下
どちらの選択肢をとっても、一緒に一つ屋根の下に住むことには変わりない・・・。
何のために、皆を説得したのか。
「は、陽斗兄さん。そんな選択をしなくても、ほら。うちは警備保障入ってるし、基本的に優斗とネットでつながってるから異変はすぐに警備に伝えられるし。夕里ちゃんのお手伝いだって頻繁に行く訳じゃないしね。」
選択肢を積まれる必要はないと杏樹は言葉をつないだ。
「マンションなら、最寄り駅まで徒歩5分で、職場まで電車で二駅。夕里の手伝いが発生したとしても、店まで地下鉄で二駅だ。遅くなってタクシーに乗ったとしてもそう金額はかからない。」
引っ越しを勧めたいのだろうか、と思ってしまう反論に、杏樹はやっぱり自分の情報は伝わっているんだと感心する。
「この家の警備保障は、確かに異変が起きれば10分で到着が警備会社のウリだが、10分あれば人は死ぬぞ?ネットで優斗とつながっていても、ネット回線の先で優斗に杏樹を見殺しにしろと言う事か?」
冷ややかな声で凄まれて、杏樹はゴクリとつばを飲み込む。
「夕里の店のイザコザって、アイツは言っていたが、イザコザは杏樹がらみだったんだろ。だからしばらくは手伝いを控えていたのに、夕里が長期海外出張に行く事になったから杏樹が店に顔を出した。そこで、加害者に手を出された。」
さすが勤務先が警視庁なだけある・・・と、杏樹は懸命に冷たい声を聞き流そうと思いを巡らせる。
対峙すると、歯がかみ合わなくなりそうなほど、冷ややかな視線が向けられているのだ。
「俺の仕事、知っていたよな。その辺の交番に言っ行ったって、ストーカー事件の大半は解決に至らないことぐらい気づいているよな?」
警察署に行ってくださいと言われて、そこで止まっていたのは事実。
駅前にある交番と違って、警察署となると遠くなってしまうので、面倒なのと、事を軽々しく考えていたのだ。
「何で、相談して来ない?」
缶ビール一本程度では、酔っぱらう事など無いのだろう。
警察署で会った時と変わらない、よりもいっそう尖がった視線で「訳を言え」と促されて杏樹は恐る恐る口を開く。
「夕里ちゃんには、お店のお客様だったのもあるから言ってたけど。時期的に北斗さんたちが向こうに行く準備していたのもあって、そうなれば陽斗兄さん、戻ってくるとか言いかねないし・・・。」
時折ぴくぴくと動く眉間に、杏樹は視線で射殺されるってありえそうだと思いながら懸命に言葉をつなぐ。
ここで言い訳を失敗すると、確実に同居に流れてしまう。
「なるべく、帰るルートが何時も同じにならないようにしていたし、本当に遅くなったら、送ってもらうようにもしていたし。何しろ相手は・・・・」
「女だから気を許していた?あの女が、男をそそのかして杏樹に襲ってきたらどうする?それこそ10分あれば息の根を止める事も出来るだろ。」
身を乗り出されて、思わず逃げ腰になった杏樹の腕をがっしりとつかまれる。
数時間前の恐怖がよみがえって、杏樹は体の震えが抑えきれなくなった。
「・・・・・・ゆ・・・」
困ったときに呼べばいつも答えてくれた頼りにしていた義兄の名を思わず呼びそうになって唇をかみしめる。
「優斗は海の向こう。で、いざという時はどうするつもりだったんだ?」
見ないふり、気づかないふりをしていた点を指摘されて、杏樹はこらえていた涙があふれるのを感じた。
人の前で、涙を溢すつもりなどないのに。
特に、陽斗の目の前では・・・。
「怒っているわけじゃないよ。どうして、俺を頼ってこないのか、聞きたいんだ。家に寄りつかないから、頼りにくいなら、マンションを引き上げて来るし。」
止まらない杏樹の涙に、陽斗は恐る恐る右手を頬に伸ばしてくる。
