4話
静かな図書室に本のページをめくる音が響く。朝の早い時間で、大抵の人はまだ寝ている筈なのに、彼はもう何時間もそこにいる。
今の時代、液晶パネルで見る電子書籍ばかりで、一般家庭には本はほとんど無い。だが、監獄の図書室には、絵本や図鑑といったものから歴史等の資料など、さまざまな種類の本が収集されていた。
疾風が読んでいるのは古文書だった。
“夕闇”のチームカラーである黄色の服ではなく、パジャマーー白のパーカーに黒のサルエルの疾風。寝る間も惜しんで資料となる古文書を片っ端から漁る。広めのテーブルの筈なのに、疾風が陣取るそこは付箋の付いた本でいっぱいだった。
「めんどくせえな、どこにあんだよ…」
ガシガシと頭を掻くと、前髪を留めているピンが音を立てて落ちた。ピンを拾う気にならず、長めで少し邪魔な前髪をかきあげる。
ふわ、と珈琲の匂いが部屋に漂った。ドアの方を見ると、木製のカートを押した氷月と目が合った。氷月は何も言わずに疾風の所まで歩き、資料を片付ける。
「どうです?お目当てのものは見つかりました?」
天窓から少しずつ入ってきた朝の光に照らされた氷月。ゆっくりと珈琲をマグカップに注ぐ。ほんのりと甘い香りがした。
「砂糖の摂取量、考えて下さいねぇ…」
紫ドットのそれの横に薄ピンクのビンに入った砂糖を置く。ティースプーン山盛りを3回入れて、かき回した。あからさまに嫌な顔をしている氷月をよそに、疾風は甘い珈琲を口に含む。
いつも以上に糖分を欲していた彼にはまだ少し、苦いような気がした。
「それで?私達は何をどうすればいいのよ」
図書室には“夕闇”と“深紅”がいた。
梨乃は頬杖をつきながら、疾風のまとめた資料に目を通して言った。
太陽が昇り、少し眩しい。ちょうどいい室温で、眠気が一気に襲ってきた疾風は欠伸を噛み殺し、目をこすった。
「そんなに急がなくても大丈夫じゃない?だってさぁ」
言ってから白夜はオレンジジュースを飲み干した。
疾風と比べても、梨乃と比べても少し小さな手を出して、指を3本立てた。
・まだ大半の妖が活発化していないこと
・死者が出る事件は1ヶ月に1回しか起こらないこと
・<暁>がそれほど動き出していないこと
この3つをあげると、白夜はドヤッと得意げに梨乃を見上げた。だが梨乃は湯気の出ている紅茶の入ったマグカップを持ちながら遠くを見ているだけだ。
「違うの」
凛とした声が響いた。
「見えないだけ。ほとんど直接的な害が無いだけなの。…そうよね、愛蘭」
華蘭は小さく、でもはっきりと、人形の愛蘭へ向けて声を上げた。
「하지만 무서워서…」
ぎゅっと愛蘭を抱き締めて震える華蘭の肩を梨乃は抱くと、トントンと一定のリズムで肩を叩いた。
「괜찮아,화란.」
「진짜?」
「물론.」
「…ありがとう、梨乃」
「僕もいるよ!」
さっきまで黙っていた白夜が身を乗り出す。
華蘭と白夜は犯罪者だとしても、監獄の中では最年少の15歳。華蘭は幼い頃から韓国マフィア幹部として生き、母国から離れひとりぼっち。白夜は生まれてすぐ両親が他界して以降、愛と温もりを感じてこなかった。
梨乃はそんな2人の姉だった。こうして夜叉がまとまっているのは、梨乃のおかげ。でも、1番助かっているのは彼女じゃないか、と疾風は思う。
マフィア幹部の華蘭と能楽宝生流次期当主の白夜。愛情は乏しくても、能力や知識は誰にも負けることはないだろう。
夜叉は何故か能力面でも知識面でも体力面でも、どれか1つが必ず抜け出ているメンバーだけ。
