プロローグ
僕が彼女と最後に話したのは、去年の十月の放課後だった。
その日、僕らはいつものように正門前の梅の木の前で待ち合わせをしていた。待ち合わせに遅れてしまった僕を一瞥すると、彼女は僕の少し先を歩き始めた。
「最近寒いわね」
寒い中帰らずに待っていてあげたんだから、少しは労いなさい。その言葉にはそういう意味が込められている。
彼女はいつも、こういった含みのある話し方をする。僕自身は彼女の話し方を特に不快に思ったことはないが、時折難解すぎる彼女の言葉に、周囲の人は理解を示さないこともある。というか、その方が多いと言っても言い過ぎではない。
「担任に捕まっちゃってさ。待たせて悪かったよ」
素直に謝る僕だったが、彼女はそれには答えず、僕の少し先を歩いていく。
同級生から、彼女との仲をからかわれることが、しばしばあった。しかし、僕らは世間一般の高校生が憧れるような甘く切ない関係とは無縁だった。
そのような関係に至るには僕らはあまりにも多くの時間を幼馴染として過ごしてしまったからだ。たとえ恋愛関係に至ったとしても、キスやハグをすることが日常生活に追加されるだけであって、ほとんど変化がないだろう。
平日に一緒に帰り、テスト前には勉強を教え合い、休みの日にお互い暇となると、図書館で共に本を読んで時間を潰す。僕らはそんな関係だった。
小学生の頃に知り合い、中学、高校と続いてきたこの腐れ縁は、いよいよ腐臭を発しそうなくらい本格的なものとなってきた。
僕はそんな彼女との繋がり方が好きだった。
※
十月の風は冷たい。彼女には、一応遅れると連絡はしてあったが、ずっと外で待っているとは予想していなかった。もしかすると、僕に罪悪感を与え、見返りに何かを要求する口実を作るためなのかもしれない。
そんな失礼なことを考えながら少し前を歩く彼女を見つめていると、彼女は前を向いたまま話しかけてきた。
「あのさ」
そう言うと、彼女は言葉に詰まってしまった。
「どうしたの、黙っちゃって」
これは少し珍しいことだった。沈黙が痛かったので、僕は尋ねた。
「…やっぱりなんでもないわ」
これは腐れ縁の僕でも本意を汲み取るのが難しかった。
その後は、内容のない世間話や身の上話を適当に並べながら、僕らはまたいつものように互いの時間を潰し合った。
付き合ってもいない男女が毎日のように一緒に帰っているのは、同年代の若者の感覚からすればおかしいことなのかもしれない。それゆえ、所謂コイバナの話題として僕らが挙げられたりするのだが。僕らにとってはこれが小学生からのルーチンワークとなっているから、一緒に帰るのは至極当然のことで、それを疑ったことは一度もなかった。
最初は愛の言葉を囁き合った恋人たちが、日を重ねるとともに話題に困窮し、体を重ねることしかすることがなくなるのに似ている。
僕らはお互いのことを知りすぎていて、それ以上知ることはないと思っていた。そのため、自ずと会話は減り、一緒に帰るという行為だけが、一種の儀式のように残っているのかもしれない。
明日も明後日もまた変わり映えなく彼女とともに時間を過ごし、或いは、卒業してからもなんだかんだと腐れ縁が続くんだろうな。僕は無根拠にそんなことを考えていた。
その頃は日が短くなって、辺りが薄暗かったのを覚えている。彼女はふと足を止めて僕が追いつくのを待った。僕が彼女の隣に並ぶと、彼女は不敵な笑みを浮かべながら話し始めた。
「ねぇ、明日購買のパン奢ってよね。それで遅れたのはチャラにしてあげる」
「随分と安売りしてるんだな、お前の気持ちって」
「女の子の気持ちなんて、安っぽいものよ」
彼女は遠くを見るような目をして僕を見つめた。
彼女の瞳は、黒い。この世の全て黒いものを並べた博覧会があったとし
て、その中でも彼女の瞳は審査員最優秀賞を受賞してしまいそうなくらいだ。
しかし、その日はどうしてか、その黒さが健在ではなかったように思えた。
「パン忘れないでよ。じゃあね」
そう言って彼女はまた僕に背中を向けて歩き出した。
※
その日以降、彼女は僕の前に姿を現わすことはなかった。
深夜になっても帰宅しないのを彼女の母が心配し、警察に捜索願を出す大騒ぎになったらしい。ここで僕が「らしい」という表現を用いるのは、それらはすべて僕が彼女と一緒に帰った後、その日の夜の間に起こり、解決してしまったからだ。そこに僕の介入の余地はなかった。
彼女は死んでしまったらしい。
僕が言えることは、この言葉に尽きる。
僕らの腐れ縁はそこで唐突に終焉を迎えたのだ。