「ち、違うの・・・陽斗兄さんの彼女が・・・。・・・・・、か、かわいそう・・・。ここ、住んだら、あ、会うの・・・不便で・・・。」
気づかれたくない気持ちに蓋をして、同居を回避しようとだけ考えると、言葉がうまく組み合わさらなくて。
ずっと憧れていた手のひらが頬にある事にますます涙が止まらなくて。
伝えておかなきゃならない自分の『意思』がうまく伝えられない。
「泣かなくていいから、落ち着いて?」
先ほどまでと違う、優しげな声がますます杏樹の涙をあふれさせる。
ずっと、優しい声をかけてもらいたかった。
受験勉強を見てくれていた昔、憧れの手のひらは優しく頭を撫でてくれたけれど。
よくできました、と褒めてくれる声は抑揚がなくて、めんどくさい事を我慢してくれているんだといつも申し訳なく思っていたのだ。
時々聞こえる、携帯の向こうへ語りかける優しい声が、自分にも注がれると良いのにといつも思っていた。
義理の妹に、そんな声が来る訳はないのは知っていたけど、優斗がいつも優しくしてくれていたから、同じようにしてもらえるんじゃないかと期待して。
「と、とにかく。私は、大丈夫だから。北斗さんやママが帰ってくる回数が減ったようなものだから。」
「そんなに、俺の事が嫌い?俺がここに戻っても、生活リズムが違うから顔を合わす事は無いと思うよ?休みもバラバラだろうし・・・」
杏樹の拒絶に不信感を感じた陽斗は首をかしげる。
「どのみち、帰宅しても、寝に帰るだけだから、杏樹に迷惑はかけないと思うけど。」
「ち、ちが・・・う。」
涙を拭われれば、拭われただけ、また、涙があふれる。
陽斗は、ずっとそれを拭い続ける。
頬に添えられた手が、心地よくて杏樹は自分の足元が浮いている様な気分になってきた。
「違う?何が?」
ぼやけた視界を覗き込まれて、杏樹は覚悟を決めた。
「見たくなかったの。」
カタンと音を立てて、杏樹は陽斗から一歩離れる。
心地いい手のひらに縋ってしまわないように、逃げ口になる扉に視線を固定して一息つけた。
「陽斗兄さんが、彼女を連れて来て仲良くしている姿を見たくなかったの。優しい声で、彼女と電話している声を聴きたくなかったの。一緒に居ることになったら、我慢できる自信がなかったの。だから。北斗さんを説得して秘密にしてもらったの。」
距離を詰められそうになって、杏樹は扉の前に素早く移動する。
口から出る言葉は子供っぽ過ぎて、ますます陽斗に呆れられて見放されるなと思うと、止まりかけていた涙がまたあふれ始める。
「好きすぎて、一緒に住むことになったらどうしたら良いのか解らなくなるから。おかしくなっちゃいそうだから、内緒にしてたの。陽斗兄さんが誰かと結婚するまで、内緒にしてって。」
こんな義理の妹の気持ちを聞けば、気持ち悪がって呆れて、同居するなんて言ったことを後悔して、怒って出て行ってくれるだろうと杏樹はノブに手を伸ばす。
後は部屋に引きこもって、週末を過ごせば。
困り果てた陽斗は、引き上げていってくれるだろう。
ノブを引こうとした瞬間。
杏樹は伸ばした手と反対の手を強く引かれて、バランスを崩して倒れると思った瞬間。
がっしりとした陽斗の腕に抱きとめられた。
「言い逃げか?ずいぶん暴走した告白に聞こえたけど。」
頭を胸に押し付けられる形になって、杏樹は身動きが取れない事に気が付き、あきらめたように陽斗のシャツにしがみつく。
頭を押さえられてしまえば、止まらない涙は陽斗のシャツに染み込んで行く一方で。
その後の頬がひんやりとする感覚に、杏樹は正気に戻ろうと必死に呼吸を整える。
この態勢では、ドキドキしすぎて呼吸が整いそうにないのだが。