「…俺も頑張らねえとな」
眼鏡を掛け、冷めた甘い珈琲を飲み干す。
疾風は立ち上がり、資料で埋もれたテーブルへ向かう。椅子に手を掛けると、あ、と何かを思い出して、戻ってきた。
「梨乃、いつも助かってる。ありがとな」
クシャっと梨乃の頭を撫でると、疾風は照れ臭いのかすぐに席へと向かった。
氷月は梨乃→疾風→梨乃→疾風と交互に見た。白夜と華蘭も同じように交互に見ると、梨乃の頬は林檎のように赤く。平然を装う疾風の耳も彼の赤い髪よりもさらに赤く染まっていた。
「そういうのもいいけれど、まだまだ資料はたくさんあるわよ?」
甘酸っぱい空気を断ち切るかのように大きな音を立てて、ドサッと資料を置く。しかし、わざと音を立てているつもりはないのだろう。綺衣が運んできた資料はそれだけの量だった。
「初々しい疾風くんも可愛いわね」
ふふっ、と笑う綺衣を見て、語尾にハートが付いていても不思議はないだろうな、と頬を遊ばれながら疾風は思う。
頬で遊ばれて、綺衣らしくない香りが鼻孔をくすぐる。
ーー知っている、ふんわりとしたユリの香り。
「綺衣、リリーに会ったのか?」
レモングラスの爽やかな香りが綺衣のいつもので、ほのかに香るのは甘ったるいとまではいかないふわふわとしたユリの甘い香り。それは昔を思い出させるブラッドリー家独特の香りで、香水ではけして調合出来ない未知なるもの。懐かしくもあり、少しの寂しさを感じた。
「リリス様にも春陽くんにも会ったわ。だってその資料、<暁>のものだもの。春陽くんはここまで一緒に来たから、てっきり面会するのかと思ったけれど」
「忙しいからなー。わーってるよ、あいつらが忙しいことなんて」
「寂しいんですか?疾風も寂しいなんて思うんですねぇ、意外です」
氷月の顔にゆっくりと笑みが広がった。
「うるせえ!」
小さく肩を震わせて笑う氷月に、疾風が食ってかかる。
「あんたが煩い」
静かな、でもよく通る声が聞こえた。
ドアに寄りかかり、液晶パネルを操作するスーツの女性。看守の1人である、香月愛衣はパネルに目を向けたまま話し出す。
「私は読み上げるだけだから文句は聞かないよ。“夜叉全員集合。速やかに移動しろ”だって」
「世良くんからぁ?」
「ううん、看守長から。ほら、早く移動するよ」
“ブラッドプリズン”看守長。監獄を支配する存在。
「めんどくせえな」
「同意です」
気乗りしない疾風の横で、氷月は両手をズボンのポケットへ滑らせた。が、するっと綺衣がそれを拒む。
「疾風くん、相手してくれないんだもの。つまらないじゃない?」
「綺衣の相手は僕程度に務まりませんよ」
そんなことないわ、とやや強引に腕を引っ張る彼女に呆れつつ、隣へ並ぶ。怒られても知りませんから、右京は怒らないわよ、どうですかねぇ、どうかしらね、その会話には少し棘があった。まるで喧嘩しているカップルのような、仲の良い友達との些細なことから始まった愚痴の言い合いのような。
「あー…いいのよ、放っておいて。行きましょ」
ぽかんと2人を眺める華蘭と白夜の背中を押して、梨乃は付き合っていられない、とでも言うように歩いていった。
音を立て、扉が閉まる。
先程まで疾風が見ていた厚い本、飲みかけの珈琲、綺衣が運んできた資料の束。
山の中に作られた監獄だが、“夜叉”の生活スペースからは外の自然が目に入る。
木々の緑、隙間から見える空の青と雲の白、太陽の光の淡い黄色。
窓から入る日光とは別に、妖しくナニカが光っていた。