蝶に恋をした蜘蛛
授業中、何事もなかったかのように雲原は授業を教室を飛び出していつもの屋上に来ていた。
高い防止用フェンスを背に適当に腰掛けると窓から見える空とは違い大空が広がっていた。息が詰まりそうだった教室も、人も、そこに居るだけで目眩がした。視界が遠くなり頭が可笑しくなりそうだったのにここは違う。
今頃、きっと“彼”が先生に言われるがままに此処へ向かっているかもしれないと曇原はふと思っているど案の定そうだった。
「お前、そんなに空を見上げてて飽きないのか?」
来たのはやはり彼“野森”だった。彼の声が屋上に響く。横目で彼の顔を確認すると渋面の面持ちでこちらを見ているのが窺えた。
暫く、何も反応を返さずにいると自分が動かないのを看かねて野森は溜息を吐いた。ゆっくりと雲原の方へ近づきて「全くお前は……」と座り込んで居る目の前に立ち顔を覗き込んで来た。彼の顔立ちは相変わらず中性的でどこか日本人離れしている。その整った外見は“綺麗”だと誰もが思っているだろう。雲原もその一人だ。
問い掛けに遅れて「綺麗なものは好きなんだ……」と答える素振りを見せながらそっと彼の髪に触れようとするが、逆にその手を絡み取られるように掴まれてこう言われた。
「じゃあ、なんでだ?なんで、また俺がお前を呼びに来なきゃならない?」
「それってあの先生が“綺麗なもの”に入ってるってこと?」
「そうだな。そうとも言える」
「そうなの?僕には理解できない」
「結構、男子の間では人気あるぜ?スタイル抜群でちょっと天然な所とか……中学男子の妄想は膨らむだろ?」
「……君はそういうのがタイプなの?」
「いや?タイプがどうのとか興味ない」
「君って外見は良いのに中身は駄目だよね。でも、そんなとこ嫌いじゃない」
「褒めてるのか貶してるのかどっちだよ」
呆れ気味に野森は雲原の横に腰掛けた。
一瞬、雲原の心の内で隣の彼がそんな冗談を言うものだからあの先生に興味があるのかと動揺しつつ胸を撫で下ろした。
「……どっちだろう?」
「それは俺が言いたい台詞だ」
野森は溜め息混じりに吐き捨てる。
この二人の時間が雲原にとっては一番好きな空間だ。しかし、雲原が好き好んでここに居るわけでも問題は他にもあって理由はもっと別に存在している。
「……教室には僕の居場所はないよ」
「まだ、言うか…。お前が求める居場所ってなんだよ」
「………なん、だろ…?」
「結構はわかんねぇのか!アホだ!いや、馬鹿か?」
「流石にアホまで言われて馬鹿まで言われると凹むんだけど…」
「みんな言ってる。お前は“蜘蛛”みたいな奴だって…」
「うん。知ってる」
「なんでそんなに蝶を捕まえてコレクションしてんの?」
「………綺麗だからかな?」
「俺は嫌いだ」
「嗚呼、キミは“蝶”だもんね」
「それもあるから嫌いなんだ」
「ふぅん、悪くないと僕は思うけど…」
「お前、喧嘩うってんの?」
「…別に」
そう言い切ると急に会話は途切れてた。野森が蝶と呼ばれる理由は名前が“蝶”と書いて“てふ”だったからだ。今時なら普通に可笑しくもないが“蝶”なんて変わっているので転校初日から『蝶々夫人』や『お蝶さん』だとかあだ名で呼ばれるようになった。それとあの顔立ちで気立ての良さから彼は学校では目立つのだ。
「ねぇ、どうしても戻らないと駄目?」
「駄目だ。少しは俺以外との交流意識を持てよ」
「コミュニケーション苦手なんだ」
「今、俺とコミュニケーションしてるのは何て説明する?」
「じゃあ、キミ以外の人間が嫌いで友達作る気にもなれない」
その言葉に野森が引き攣った形相をしながら「あ―……はいはい」と聞き流されてしまった。思えば、先日の答えも聞いていなかったが相変わらず自分と普通に接してくれる野森は不思議でならない。もしかしたら、先日の事なんか忘れているのかもしれなかったがそれはまた別の時にでも聞こうと思った。そうこう考えている内に野森が隣から立ち上がって砂埃を手で祓うと黙って背を向けて屋上の入り口に向かって歩き出した。これもいつものこと。切りのいい所で自分の様子を見計らったように出て行こうとするのだ。それは雲原が野森について来るという確信が彼の中にあるからなのか勝手に誘い出されているのかは不明だが、その様子を追って行くように雲原は野森の後をつけて歩きながら擦れるような小声で「真剣なんだけどな……」と聞こえないように呟いたはずだったがどうやら聞こえていたらしく彼が突然に足を止めてこう言った。
「……どうだか」
そう吐き棄て振り向いた野森の表情に、ふと時間が鼓動が一瞬だけ止まったのかと思った。その表情があまりに鮮明に見えて胸の鼓動が高鳴るのを感じた。まるで蜘蛛の巣にかかってしまったのは最初から自分であるかのようだった。
(でも、僕は君以外のコレクションなんて本当に要らないよ...)
高い所へ巣を張って待っていたのは蜘蛛の方だと言うのに――……