3.伝説の鯉のぼりの話
「……嵐の中突風でもみくちゃにされながら、兄さんは見た。稲光の中をものすごい速さで狂ったように踊り暴れる龍の姿を。吹きつける雲と雨とかきわけかきわけ、兄さんは死にもの狂いで龍に近づいていった。
牡鹿のように太く立派な角、鬼のようにギラギラした目玉、鷹のように鋭い鉤爪を持ち、口もとの長い髭と体をムチのようにしならせていて、見るからに恐ろしく、魅惑的で、鯉のように美しいウロコを雨で濡らして輝かせながら、兄さんを威圧した。
『なんだ小僧、このわしに用があるのか?』
龍は地鳴りのような低い声で言った。
『はい、俺、どうしても聞きたいことがあって、はるばるこんなところまでやってきました』
兄さんの声は少し震えていた。一歩間違えばあの鋭い5本の鉤爪でビリビリに引き裂かれるかもしれないという恐怖と、まさに雲の上のような高貴な存在と言葉を交わしているという興奮で。
『わしにここまで近寄ってくるやつは久しぶりだ。なかなか骨があるじゃないか。聞きたいこととはなんだ、言ってみろ』
『はい!俺は、こんなちっぽけな鯉のぼりですけど、もっと自由に飛び回れるようになりたいんです。今は風をよんでうまくそれにのるしかないけれど、自ら風を呼びおこすことができたら、どんなにいいかって。それで、それで……もともとは鯉だったけれど、今では強大な龍になったひとがいるって聞いて、来たんです。こんな俺でも、龍になれる方法があるのか、聞きたくて』
『なるほど。お前は畏れ多くも、わしのような龍になりたいというわけか……』
バリバリッと雷鳴が轟く。
兄さんは思わず『ヒッ』と首をすくめた。風に押し流されそうになる。
やはり怒らせてしまった。糸くずのように引き裂かれ、天空にばらまかれるのを覚悟した。
ゴロゴロ、ビカッ、ピカピカッ
ひときわ大きな稲妻が天を切り裂く。
『ハッハッハ、面白いやつだ。お前はもうわしが起こした嵐の中を泳ぐ力を持っているのに、まだ足りないというのか。下手したら地上に叩き落とされるとは思わなかったのか?』
『それも覚悟の上です』
『なんとまあ、度胸のあるやつだ。それともただの馬鹿か?まあいい、そこまで知りたいというなら教えてやる。一介の鯉にすぎなかったわしが、どうやって龍になりおおせたか』
龍はたてがみをなびかせ、語った。
『ここからずーっと海上を西へ進んでいくと、渤海湾に注ぎ出る黄河という濁った大河がある。その河に沿ってまたずーっとさかのぼっていくと、上流に竜門と呼ばれる急流がある。これがとてつもない激流なのだが、登りきることができれば龍になれるのだ。まあ、ほとんどのものは凄まじい流れに耐えられず、途中であきらめるか、力尽きて溺れ死ぬのがオチだ。どうだ、こんな話を聞いても、龍になりたいか?』
『はい!もちろん!』
兄さんは迷わず答えた。
『ハッハッ、そうか、では行くがいい。身の程知らずの鯉のぼりよ』
『はい、必ず登りきって、いつかまた挨拶に来ますよ』
『ふん、どうせ泣きべそかいて逃げ帰ることになるだろうが』
『いや、俺は泣いたりしません。代わりに泣いてくれるやつがいるんでね。そいつが、俺の新しい武勇伝を待っているんでさぁ。じゃあ、そういうことで』
兄さんはひらりと身をひるがえすと、雲の下に向かって一直線に下降した。風と雨粒が後ろから矢のように追い立ててきた」
ぼくはそこで言葉を切った。
「はい、おしまい。今日はここまで」
「えー、すごくいいところじゃないの。もっと続けてよ」
妹が不満げに尾びれを震わせる。いつの間にか庭の木や草むらや竿につかまって聞きいっていた聴衆も、同じように野次を飛ばす。
「仕方ないだろう?この先はぼくもまだ聞いてないんだよ。それじゃ、ただの作り話になっちゃう」
「バカねえ中兄ちゃん。こんなお話、本当なわけないじゃない。大兄ちゃんが大部分を脚色してるに決まってるわ。だからどっちみち、大差ないわよ。大兄ちゃんのホラ話か、中兄ちゃんのホラ話かっていう違いだけよ」
「なっ、なんてこと言うのさ!ぼくは作り話をしているつもりはちっともないからね!ぜんぶ、友だちのスズメくんたちから聞いた本当の話さ。スズメくんはムクドリの群れから、ムクドリの群れはハトさんから、ハトさんはカラスさんから、カラスさんはカモメさんから聞いたそうだけど」
「遠すぎるわよ!どう考えても途中で尾ひれがついてるわ。だいいち、肝心の大兄ちゃんとはどこでつながるの?」
「それが、兄さんときたらあちこちで自分の武勇伝を披露してまわっているらしくて、どうもはっきりしないんだ。だからまあ、いろんな話を総合するとたぶんこうなるだろうってことを……」
「ほら、やっぱり作り話じゃないの」
「失礼だなぁ。せっかく一生懸命つなぎ合わせているのに……」
そこへ、「おーい!!」とスズメくんが騒がしく飛びこんできた。
「新しい情報が入ってきたよ!なんでも君のお兄さんは……」
そこで、はたと周りの視線に気づく。
「あれ、ごめん。今お話してる真っ最中だった?」
「かまわないわ!大兄ちゃんがどうなったのか、早く教えて!」
「だめだめ、大事な筋を先に言われちゃ、楽しみが半減するじゃないか。スズメくん、ぼくだけにこっそり聞かせて」
「あっ、ずるーい!」と妹がむくれている傍らで、スズメくんがチュンチュンと囁きはじめる。
「……えっ、うそ、ホント!?そいつはすごいなぁ……」
するとあちらこちらで今後のお話の展開の予想が飛び交う。
「間違いない。我が息子は登竜門を突破し、龍へと変貌を遂げたのだ!」
「いやいやダンナ、気が早いですぜ。アニキならまずは海を渡るときの冒険譚を聞かせたがるはず。もしかすると、方角を間違えてクラーケンに出くわしていたりするかもしれねぇ」
「なるほど……そいつは面白そうだ!」
「縁起でもないこと言わないでちょうだい!とにかく、無事でいてくれたらそれでいいわ」
ワイワイ、ガヤガヤ。
庭のポールを中心に広がるにぎやかな輪。
兄さんは今もどこかの空を泳いでいるのだろうか。それとも、海の中だろうか。
どちらでもいいけれど、兄さんがここから遠く離れていくほどお話の伝達は遅く、内容は大げさになっていく。倉庫にしまわれる前に今年1年分の話ができるといいのだけれど、難しそうだなぁ。
そしてもしも妹の言うように、話のほとんどが兄さんの作り話だとしても、今やすっかり故郷の英雄となっていることにはさぞかし満足していることだろう。
「……ねぇ、ボクの話聞いてた?」
スズメくんがチュンチュンとぼくをつつく。
「あっ、ごめん。もう一度頼むよ」
「しょうがないなぁ。一体どこまでさかのぼればいいの?」
「えっと、雲の下へ下降した兄さんが海中にダイブしちゃったところから」
「それ、いちばん最初じゃん!もう、今度こそよーく聞いててね。初めて海の中を泳いだお兄さんは……」
ふわりと初夏の心地よい風が吹く。
竿のてっぺんの回転球と矢車が、カラカラと楽しげに回転する。
今年のゴールデンウィークも、終わりに近づいている。