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ジェイムス=コルトー、立つ



 コルトー侯爵家。


 セント王国東部、シルビウス大渓谷とセントラリス川に挟まれた肥沃なブローカ平野一帯を領地とする侯爵家で、資金力では国王に勝るとも言われている。

 この国でやっていきたいならば神と王とコルトーには逆らってはいけない。

 そんな誰しも知っている家で長男が生まれたという話は、瞬く間に国中へと広がった。どうやら悪魔憑きらしいという噂話とともに……。



  ◆  ◆  ◆



「コルトー卿の長男が教会に洗礼を拒否されたと言うのは本当か?」


 ロココ様式の装飾過多な部屋で、同じく装飾過多の椅子に腰掛けた初老の男がそう問いかける。


「はい、陛下。確かな情報にございます。なんでも悪魔憑きであったとかで、教会のエクソシスムも効果がなかったようです」


 返事をしたのはパパニコール伯爵。ジュストコール、ジレ、キュロットのロココ三点セットを着こなしたモノクルの似合う人物で、国王の側近である。


「教会としては自分たちの手で悪魔を祓い、恩を売りたかったようですが、手も足も出なかった上に乳母が解決してしまったようでして……」

「臍を曲げたか」

「おそらく」


 国王は苦虫を噛み潰したような顔で、銀の盃に入れられたぶどう酒を一気に呷る。


「相変わらずだな。それで?」

「一応働きかけましたが、今回は話が広がりすぎているため彼らも頑なで。ひとまず神敵扱いは決してせぬようにと言い含めてあります」


 教会は時折、神敵と称して邪魔者を排し、財産を没収しては私腹を肥やしていた。

 仮に今回の件でコルトー侯爵家の長子を神敵認定しようものなら、国王は経済的な影響力の強い侯爵家とセント王国に深く根を張る宗教の板挟みとなる。だが、どちらに付いたとて碌な事にならないのは目に見えており、なんとしても回避したい事態だった。


「そうか……ならいい。ああ、ところで結局原因は何だったのだ? その乳母も相当高名な術師か何かなのだろう?」

「いえ、それが……乳母は普通の娘らしく、なんでも件の子供と話をしただけであるとか」

「なに? まさかそれを鵜呑みにしたわけではあるまい? 実際はどうだったのだ?」

「申し訳ありません、それ以上の情報は得られなかったのです。信じられないことではありますが、非常に賢い子供で本当に会話を理解するらしいなど、眉唾の話ばかりでして……」

「侯爵の手が回っているということか……。乳母含め、引き続き調べよ。教会にはよく鼻薬を聞かせておけ。動きがあればすぐに知らせるように」

「はっ」


 パパニコール伯爵は一礼すると静かに退室していく。

 それを見送った国王は、おもむろにぶどう酒の瓶を手に取る。

 一級品ではないが、味は負けていない。むしろ一般人でも手の届くことを考えれば素晴らしい品質だ。王国中で愛飲されているこのぶどう酒を、彼もよく好んで飲んでいるほどである。

 瓶のラベルには、盾にグリフォンと麦の穂をあしらった紋章が描かれていた。

 それを見て「これもそうだったな」と、酒をコップに注ぎながら嘆息する。


「乳飲み子が言葉を理解する、か。それが本当なら我にとっては本物の悪魔より恐ろしいな」


 彼はそう呟くと、早く喉元を過ぎてしまえと言わんばかりに一気に酒を呷るのだった。



  ◆  ◆  ◆



 コルトー侯爵領の首都ナベリアは、ブローカ平野の中心に位置する小高い丘にある城郭都市で、周囲には広大な穀倉地帯が広がっている。四方にある城門から伸びる大通りは内壁を通り、合流しながら領主が住まう城へと続いており、道中は活気にあふれていた。

 ナベリア城は実用的ながらもゴシック様式の影響を多分に受けた造りになっており、重ねてきた歴史が見る者に荘厳な印象を与える。

 そんな城内の一室で、領主の長男であるジェイムス=コルトーの非常に重要な挑戦が行われていた。



 紳士とは、所作一つ一つにも気を配るものである。


 立ち姿、歩く姿、着座姿勢、テーブルマナーや食事姿、寝姿など、有意識無意識問わずそれを見たものに不快感を与えず、むしろ手本となるような動きを心掛けねばならない。

 そのためにはまず、自分ひとりで歩行や食事、排泄等ができなくては話にならないであろう。


 私、ジェイムス=コルトーは乳児期を無事乗り切り、現在幼児期に突入したばかりである。本来ならばまだそれらを焦る時期ではなく、むしろ介助されるのが普通の時期だ。

 だが私には精神と肉体の大きなギャップがあるため、精神衛生上あまり悠長なことはしていられない。少なくとも卒乳と排泄関連は早急になんとかしておきたいのだ。

 乳児期の失敗の数々は、セザンヌのおかげもあり致し方ないと頭ではわかっている。わかってはいるが、理解するのと許容するのには感情という大きな隔たりがある。

 『人間は感情の動物である』とはよく言ったもので、同時に『人間は感情を制御しうる生物』であるとは言え、それは中々に難しいことだと日々痛感している。精神遅滞はあっても理解力や理性の発達が早まることが無いという事が、馬鹿にできないほど重要な事だと思うようになったのは言うまでもない。