「優斗、優斗って、優斗にべったりだから、優斗が好きなんだと思って心配していたんだよ。あいつの八方美人な所に泣かされやしないかって。歳の差と言い、懐き具合と言い、俺の出る幕は無いと思って家に寄り付かなくしていたら、こんな事になってたとは思わなかったよ。」
優しく頭を撫でられて、杏樹は心の中にすとんと何かが落ちてくるのを感じる。
温かい手のひら。
少し早目の鼓動が聞こえてくる。
「ずっと見守ってきたんだよ、一人前になるまで。夕里には、それこそストーカーだと笑われながら。」
頭を撫でる手は止まらないまま、優しい声が耳元から流れてくる。
「こっちは歳の差がある分、悩んだんだ。ロリコンなのかってね。でも、中学生になる前から、慈しんできた子を誰かに取られるの見たくなくて、忙しいのを口実に距離を置こうと思ったり。それでも気になって、事あるごとに自分の好みのオンナにならないかと望みをかけてプレゼントをしてみたり。悪あがきもいいとこだ。」
「プレゼント?」
杏樹が顔を上げると、目の前では陽斗が柔らかい眼差しで見下ろしていた。
「それはおいおい、意図と共に説明するよ。」
涙が流れすぎて、ひりひりする頬を優しく拭われる。
こんな柔らかい顔、見たことないかも・・・・・とぼんやりしている杏樹の頬に、陽斗の唇が降りてきた。
「パニックになった勢いだけど、熱烈な告白、嬉しかったよ。」
右の、左の目じりに、頬に、耳たぶに・・・。
ふわりふわりと陽斗の唇が降ってくる。
ちゅっと、最後に唇と唇が重なった。
「いつか嫁に行くと思えば、心苦しくてね。どうやったら、俺の手元から離れないかないかばかり考えてしまって大変だったんだ。」
離れていく口元は弧を描いていて、目はいたずら子みたいに輝いていて。
杏樹は何が起こっているのか理解できずに、身動きもできない。
「あれ、もしかして初めてのキスとか?」
かろうじて動く口をパクパクとしながら、杏樹は必死に空気を吸い込もうとする。
「お互いに、好きすぎて、距離を置こうとしていたなんて間抜けすぎる気もするけど。杏樹、安心して?俺も、杏樹が好きだから・・・」
再び力強く抱きしめられて、杏樹はカクンと足の力が抜けていく。
「危ないなぁ。」
嬉しそうな顔をした陽斗に抱き上げられて、杏樹は眉間にしわを寄せた。
「キャラ違いすぎ。」
時折優しさを見せる寡黙な義兄だったはずなのに、と杏樹は首をかしげる。
「構いたくて仕方がなかった義妹に嫌われないように我慢していただけだけど。」
悪びれるそぶりもなく言い切られて、杏樹はあれ?と思う。
構いたい義妹は好きな相手にはならないのでは、と。
やっぱり、杏樹の想いは一方通行で終わるのだろうか。
「自分の好みに育て放題と言って、夕里にドン引きされたけど。」
リビングのソファに座った陽斗の膝の上に座らされた杏樹は困惑する。
「杏樹。好きだよ。」
改めて頬をなぞる手は、少し震えている。
「おやじに殺されるかな?杏樹の事、溺愛してるから・・・。」
真剣なまなざしに、杏樹は目頭が再び熱くなる。
そんな事、言われるとは思っていなかったから。
「は・・・る・・・」
呼びかけようにも、声にならない。
「好き。もう、置いて行かれるのはいや・・・。」
杏樹は小さな声でそう伝えると、陽斗の首にしがみついた。
トントンと背中をさすられる温かい手。
欲しかった、温かい手。
杏樹は幸せな気分がこみあげてきてふぅと吐息を漏らす。
義父より厳しい目で見ていると思う時もあったのだが・・・。
それは思い過ごしだったらしい。
そう、ほっとした途端、極度の緊張状態から解放されたのもあって、杏樹の意識はぷっつりと途絶えてしまったのだ。
「・・・・、お・・・い・・・。」
陽斗の呼びかけは、杏樹の耳に入らない。
オチはお決まり・・・・的に。