い気がする。私を見ているのに見ていないような……そんな感覚。
「あ、あのー……」
「あなた、婚約者は?」
「へ?」
この子は婚約者と言ったのだろうか?
うん、言った気がする……。確かに言った。
って、そんなもんいるわけ無いでしょーに!
なんなの? 馬鹿なの? もしかして相当なおませさんですか?
私もあまりに唐突な質問で、投げかけられた質問の意図が読めず素で返事をしてしまった。
「だから、婚約者はいるのかって聞いてるのよ!」
私がすぐ答えないのがもどかしいのか、真っ赤な少女が地団駄を踏んでいる。
(あ、さっきよりも目がつり上がってる)
「あなた今自分がどういう状況に置かれてるのか分かっているの? ここから放り出されたくなかったら、さっさと質問に答えなさい!」
幼児の胸ぐらを掴んでガクガクと揺すりながら脅しをかけてくる彼女の顔は真っ赤になっていた。
(よし、さるぼぼちゃんと呼称しよう)
きっと幼児に向かって真面目に話しかけている自分と、話している内容に羞恥心が膨れ上がっているのだろう。私が答えないからなおさら我慢ができないと行ったご様子。
いくら不躾な質問で、色々と説明がすっ飛んでいて、胸ぐらをつかまれて脅しをかけられていても、危ないところを助けてくれた恩人の、それも少女に恥かしい思いをさせるのは紳士としてよくないのでそろそろ答えるとしよう。
「すみません、いきなりだったのでおどろいてしまって。きまったおあいては、まだいませんよ」
「そう! なら話は早いわ、よかった!」
「どういうことでしょうか?」
話の流れが見えずに真意を問う。
彼女は腰に徹を当て、私を指差して、未だ赤い顔で私にこう言った。
「あなた、私の夫になりなさい!」