 さて、そういった理由から私は急いでいたのだが、意思疎通がある程度可能なセザンヌのおかげもあって当初は順調だった。しかし知能の発達程度だけでは如何ともしがたい問題にぶつかったのが二月ほど前である。

 離乳、卒乳は私が望んでいたこともありかなりスムーズかつ早期に終えることができたのだが、一人歩きで躓いた。精神の発達が終了している以上脳神経系の発達は終わっているものとばかり思っていたが、歩くどころか独り立ちも中々に難しかったのだ。

 思い返してみれば、原始反射があったおかげで無意識に授乳もできたのだと今更ながらに気づいた。

 誰しも一度は経験するだろうこととは言え、成人が「さあ、どうぞ」と乳房から母乳を吸わされても、よっぽど特殊な趣味をお持ちでなければできないだろう。因みにそういった趣味趣向はエリートの方々に多いらしいが、私は断じて違う。

 そして、脳神経系の発達に加えて問題だったのが筋力である。

 正常な発達段階を一足飛びに進もうとしていたことが原因で筋力が追いついていなかったのだ。そのため、脳神経系の発達を待ちつつ私は暫く筋トレに明け暮れる毎日を送ることになった。

 初めは部屋の中をひたすらグルグルと這い続ける私を見て、家族や使用人どころかセザンヌまで驚き目を丸くしたが、拙いながらも話せるようになっていた私が説明すると納得し、協力してくれるようになったのには素直に感謝した。ただ、やり過ぎて手足がすりむけた時は説教を受けたが。


 そして待つこと約二ヶ月……私は、帰って来た!

 時刻は早朝。そこは子供部屋からトイレへと続く長い廊下である。

 床には足が沈み込むような赤いカーペットが敷かれ、片側の壁には丸い瓶底のような硝子がいくつも嵌った縦長の窓があり、柔らかな丸い光が反対側に飾られた絵画などの美術品を照らしている。

 この風景を見るとあの日のことが思い出される……。

 二月前私はこの場所で失敗した。それはもう盛大に。

 あの時も私は、起き抜けにトイレへ行こうとしていた。いけるだろうとの勝手な思い込みからセザンヌを伴わずに行ったことを今でも後悔している。

 だが今ここに、かつて「あいるびぃーばぁーっく」などと呟きながら、カーペットに広大なシミを作って半べそで力尽きていた私はいない!


「坊ちゃま、頑張ってください!」

「ジミー、頑張って!」


 私が忌々しい過去を思い出していると、すぐ横についているセザンヌと母様が両側からエールを送ってくれる。因みに父様は、こちらに来るために急いで今朝の仕事を処理しているらしい。

 元気よく「はい!」と返事をして前を向く。まずは立ち上がることからである。

 前のめりの姿勢からゆっくりと立ち上がる。これは問題ない。以前はここから多少歩いたところで進めなくなったのだ。

 ゆっくりと一歩一歩確かめるように歩いていく。


「まぁ……まあまあ!!」


 気の早い母様はもう感激されているが、本当の戦いはここからである。

 毛の長いカーペットは転んだ時の保険にはなるが、幼児が歩くには難易度の高い地形のため気が抜けない。時折ふらつきながらも、なんとか二本の足で歩いて行く。

 ヨタヨタと歩く様は私のイメージする紳士のそれとはかけ離れているものの、今はこれが精一杯なので致し方ない。

 時折ふらつく私に息を呑む二人を引き連れて、遂にトイレの扉前までやってきた。

 落ち着いた色合いで、木彫りの装飾がなされた重厚な扉の前に立つ。

 一見重そうだが、蝶番に油をさしてもらっていれば体重をうまく使って開けられるのは確認済みであり、これを開けるまでが今回のミッション内容である。


「いきます」

「「っ!!」」


 見守ってくれている二人が息を呑む。

 小さくも大きい一歩を踏み出せたことに少なく無い感動と達成感を覚えながら、全身を使って扉を開け…………。


(あ、開かない!?)


 再び開けようとするも、扉はびくともしない。

 予想外のことに一気に焦り、緊張してしまう。そのせいで膀胱がもう限界寸前である。


(ま、まずい……!)


 祈るように取っ手を引くが、やはり開かない。というかもうそれどころではないほど限界が近かった。


「ぼ、坊ちゃま! 大丈夫ですか!?」

「ジミー!?」


 異変に気がついたセザンヌと母様が駆け寄ろうとしたところで、ダムが決壊した。


「う、うぅ……」


 水たまりでうずくまる私になんと声をかけて良いものかと戸惑う二人は、ふとトイレを見やり戸を開けようとして……。

 戸が独りでに開いた。否、開けられたのだ。今の今まで用を足していた父様によって……。


「ん、何してるんだ? あ、そんなことよりジミーのあれはもう終わってしまったか?」

「「「…………」」」


 急激に鬼のような形相になっていく母様にたじろいだ父様は、ワンテンポ遅れて足元にいる涙と鼻水と小便でぐちゃぐちゃになった私に気がついた。

 その時の彼の表情といったら……なんというか、筆舌し難いものだった。

 そこからのことは言うまでもないが、私は殺人アンドロイドのセリフを再び呟くこととなり、父様は……ぐちゃぐちゃになってしまわれた。




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